※「想い」空・桑古木編前編を御一読することをお勧めします。 |
想い -空・桑古木編- 電灯 |
――2045年9月13日―― 「じゃあな」 靴を履きながら、後ろの空に声をかけた。時刻はそろそろ日付の変わる頃になってしまっている。 「ええ、また明日」 空の姿は見えないが、笑って送り出してはくれないようだ。 「…………」 俺は、黙ったまま立って、振り向いた。そこには、不満げな空の顔。 「そんな顔をするな、空。明日だってまた……」 会える。いや、会ってしまう。 「……どうして、一回も泊まっていってくれないんですか」 呟く声はとても悲しく、美しかった。 「それは……」 毎晩……空の声を聞く度、俺はこの状況に堕ちてしまった理由を考える。しかし、それは必ず次の瞬間には打ち消され、俺はこの日常を続ける事しかできなくなってしまう。なぜなら…… 「…ん……」 俺の頭を抱きかかえ唇を重ねてくる空に対して、俺は抵抗するわけではなく……むしろ、その妖艶で甘美な唇に溺れて、しまう……から、だ…… 「…ふ……」 しかし……頭が真っ白になっていく中、俺は。 「……そ、ら……」 いつから、空はこんなにも『女』になったのか……という疑問を、ぼんやりと考えていた。 9月14日 「――だったんですよ!」 ここはいつもの休憩室。宮本さんは目を輝かせて、私の話を聞いてくれています。 「それで、その先は!? どうなったの!?」 宮本さんは、身を乗り出して続きを急かしました。 「桑古木さんったら、倉成さんみたいに微笑んで……『いいんだ』って言ってくれたんです〜!」 そう言うと……なぜか急に宮本さんは、真剣な表情になって私を見つめてきました。 ……睨んでいる、と言ってもいいくらい、強い目です…… 「空……あなた、本当に桑古木さんのことを好きなの?」 宮本さんの言葉は、私をひどく動揺させます…… 「どうして、そんな風に思ったんですか、宮本さん」 ………… 「あなたの桑古木さんの話、半分位は倉成って人の話になってたのよ。気付いてなかったの?」 ……なぜか恐くて、目をそらしました…… 「どういう、ことですか?」 私がそう言うと、宮本さんはため息をついて言いました。 「あのね、あなたが桑古木さんに一番よく使う形容詞が『倉成さんみたいな』で、一番よく使う副詞が『倉成さんみたいに』なのよ。つまり、空。あなたは桑古木さんを倉成って人として見ているってこと」 そんな、ことは…… 「私は、そんなふうに……そんなふうに桑古木さんを見た事はありません、本当です」 そっと目を戻すと、宮本さんは、じっと私を見つめています…… 「まあ、空がそう言うならそうかも知れないけど。でも、あまり人の形容に他の人を使わない方がいいと思うよ」 ………… 「あ、そろそろ時間だね。私は行くよ。あっ、そうそう。部長が空を呼んでたよ」 宮本さんは、いつもの調子で部屋を出て行ってしまいました。 …………私は、私は……桑古木さんのことを、どう思っているのでしょうか…… 「この箱は薬理で、こっちは開発……おい、これ間違ってるぞ! 早く本物を持ってこい!」 ったく、この忙しい時期に……さっきの奴は田島だから……上司は藍原か。 「後で言っておかないと……」 後ろからガラガラと大きなコンテナが運ばれてきた。……今度はなんだ? 「返品です、試薬とは違うものが届いたって……」 なんだって……? 「向こうが、やっぱり嫌だから文句言っているんじゃないか?」 全てがコンピュータ管理になった物流で、ミスなど起こるはずがない。 「それが……これ見て下さい」 コンテナを運んできた研究員は、カプセルの入った小さなポリ袋をポケットから出した。 「……以前送った試薬だな」 研究員は頷き、一般向けの整腸薬なのだと説明した。 「ふうん……で、今回送ったのは?」 彼は、これです、と言ってコンテナを全開にした。 ……なるほど。これは返品だ。 「プラシーボ……ね」 「…………」 プラシーボの効果は認める。臨床実験によって実際に病気に効くことが確認されているし、下手に副作用の強い薬を使うよりもましだという論文も出ている。……だが、それはあくまで「効く人」の話だ。本当は牛乳に砂糖を混ぜて乾燥させただけの粉末。それくらいのものでしかない。 「……お前は、先方に謝罪して本物の薬を送れ」 俺は、返事を待たずに駆けだした。 「それで、茜ヶ崎君。君の意見を聞きたい」 藍原部長が、私の方を見て言いました。 「あの……いいのですか?」 微かに頷く部長。 「ええと……私には、判断出来ません」 彼は、何の反応も示しませんでした。そして、しばらくの沈黙。 「プラシーボの効き目は知っていますか、茜ヶ崎君」 彼は……足音はおろか、服のすれる音すらほとんど立てず歩いてきます。 「余命三ヶ月のガン患者を完治させるんです」 どこか嬉しそうに、部長は続けます…… 「それに、あれは新薬の効果を確かめる実験にも使われますが……その時に新薬よりもプラシーボの方が早く完全に治ったという話もありますよ」 部長は部屋の中央で立ち止まりました。私からは3mくらいのところです。 「これが『何もない』ことの効果です。ミルクとシュガーだけで、栄養補給にも十分と言えないこの材料だけで……今まで長い間何十億とかけて開発されてきた薬よりずっと素晴らしい効果が上げられるんです」 そう言って、五秒ほどしてから私の方に向き直り、言いました。 「プラシーボこそ、永久に変わることのない完璧な薬ですよ」 ………… それに異を唱えようと、私が口を開こうとした時―― カチャリ…… 俺は、ドアを開けた。 「藍原。お前だろ、あんな事をしたのは?」 言った後で、そこに空がいることに気が付いた。 「桑古木さん、どうしたんですか?」 空が怪訝そうな顔をして訪ねてきたので、とりあえず空に説明することにした。 ……藍原に聞かせようとしてのことだったが。 「昨日送った製品が、全部プラシーボに代えられてたんだ」 空は、それを聞いて、あっ、と口を押さえた。 「何か知ってるのか、空」 俺は、出来るだけ心を抑えて訊いた。 「いえ……詳しくは知りませんけれど、その……さっき部長はプラシーボについて話して下さったのですが、それと関係があるのですか……?」 藍原は、はははっと笑ってから、俺達を見て言った。 「当然、僕がやりましたよ。桑古木所長。茜ヶ崎君、君の推測は正しい」 この……バカにしやがって…… 「なにが、『当然』だ。優の会社の看板に泥を塗りやがって、お前は社員としての自覚がないのか?」 優が、頑張って頑張って……かつての自分のように苦しむ人が少しでも減るように、と願って建てたこの会社の看板に、泥を塗ったんだ。 藍原はふっと笑ってから、口を開いた。 「いいえ、そんなことはありませんよ所長。それどころか、僕ほど会社のことを考えている人間はいないと思いますが」 ふざけたことを。 「バカなことを言うな。注文された薬が届かないなんてなったら、会社の信用はガタ落ちになるだろうが」 事実、先方は大変な混乱だったはずだ。 「僕は、人の毒になるような薬などを売る方がずっと信用を落とすと思いますがね」 こちらに無感情な目を向けている藍原。 「お前は、開発や研究が毎日どれだけ努力して良い薬を作ろうとしているかを知らないわけではないだろう? ……それだけの努力を重ねて作られた薬を、『毒になる』だなんて言うのは許さない」 藍原を見たまま、言った。 「そのせいで死んでしまうようなものが……毒でなくて何なんですか、所長」 一瞬怒りを覗かせて、再び無表情に戻る藍原。 「……私が以前、民間で働いていたことを知っていますね」 確かに、そうだ。藍原はかつて働いていた病院を辞め、この会社に入った。……この時点で、藍原の過去に何かあることには気が付いたが、俺は黙って聞くことにした。 「そこで、一人の男性が亡くなったんです。まあ、日常的に死に接するような病院でしたので、珍しくはないんですよ。そう……ただ死んだだけなら」 そこまで言って藍原は、自分の机のところまで歩いて行った。そして、イスに座った。 「彼はB型の慢性肝炎でした。まだ肝硬変には至っていませんでしたが、およそ40%の確率で肝硬変に移行する可能性がありました。その時に先輩医師たちがとった治療法は、ごく一般的なもの。投薬ですよ」 そこで、藍原はまた俺達を見回した。 「問題はないんでしょう? 所長。あなたが言うには、薬は助けるものですからね。……さて、続きを。その男性に投与したものは、プロパゲルマニウムという薬です。副作用が強めなので、普段は使われない薬だったのですが、男性が早い回復を望んだので検討しました。その結果、アレルギーチェックを通り、それまでの投薬履歴からも安全と判断されたので、男性の同意の下投薬しました」 ……藍原の語りは淡々と、しかし怨念に満ちていた。 「その結果。もう分かっていると思いますが、死亡ですよ。肝炎が急性悪化しましてね。昏睡状態が半日ほど続き、先輩方も懸命に対処しましたが……結局……」 藍原はだるそうに立ち上がり、後ろの本棚の方を向いた。 「その後も、似たような症例を多く見てきました。死亡したケース少ないですが、意識不明や呼吸困難など、深刻な症状はそれなりの数でしたよ。 さて、このような症例は、責任がどこにもないことが一番の問題点です。患者の同意は得ましたし、必要な検査もしました。薬を認可した国だって、臨床実験による安全は確認しているんです。それでも、副作用による問題が起きてしまう。 ……では、何が問題なのか。答えは一つしかないでしょう。 薬ですよ。薬そのもの、存在そのものに問題があるとしか思えないでしょう。 私は、病院を頼って来てくれた人たちを、一人だって殺したくない。幻滅させたくない。それなのに、どうして薬で人が苦しむんです。私は助けたかったのに、助けたかったから薬を使ったのに、どうして」 俺達は、全く動けなかった。この部屋全体が、藍原の念で固められたかのよう。 「……副作用というものは、本来起こって然るべきなんです。なぜなら、身体の器官の中で、一つの薬に反応する個所が一つだけ……というのはあり得ませんから。つまり、ピンポイントで病気の個所だけを……なんて無理なんですよ。もっともそれが顕著なのは、脳です。脳は、化学物質に対する抵抗が全くありませんから。風邪薬だろうと、下剤だろうと、全て脳は受け入れてしまうんです。……脳への影響のない薬は存在しないんですよ」 確かに……藍原の言うことは事実だ。化学物質のような、直径の小さいものは脳のフィルターを抜けて血管から脳漿へ移ってしまう。 「まあ、先のケースでは脳への影響と言うよりは免疫活性への適応ができなかった為なのですが、副作用には変わりありません。それに実際のところ、この薬も抑鬱、眠気などの精神神経症状などが起こることも確認されています」 藍原は一度言葉を切った。 「まあ、そういったわけでその男性は死亡してしまったのですが」 こちらを見ている藍原。どうやら、俺が答えるのを待っているようだったので、俺は言った。 「それで……お前がそこまでプラシーボに固執するのは、副作用が人を殺すからだ……と。そう言いたいのか?」 藍原は頷いた。が、俺はそれを認めることは出来ない。 「確かに、副作用の強い薬はまだ残ってるし、それしか有効な治療がないこともある。でも、な。それでも、俺達は創らなくちゃいけないんだ。新しい薬を、みんなの希望になるような薬を」 「そんな薬は、プラシーボ以外に存在しない」 俺の言葉を遮るように藍原は言った。いったん黙って、藍原が何も言わないのを確認してから俺はもう一度口を開いた。 「……ところで藍原。今、そのプロパゲルマニウムは使われていないのは知ってるか?」 そう訊ねると、藍原は答えて言った。 「……ええ、知ってます」 俺は頷いてから続けた。 「今、そのB型の慢性肝炎の治療に使われているのは、ウチの薬だ。優がまだ所長をやっていた頃に開発されたやつなんだが、この副作用を知ってるか?」 藍原はまた微かに頷いて、言った。 「頭痛と、倦怠感」 さすがに現開発部部長ともなれば、知っているな。 「そうだ。まだ、完璧に副作用を起こさない薬は作れていないが、昔の薬よりはずっと精神的にも肉体的にも負担の少ない薬だ」 それを聞いて、藍原は鼻で笑って言った。 「その薬で死なないって保証が、どこにあるんですか」 嘲笑を向けられたが、俺は自分を信じている。 「もちろん、保証なんて無い。だが、研究の成果はある。数年前まで、可能性の一つとして死を考えなければならない薬を使っていた病気に対して、そこらの風邪薬みたいな副作用だけで対抗できるようになったんだ。もちろん、その薬だって相性はあるが、それは投薬履歴やアレルギーチェックで大部分を事前に防げるはずだ。あれを市場に送り出してからもう随分経つが、死亡例は報告されていない。確実に、前の薬より、いい薬になってきてるんだ。だからこうして、毎日少しずつでも進んでいけば、いつかは……」 そこで、俺は言葉を切られた。 「甘いですね、所長。問題は、副作用が出るか出ないか、です。どんなに微かでも、副作用が出るなんて許されないんですよ。副作用は患者を不安にさせます」 俺はそれに頷いた。意外だったのか、藍原は驚いているようだ。 「だから、いつかは副作用の全く出ない、完璧な薬を作る。そして患者に全く負担を掛けずに、病気を治す。それが製薬の理想であって、医療の理想だから」 藍原は首を振って、呆れたように言った。 「はははっ、副作用のでない薬? さっきも言ったようにそんなものは存在しない。影響を無くすことなんてできないんです。事実、現在の医療ではホスピスを始めとしてアニマルセラピーやアロマセラピー、ミュージックセラピーなんていうのもありますが、とにかく精神的な所から治療に入ろうという考えが強まりつつあります。そんな、薬なんて時代錯誤も甚だしい」 ありったけの感情を込めて、なにか無理をするように言葉を吐き出していく藍原に、俺は言った。 「ああ、精神的な側面から治療に入ろうとするのは有効な手段だと思うよ。だが、全てをそれに任せることはできない。……精神的治療の欠点は、誰にでも効果が現れる訳ではないと言うことだ。それは薬もそういう面はあるが、ほぼ確実に効く。何度も言うように、副作用のない薬を作れれば――」 俺の話を遮り、少しイライラした様子で藍原は言う。 「だから、副作用のない薬なんて、存在しません」 「どうして言い切れる」 藍原は自嘲めいた笑いでそれに応じた。 「私は、元研究畑ですよ。薬の可能性を追求したことくらいならあります」 その言葉が、シンとした部屋に響く。 ……藍原は下を向いたまま続けた。 「まったく、桑古木所長を見ているとイライラします。どうして、そんなに理想を追えるのか。本当に、イライラする…… 私は、ここに入ってから10年、学生の頃の研究から数えると15年薬を研究してきました。その間、ずっと所長の言うような副作用のない薬を目指して作ってきました。ですが、作れば作るほどに……考えれば考えるほどに……どれだけその願いが非現実的なのか見えてくるんですよ。所長だって、分かっているんじゃないですか。無理だっていうことが」 藍原は、急に覇気がなくなって、イスに座り込んでしまった。 「……無理っていう言葉がどれだけ見かけ倒しなものか、俺は十分知っているからな。非現実的なことだとしても、やってできないことなんて、この世にはなかなか無いもんだよ。少なくとも、俺はそう信じている」 武を演じ、BWを意図的に降臨させるなんて非現実的なことをやった俺としては、な。 「……そんな気持ち、今はもう忘れました」 藍原は、そのまま黙り込んでしまった。 「……俺の言いたいことはそれだけだ。処分は追々知らせる」 そして俺は、部屋を出た。 「あっ、涼権。お帰りなさい」 優は満面の笑みを浮かべて俺を迎えてくれた。 「ああ、ただいま」 今日は疲れたな…… ……? 優は、俺の方を見て心配そうに眉をひそめていた。 「涼権、今日、何かあったの?」 優は鋭い。 ……自惚れでなければ、こと俺に関しては鋭い気がする。 「まあな。でも、ちょっとしたことだ」 本当は、明日までに藍原の処分を決定しなければならない。 だが、家で仕事はしない。家にいる時くらい、優と話をしたかった。 「そう? うん、涼権が言うなら、安心できる」 俺を信頼し、微笑んでくれる優。 「ありがとう」 その信頼が、今はたまらなく嬉しい。 俺の言葉を聞いた優は、軽く首を振った。サラサラの髪が流れる。 「いいのよ。だって、私は涼権を……愛してるもの」 そう言って、はにかみながら微笑む優を見て、俺も自然と頬が緩んでいた。 パリパリに乾いた心に、優は雨を降らせてくれたようだった。 翌日 「涼権、ちょっといい?」 風呂上がりにソファーでくつろいでいると、優に呼ばれた。 「ん、何だ?」 優は、俺が立つ前に隣に座り、微笑んだまま口を開いた。 「来週、何の日か覚えてる?」 ええと、来週は……9月22日。当然決まっている。 「秋香菜の誕生日」 うん、と嬉しそうに優は頷く。 「そうか、もうそんな時期か……」 秋香菜も、もう29歳。優よりずっと大人に見える。 「それで、プレゼントを何にしようか相談しようと思って」 去年はネックレスをあげたんだったな。 「プレゼントか……」 恐らく秋香菜の事を考えているのだろう、本当に楽しそうに笑っている優。 「あの子も大きくなったわね……」 その顔に、一瞬寂しさが覗いた。 「優……」 ……研究所での優なら、ここで強がったろう。しかし、目の前にいるのは田中先生ではなく田中優美清春香菜だ。 「……寂しい」 涙目で俺にすがる優。 「…………」 その寂しさの原因は、秋香菜が大人になったからではない。……俺と、空のことだ。 優は、俺と空の関係を知っている。そして、それに伴う感情――寂しさ――は、何かちょっとした刺激で表に出てしまう。例えば今のように、秋香菜が大人になって離れていったことを考えるだけで、すぐに。 優は、とても弱い。皆が思っているよりずっと。 「ごめんな……優」 胸の中で静かに泣く優の頭を撫で、謝る。その背中は静かに震えていた。 「……涼権…………」 優は、その想いを告げることすら出来ず、ただ耐えている…… 「……っ……」 こんなに繊細で優しすぎる優……大切な優…… 「……っく…ひっく…」 これ以上傷つけるのは、もう耐えられない。 翌日 「…………」 今日は仕事を終えても何となくまっすぐ帰る気にはなれず、私は屋上で時間をつぶしてしまっています。 ……宮本さんの言葉が、頭から離れません。『桑古木さんを倉成って人として見ているってこと』……そして、その言葉に動揺してしまった私が信じられません。 「はぁ……」 今日何度目のため息でしょうか…… 「……空」 声の主は、宮本さんでした。 「こんばんは、宮本さん」 そう言えば、今は夜でした。私はそんなことも分からなかったのでしょうか…… 「どうしたの? そんなに元気のない空なんて最近見たこと無かったけどな」 原因は宮本さんなのに…… 「ねえ、空。私の言葉に動揺してるんだとしたら、それを認めてる事になるんだよ?」 それは…… 「…………」 「空…………あなた、本当に……」 宮本さんは哀れむような、怒っているような表情をして、私を見ました。 「…………」 「…………ごめんなさい」 宮本さんはそう残して去っていきました。私には、何を謝ったのか分かりませんでしたが、恐らくは宮本さんの方が正しいのだと思います……私には、もう何も分かりません…… 「あれ、空は?」 優は、思い出したように足を止めて俺を見た。 「ん……? そう言えばいないな」 いつもはもう少し残って作業していくのが常なのだが…… 「桑古木、ちょっと探してきなさい」 優は『田中先生』として俺に指示を出す。 「分かった」 すぐに俺は研究室を出た。 「…………」 空を探して歩いていると、宮本美奈と出会った。 「よう、宮本。こんな時間まで残るなんて珍しいな」 俺は何気なく訊ねたのだが、宮本は真剣な表情だ。 「桑古木さん……いきなりで失礼だとは思いますが、訊きます」 ……こいつがここまでかしこまるとなると、余程深刻な話なのだろう。 「何だ?」 ……すぅ、と息を吸うのが聞こえた。 「空の事を……どう、考えているんですか?」 な、ぜ……宮本が? 「…………」 ………… 「ちょっと、場所を変えよう」 俺たちは、俺の研究室兼自室に移動した。 「…………聞かせて下さい」 部屋に入るなり訊いてくる宮本。 「…………ふぅ」 俺の下で働き始めてから5年。宮本は信頼出来る奴だと分かっている。 「…………」 それでも、話をするにはやはりためらいがあった。 「…………」 このボロボロの心を、宮本に晒すのは辛い。 「…………」 そして、俺の醜さを知られるのが恐い。 「…………」 ………… 「……桑古木、さん」 宮本は、本気で俺を心配してくれている。 「ちょっと待ってくれ」 だが、それに頼って良いのだろうか…… 「…………」 これは、俺と空で解決すべき問題じゃないのか…… 「弱いってのは、悪いことじゃないんですよ?」 ……はぁ……こいつには敵わないな。 「……どうやら、宮本には話しておいた方がいいみたいだな」 宮本の目をしっかりと見据える。 「…………お願いします」 俺は覚悟を決めた。 「率直に言って、俺の気持ちは空に向いていない」 宮本の目が一瞬激しい怒りに染まった。が、すぐに元に戻る。 「……やっぱり、そうですか」 努めて感情を表に出さないようにしているようだ。 「ああ……」 宮本は目で続きを促している。何を言っても、結局は言い訳に過ぎないのだろう。しかし、それでも言わなければならない。自分の罪を確認するためにも。 「始めは、ある男性にふられた……表現が適切か分からないが、とにかく想いを断られた。それで空は一時深刻な鬱に近い状態までなってしまった。俺は、空を回復させようと……空を励まし続けたんだ。それが空に勘違いの元を与えてしまったんだろう。…………それだけなら、空の理性で抑えられたかも知れない。しかし、空は最近の記憶が無かったせいで、俺と優の関係を知らなかった。両方が重なって……後は、なし崩しに……」 宮本は少し顔を伏せたが、またすぐに起こして俺を見つめた。 「…………」 …………その瞳に、微かな逡巡。 「……私は、これから言う事を聞いて桑古木さんがどうするか保証しません」 つまり、聞くか聞かないか決めろという事か。 「…………」 聞くしかない。俺は黙って頷いた。 「…………」 宮本は再びためらい、頷いて、俺を見て話し始めた。 「空は、桑古木さんに倉成という人を重ねて見ています。桑古木さんを愛しているわけでは無いと思います」 ………… ………… 「そう、か」 なんて、愚か。 結局、俺と空の関係は、自身を含めてまわりに毒をまき散らしていただけなのか…… 「ごめんなさい、こんな事を言っておいてなんですけれど……」 目を逸らして、宮本は言う。 「私には、二人の関係をどうこう言う資格はありませんが……二人のためには……」 それは分かっている。手で制して、俺は部屋の外へ出た。 ……いない。どこにもいない。 「…………」 研究所にはもう、いないようだ。 「…………」 空はどこへ……? 「あ、桑古木さん。お先にー」 残っていた数少ない研究員も既に帰り始めている。 「おう、また明日」 ……ひょっとしたら、もうマンションに帰っているのかも知れない。 「…………」 俺はそこへ向かった。 私は、涼権と一緒になってから仕事は週に一回しかしなくなった。この研究所は私がいなくても大体普通に機能するようになったし、家事をこなすことが私にとっての幸せに感じられたから。 「田中先生、お先〜」 久しぶりに来る研究所は全然変わっていなくて、何だか懐かしさを覚えてしまう。 「はい、お疲れ様」 ここでの私は、多少昔に戻るのかも知れない。何気ない返事にも、自分で驚くくらい固い声で応じてしまう。 「研究所か……」 ……私は、研究所での日々を悪いものだとは思わない。でも、家で……私たちの家で……掃除や、買い物や、日向ぼっこをしている時に、嬉しいな……と感じるような柔らかな日常に比べると、どうしてもつまらないと思ってしまう。 「あれ、先生……幸せそうですね」 きゃっ!? 「あ、ああ……美奈。どうしたの?」 ……びっくりした。美奈がこんなところにいるなんて…… 「ん〜、別にどうしたってワケじゃないんですけど。先生幸せかな〜って思って」 美奈は上目遣いで微笑んでいて、その仕草はどこか子供っぽくて……どこか真剣な言葉の雰囲気と妙な違和感があった。 ごまかせない雰囲気だった。 「……私は、幸せよ。でも、どうしてそんなことを訊くの?」 美奈に向き直って、訊きかえした。 「……ええと、幸せならいいんですけど……」 美奈はちょっと驚いた風に言ってから、私の方を向いて見つめてくる。 「……先生、優しいんですね」 それだけ残して行ってしまった。 「優しい……?」 さっきの言葉を反芻してみる。 「……どういう意味かしら……」 そう考えていると、駐車場から聞き慣れたエンジン音が響いてきた。 「……あら?」 この音は…… 「涼権の……車?」 まだ帰るようなことは聞いていないけど…… 「あ……ひょっとして、空を……」 でも、私はそこまでして探してもらおうなんて―― 「…………そう、だったわ」 久しぶりに田中先生に戻ったから忘れていたけれど……涼権と、空は…… 「…………」 おかしい、急に机がにじんできた。 別に、既に分かっていたこと。空のために、受け入れた代償。 「…………っ」 けれど、その代償はあまりにも重すぎた。私には重すぎた。 「……涼権……」 ここでは呼ばない約束の、彼の名前を呼んだ。 約束を破ってしまった。 でもそんなことはどうでもいい、今は涼権が欲しい。抱き締めて欲しい。声を聞かせて欲しい。それがダメなら姿を見るだけでもいい。 愛しい人に触れたい。触れてほしい。 「……だめ、私は泣かない……」 私が泣くと、涼権は心配する。 私は、余計な心配を掛けたくなかった。 涼権には自由にいて欲しい。そんな涼権を、私は愛しているのだから。 「……っ……うっ……」 でも、だめ……堪えきれない…… 寂しい……涼権が、離れていってしまうのが寂しい…… あの暖かさを失いたくない…… ……涼権…… 「……?」 なぜだか、とても胸が苦しくなった。締め付けられるような痛みさえある。 「…………」 今日こそ、空との関係を終わりにする。その意思を、この痛みはより強固なものにした。 「待っててくれ、優……」 俺はアクセルを更に踏み込んだ。 ピンポーン…… もはや馴れてしまったこの音とも、今日でお別れにしなければならない。 「はーい、どなたですか?」 たたた、と走ってくる音。 「あ、桑古木さんじゃないですか。どうぞ上がって下さい」 俺が部屋に入る事は無い。もう終わりだ。 「なあ……」 空は怪訝そうな顔をして見ている。 「何ですか? 何も遠慮することなんて無いですよ」 ………… 「空、もういいだろ……?」 一瞬狼狽したように見えたのは、気のせいではないだろう。 「何のことだか分かりませんよ、桑古木さん」 「もう、俺を解放してくれ……これ以上優を悲しませたくないんだ」 空は訳が分からないといった風だ。 「どうしてそんなことを言うんですか? 桑古木さんと田中先生の間に何かあるんですか?」 この言葉は嘘だ。空はもう全て思い出している……いや、恐らくは最初から忘れてなどいないのだろう。 「知ってるんだろ? もう、全部分かってるんだ」 長い沈黙。 空は、全てをはき出してしまうかの様に、ため息をついた。 「桑古木さん、いつから気付いてましたか?」 空は、一切を認めた。 「記憶が無いというのが嘘だったということには、一ヶ月くらい前から何となく感じていた」 予感めいたものでしか無かったが、疑問を持った後は全てが繋がってしまい、この結論に達した。 「ひどい人ですね、桑古木さんは。気付いていながら……」 ………… 「俺は……空のことを思って――」 「なら! こんなこと言わなければ良かったじゃないですか!」 俺の言葉を遮り、叫ぶ空…… 「すまない……でも、俺は」 優のことしか見ていなかった。 「言わないで下さい。私、桑古木さんを嫌いになりたくない」 正直、とても辛い。しかし、あの夜俺を優しく迎えてくれた優の姿を見て、どうしてこんな関係を続けられようか。 「空。俺は……」 パンッ! ……この痛みは……空の心の痛みなのだろうか…… 「空……」 見ると、空は泣いていた。 「…………」 俺の方を睨み、肩を振るわせている…… 「ひどい……ひどいです、桑古木さん……」 ………… 「やっと……やっと倉成さんを忘れられたと思ったのに、桑古木さんは私に気付かせてしまいました……本当は、私も……私も桑古木さんに倉成さんを重ねていただけなんですね……ずっと……長い、間……」 ……俺が優しか見ていなかったのと同様、空も結局……武しか見ていなかった、ということか…… 「……ごめんな、空」 空は涙に濡れた目で俺を睨んでいる。 目をそらすわけにはいかない。それは、恐らく空をもっと悲しませるだろう。 「…………」 空気が、重い。 「…………」 空がいったい何を考えているのか、その表情からは何も読み取れなかった。 「…………」 続く沈黙。微かな街の喧噪…… 「…………桑古木、さん」 俺の名を呼んだ後、空は、驚くほど乾いた声で少しずつ話し始めた。 「私……田中先生が……春香菜さんが……桑古木さんという新しいパートナーを見つけたことが許せない……」 …………空は、続ける。 「……そう、許せない……どうして、そんなに簡単に忘れられるんですか……? あんなに、好きになった人を……本当に、信じられない…………」 空は、うつろな目をして俺を眺めた後……言った。 「……私には、春香菜さんがただの尻の軽い女にしか見えない……」 なんだと……!! 「…………くっ」 ギリ、と奥歯を噛みしめて、この場で怒鳴りつけそうになるのを堪えた。春香菜を、尻の軽い女だと? あんなに優しくて、繊細で、暖かい春香菜を…… 「…………」 俺は、空を憎んだ。心の底から人を憎んだことなんて、初めてかも知れない。 「……空……」 俺がどれだけ軽蔑され、バカにされてもそれは構わない。だが、春香菜を侮辱されるのだけは、絶対に許せなかった。春香菜だけは、絶対に。 「私を憎んでいるのでしょう……? でも、それは貴方が持っていい感情なのですか?」 意味が、分からない。 「貴方に、私を恨むだけの権利がありますか? 春香菜さんを裏切り、私に溺れた貴方に」 ………… 「結局、春香菜さんを傷つけたのは貴方なんですよ? 貴方が私とこういう関係にならなければ、春香菜さんは傷つくことはなかったんですよ? それでもまだ、貴方は私を責める権利があると思っているのですか?」 俺は…… 「空を責める気はない……こうなったのは俺の責任だから……でも、な。春香菜が悪く言われるのは、それだけは……耐えられない」 空はそれを聞いて、言った。 「今まで散々悲しませておいて、いきなり庇護するんですか。桑古木さん、貴方は春香菜さんに何がしてあげたいんです?」 くっ…… 「俺は……春香菜がただ愛しくて……そして、これ以上悲しませたくないだけだ」 そう、もう……春香菜が悲しむのは見ていられない…… 「悲しませたくない? なぜ、春香菜さんが悲しむのはいけなくて、私が悲しむのは問題ないんですか?」 …………空が、悲しむ? 「なあ、空。俺に武を重ねていただけなんだったら、どうして別れるのが悲しいんだ……?」 一瞬、空は怯えるように目を逸らした。 「……空……?」 空はキッと俺を睨み、言った。 「そんな……そんなことは関係ありません! 私は、貴方が春香菜さんに何をしてあげたいのかということを訊いているんです……!」 さっきとは一転、感情を抑えられないように叫ぶ空。 「……俺は、今まで悲しませた分、春香菜に償いたい。……春香菜はそんなことをしなくても許してくれるだろうけど、俺は自分が許せない」 陳腐な言葉だが、俺の心を正直に答えた。 「償ったら、それで満足なんですか?」 俺は空を見た。ビクッと怯える空。 ……俺は、余程恐い顔をしているのかな…… 「…………」 視線を外し、口を開いた。 「俺は、償いっていうのは自己満足の塊だと思ってる。だから、満足かと訊かれれば満足だと答えるさ。……ただ……かつての行為は……俺が優にした仕打ちは……事実として残り続ける……だから、少なくとも俺にとっては、償いきる事は一生ないんだろうな……」 言って、結局それも自己満足なんだな、と思った。 「桑古木さんは、そこまで分かっていて……」 空の言葉は、最後の方があやふやになってしまってよく分からなかった。 「どうして……どうして春香菜さんにはこんなに想ってくれる人がいるの……私には……何もないのに……どうして春香菜さんだけ……」 空は、何かに責めたてられるように言葉を紡ぐ。 「私は……いったい、何の意味があってここに……私の存在価値って……私、これからどうすれば……」 そうして空は、感情の抜けた顔で俺を見ていた。 ………… その姿はあまりに弱々しすぎて、俺は抱き締めて守ってやりたい衝動に駆られた。 だがそれは、今の俺に許される行為ではない。 ………… だから、その代わりに。 空のために、俺は言わなければならない。 ………… 「これは、空の恋人でもなく優の夫でもない、ただの桑古木涼権の言葉だが」 ………… 「……空は、そのままでいいんだ。だって、無理矢理想いを断ち切るなんて、辛すぎるだろ……? 想いは届かなくても、そっとしまっておく位はきっと許される。だから空は、武以上に好きになれる人が現れるまでは、その想いを抱き続けていていいはずだ。そういう一途さは、とても大切で尊いものなんだから」 ………… シン……と静まりかえった廊下に、微かな電車の音が響いた。 カタタン……カタタン…… 「やっぱり……」 空はその震える口を開き…… 「桑古木さん……ひどい」 そう言って、泣き崩れてしまった…… 「そ、空……」 うなだれ、嗚咽を漏らす空。 「……だって、だって……そんなこと言われたら……」 ………… 「…………」 空は涙を拭い、言った。 「桑古木さんを、本当に好きになってしまいますよ……」 ………… 「空……」 俺の方を見る空。 「……私を、本当の私を理解してくれるのは……桑古木さんだけかも知れないんですよ……?」 ………… 「…………」 空は、黙って俺を見上げている…… 「…………」 空を理解するのは俺だけだと、彼女は言った。 「……空」 その言葉の意味。 その言葉の重さ。 俺という存在が、俺を責めたてる。 「……俺は」空を―― と、急に空の顔が和らいだ。 「……くすっ……ごめんなさい、桑古木さん。ちょっといじめちゃいました」 空はゆっくり立ちあがると、俺に微笑みかけた。いつかの、慈悲に満ちた笑顔で…… 「え……? 空?」 ……? 「はい、愛人ごっこはこれでお終いです。結局、私じゃ春香菜さんからあなたは奪えなかった。それだけのことですから」 空の目には新たな涙。 「…………空」 空はもう一度笑うと、俺をそっと玄関から押し出した。 「さよなら、桑古木さん。嘘に聞こえると思いますけど、私にとって、本当に理解してくれる人はあなただけでしたよ」 ……!! 「空、ちょっと待っ――」 バタン…… 俺の言葉は、ドアに阻まれて届かない。 「…………」 恐らく、いくら大声を出しても、もう俺の声は空に届くことはないのだろう。 「…………」 これで、よかったんだ。 「じゃあな、空」 それだけ残して、俺はそこから去った。 背中に、空の嗚咽の幻聴を聞きながら…… ガチャリ…… もうボロボロになってしまった心を抱えたまま、帰宅した。 「お帰りなさい、涼権……あっ……」 もう……限界だった。 俺は、迎えてくれた優を、その場で壊れるくらい……強く、強く抱き締めた。 「…………」 何も言わず、俺に身体を預けてくれる優。 「……ごめん」 俺は謝った。 「……ごめん」 ずっと寂しい想いをさせたことを…… 「……ごめん」 今まで、優の愛情に応えられなかったことを…… 「……涼権……」 そして…… 「……ただいま……優……帰ってきたよ……」 そう言って、一層強く優を抱き締める。 「……うん……」 優は、俺の胸に顔を埋めたまま、そっとささやいた。 「その言葉を……私……ずっと待っていたわ……」 ――2045年12月24日―― 「あっ、桑古木さーん! 遅かったですね〜!」 会場に入るなり、めざとく俺を見つけた宮本。 「そりゃ、お前に比べればな」 お祭り好きの宮本は、こういうイベントだけは本当に早い。 「あ、田中先生……なんてお麗しい」 俺の隣にいる優に向かって、うっとりする宮本。 ……実は、結構ヤバイ奴なのか? 「ありがとう。美奈も可愛いわね」 そうですかー、なんて言ってくるっと回る姿は、確かに可愛い。 素材が良いからまわりをキチッとすればすごく引き立つ。 「まったく、涼権ったら……」 隣でため息をつく優。 「いや、すまん……」 くせで、俺は頭の後をかいた。 「ふふっ、いいのよ。ちょっとからかっただけ。私、涼権を信じてるもの」 涼権を信じてる、か。 その言葉に何度救われたことか…… 「ああ、ありがとう」 今までの分の感謝も込めて、言った。 「…………あの〜、お二人の世界に入るのはいいんですけど。ちょっと気になることが」 宮本がちょっと困った風に笑って、俺たちを見ていた。 「え……あ、ごめんね美奈。……それで、気になることって?」 上目遣いに優を見上げ、宮本は口を開いた。 「ええと……今まで田中先生って桑古木さんのことを桑古木って呼んでましたよね。でも、さっき涼権って呼んだじゃないですか。どうしてですか?」 あ、そう言えば。 「…………」 俺も宮本も黙って優を見ている。 そして、優は一回優しく微笑んでから答えた。 「やっと、気持ちの整理がついたの。もう所長職は涼権に譲って随分経つし、私がいなくても運営に支障はないでしょう? だから、もう公で涼権に甘えても大丈夫かなって。それに……いえ、何でもないわ」 少しだけ照れて頬を染めながら、優はそう言った。 「うわあ、田中先生と桑古木さん熱々ですね〜!」 美奈は心から嬉しそうに笑ってくれる。その笑顔は、嬉しかった。 「な、何だか照れるな……」 俺はそう言って、視線を上に泳がす。 「そんなこと言ってないで。ね、涼権?」 すっと、俺に腕を絡ませる優。 「ん……まあ、いいか」 宮本は、俺たちを眩しそうに眺めた後、失礼します、と残して去っていった。 「あ、あそこにいるのは……」 俺は、ある人物を見つけた。 「? どうしたの、涼権」 優は怪訝そうに俺を見上げる。 「ちょっとあいつと話をしてくる。待っててくれ」 丁度その時優に話し掛けてきた人がいたので、俺はその「あいつ」の元へ向かった。 「…………よう」 イスに座って、ワインを飲んでいる。 「おや、どうしたんですか。桑古木所長」 既に相当入っているのか、顔が赤くなっている。 「元気そうで何よりだな、藍原」 ク、と皮肉げに笑う藍原。 「ええ、元気ですとも」 俺は藍原の隣に座った。 「どうぞ」 藍原はワインを俺に勧める。 断る必要はないだろう。 「おう、サンキュ」 クイ、と一口飲んでから、藍原を見た。 「…………」 「……私は、後悔しません。たとえそれが間違いだったとしても、自分の信じた道を行きます」 藍原は、たったそれだけを答えとして、しっかりした口調でそう告げてきた。 「そうか。じゃあ、これでさよならだな」 「ええ。今までお世話になりました」 俺は、新しい道を歩み始めた藍原と乾杯した。 一気に飲み干す。 「……ふう……」 俺は立ち上がり、背を向けた。 「……所長」 ……足を止める。 「無理っていうのは、理が無い、つまり"No theory"です。あなたに理論が通ずるわけありませんでした」 フン、言ってくれる。 俺は、何も言わずにその場を去った。 宴もたけなわ、まわりは賑やかな空気で溢れている。 今ここに、空の姿はない。 彼女は先月、アメリカへと渡った。向こうの製薬会社へ、一年間研修に行くという話だ。 今頃は向こうで忙しい毎日を送っていることだろう。 ………… ところで。空は、四日間の欠勤の後復帰した。 欠勤中は宮本が世話をしに行っていたらしいので、この分なら宮本が空を癒してくれるだろう。 俺にできることは、せめていつも通り――研究仲間として――接することくらいしかない。 俺と優の仲は、研究所内ではしばらくは変わらずにいた。 いたが、さっきの様子からするとこれからは変わるのだろうか。 ………… プライベートでの優は、まだ時折悲しい顔をする。 優が明るくなりきれないのは、空のことがあるからだった。それは俺だって同じだ。 でも…… それでも、思い出の為に今を無為に過ごすのはもったいない。 このクリスマスパーティーだって、大切な思い出に変わるに違いないのだから。 だから、思い出はしばし見えないように、引き出しにしまっておくのがいい。 そう、思い出は引き出しにしまっておこう。 いつか振り返る時まで、大切に取っておこう。 だって、ほら。 「涼権、こっちこっち!」 今は、進んでいるのだから。 進んで進んで、きっと今も色褪せて思い出になる。 そんな今を、生きているのだから。 |
あとがき ここまでお読み頂き、本当にありがとうございます。 さて、なんとか「想い」空・桑古木編を終えることができました。しかし、前作の番外編からは4ヶ月、前々作の空・桑古木編全編からは7ヶ月経ってしまっています……これだけ空いていると、言い訳すら思いつきません。申し訳ありませんでした。 更に、実は、前前回の時に「次は沙羅編を〜」なんて言っていたのですが。こっちが先に出来上がってしまいました(汗) 一応、空・桑古木編はこれで終わりなのですが、空のエンディングは沙羅編にあります。 はてさて、次は何ヶ月後になるのやら(冗談じゃ済まない……) 感想など、頂ければ幸いです。 それではこのあたりで失礼します。 |
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