※「想い」番外編です。他の話との関連はありません。





倉成武の思い出 
〜「想い」番外編〜
                              電灯


 日曜日の昼下がり。
「ん?」
 つぐみが何か見つけたようだ。今日は年末に向けての大掃除で、押入の整理をしていたはずだ。
「どうした、つぐみ」
 寄って見ると、写真を見つめているようだった。
「この人、誰?」
 首だけ俺の方に向けて訊ねるつぐみ。俺は、よく見えるように後ろから覗き込んだ。
「あ……」
 見間違いだと思った。
「ちょっと、貸してくれ」
「ええ、いいけど」
 写真を受け取ってよく見る。
 ……やっぱり……
「あの頃の写真は全部捨てたはずなのに」
 写真のせいで、忘れていた思い出が一気に蘇ってくる。
「あの頃……?」
 つぐみは、小鳥のように首をかしげている。
 その仕草も、強く彼女を連想させる。それは写真のせいなのだろうか。
 それとも、今まで気付かなかっただけなのだろうか。
「あの頃って、いつ?」
「俺の、高校の頃のことだ……」
 彼女は、そう、と頷いた。
「ねえ、あなた。良ければ話してくれない? あなたの高校時代って、興味があるわ」
 俺は、あまり思い出したくない。特にその写真のことについては。
「あまり、いい話じゃないぞ」
 力のない声で俺は答えた。
「それなら、無理にとは言わないけれど……」
 …………
 …………
「いや……つぐみには、知っていて欲しい。だから、やっぱり聞いてくれるか?」
 つぐみは、とても優しい目をしていた。
「ええ、全部……聞いてあげるわ」
 俺は息を吸って、話し始めた。

 …………
 ………
 ……
 …

 2013年 2月 

 後期の終わり、昔風に言えば三学期の初め、寒いはずなのに暖かい日が続いている。なんでも、今年も暖冬だとか。温暖化などによって年々気温は上昇していて、最近は冬でも20度を上回る日がある。まあ、暖かいとは言っても気温は秋よりは低いから、寒いと言えば寒いのかも知れない。空調は動いているが、温度調節の必要がないので殆ど空気清浄機と変わらない。それでも、無いよりはましなのでその恩恵に与りたいのだが、やっぱり窓際、更に後ろから二番目ともなると、気流が淀んできてしまうのも仕方ない。俺はそんな風に今の自分の状況を考えながら、短い休み時間を自分の机でぼんやりと過ごしているのであった。
「ねえ、倉成君。再来週の日曜日ひま?」
 クラスでリーダー格の女子。名前は斉藤……何だったったか?
「斉藤か。次の次の日曜だろ? んー、まあ、特に忙しい事はないけど。それがどうかしたか?」
 どうせ一日中寝ているだろう事は容易に想像できた。
「ホント?じゃあさ、映画行こ、映画。いいでしょ?」
 期待に満ちた目でこちらを見る。斉藤何とかは名前は知らないがなかなかの美人だ。ちょっとキツそうな所が苦手だが。そう見つめられると、照れる。
「ああ、いいよ」
 目をそらして、そう言った。
「やったー!あ、そうそう、他にも何人か連れて行く予定なんだけど…いいでしょ?」
 ぴょんぴょん跳びはねる斉藤。
「ああ、俺は構わないよ」
 何人かの男に睨まれた気がするが、そんな事はどうでもいい。
「それじゃ、○○駅前に11時頃来てね。お昼ご飯食べて、それから映画に行こう。ね?」
「オッケー」
 と、ここでチャイムが鳴って次の化学TBの教諭が教室に入ってきたので、話は中断することになった。

 只今、授業中。
 …………眠い。
 …………眠いなぁ……
 …………寝てもいいよな……
 …………ねむ。
 …………ねよ。
 …………お休みなさい……
 …………
 …………
 パコッ!
 どこのどいつだ、俺の眠りを妨げるヤツは!?
 もやのかかった頭で、ぐるんぐるんと教室を見回す。
 ……いた。左斜め後ろに、いた。
 名前は……知らんが、こっちを見てくすくす笑っているショートカットの女が一人。
 ターゲット補足。距離およそ1m。反撃しようかと思ったが、後ろを向いている所を見つかるとまずい。今は戦略的撤退だ。
 くそ〜。なんだって人の安眠を奪うんだ……自由を求めて戦った中世フランス国民の気持ちが分かる気がする。自由・平等・安眠を求めて俺も戦いたい……
 …………
 …………あと、五分……
 …………秒針、遅いよお前。
 ……キーンコーンカーンコーン……
 終わったぁ!早く授業も終わりにしろよ〜。
 …………
 起立、注目、礼。教諭が教室を出て行くのを待つ。よし。
「くおらっ、お前!どこのどいつだか知らんが、人の安眠をぶち壊して楽しいのかっ!」
 いきなり俺はそう言った。
「文句を言いたいのはこっちよ!いつもいつもいつも目の前でグースカ寝て!少しテストで点取れるからって、いい気にならないでよねっ!」
 ムカッ!
「いい気になってるのはどっちだ。いきなり人の頭叩きやがって。俺はお前に叩かれる筋合いはない!」
「あるわよ!あたしの視界の中でアンタが寝てるとイライラするの!!」
「なら見なきゃいいだろうが!」
「あたしだって見たくないけど、黒板を見ようとすると視界に入っちゃうんだからしょうがないでしょ!」
「あーもう、ああ言えばこう言うヤツだな!」
「そのままのし付けてお返しします!」
 そうやってギャーギャー騒いでいると、
 キーンコーンカーンコーン……
 チャイムが鳴ってしまった。はぁ、疲れた……休み時間じゃないだろ、これは。
「くそっ、もう次の授業か……」
「ええっ、もう終わり?」
 見ると、みんなこっちを見てにやにやしている。誤解されているのかもしれない。
「おいおい、中西と仲いいじゃん、武?(こそこそ)」
 はぁ??
「お前、目医者に行った方がいいぞ。アレでどうして仲が良いように見える」
 まったく。あり得ないこと限りない。
「武、生き生きしてたぜ〜?案外相性いいんじゃないの。(こそこそ)」
「それは単に、熱くなってただけだ」
「あ・つ・く??」
「気持ち悪い区切りかたすんな!」
「へいへい。すんませんでした〜」
 ガラッ。数学の教諭が入ってきた。ああ、俺の睡眠タイムがやってきた…
「――――はっ!!?」
 ……後ろから、『寝るなぁ〜』という無言のプレッシャーが…また、あの女か! 確か、なか……なかばやし、だっけ? 確証が無いのでちらっ、と見ると、ものすごい剣幕でこっちを睨んでいるのが見えた。名前を間違えた日には命が無さそうだったので、不精々々前の波多に名前を聞き直すことにした。
「おい、波多……(こそこそ)」
「ん? あいつは中西だぞよ。(こそこそ)」
 なぬ?エスパーか、おぬし。
「そ、そっか……(こそこそ)」
「いいなぁ、あんな可愛いコに好かれて……」
 むっ、また、勘違い野郎が増えたか……まあいい。弁解しようとしても無駄だ。人という生き物は先入観とか、思い込みに判断を大きく左右させられる。いくら説明したところで、相手に理解する気がなければどんなに筋が通った話でも取り合ってもらえないものなのだ。
「はぁ……」
 …………
 …………
 眠れぬとは…かくも辛き事か。
「………………」
 背後からの視線は止まぬ。ならば我はこのまま朽ち果てるが道理。
「………………」
 願わくば、今一度我が父母に会い、先立つ不孝を詫びたかった。
「………………」
 今となっては…望郷の思いに身を焦がしつつ、残り僅かな時間を無益に過ごすのみ。
「…………(カクン)」
 ……黄泉路へ旅立つ時が、来たようだ。既に体は一寸と動かす事叶わぬ。
「…………(カクン)」
 この心も、程なく消え去るのであろう……
「……ぐー、ぐー……」
 ………………………
 ……ガンッ!
「……ぐあっ!」
 ……刹那!降三世明王の戟にてこの頭かち割られたが如き衝撃が……っておい!!!本気で痛かったぞ、今の!! あの野郎〜じゃなかった、女〜! 予想だが、教科書を束ねて縦で殴られた気がする。または金属製の筆箱か。まさかとは思うが、辞書ではあるまい。
「くぅ〜、いてぇ…」
 殴られたところがジンジンと熱を持ってきた。これ、たんこぶになるな……
 涙目で振り向くと、実に楽しげに鼻歌なんぞ歌ってる中西がいた。視線は窓の外に注がれている。じつに作為的なその行動に、心の奥からふつふつと湧き上がる対抗心を感じる俺であった。

 キーンコーンカーンコーン……
 やっと、昼休みになった。今こそ戦いの時!
「おい、お前」
 半ギレ状態で中西に近づく俺。
「んー? どうしたの?(にこっ)」
 ………………
「……はぁ……」
 まったく、コイツは…その笑みが不敵な笑みならそのまま怒鳴れたのに、向けられた笑顔は実に無垢な笑顔だった。恐らく狙ってやっているのだろうが、俺の毒気は完全に抜かれてしまった。
 ……まあ、でも。それで納得するわけもなく。
「ちょっと、こっち来い」
 やっぱり文句が言いたくて、話しやすい所に移動することにした。
「えっ? ちょ、ちょっと…」
 不意打ちだったのか、本当に慌てている様子の中西。
「………………」
「ちょっと…話なら教室ですればいいじゃない」
 でも結局、付いてきたようだ。
 階段を上る。目的地は屋上。
「ねぇ倉成!」
「うるさいな、黙って付いてこい」
 一言で切り捨てる。
「………………」
 ガチャッ、キィ……
 屋上はまだ誰も来ていないようで、好都合だ。……もっとも、この屋上に人がいる方が希なのではあるが。
「こっち」
 中西を、端の方に連れて行く。
「ねぇ、どうしてこんな所に……」
 とりあえず、無視しておく。……うーん、文句を言いたいだけなんだけど、場所を選びすぎたか。
「ここで、いっか」
「えっ? なんて言った?」
「ここでいいか。と言った」
「よく分かんないヤツだね、アンタも」
 さて……
「よく分からないのはそっちだろ……ったく、人の安眠を妨害しやがって。なんだっていきなり初めて話すようなヤツに頭を殴られなきゃいけないんだ」
「あのね、今まで我慢してただけなの。まったく、人が真面目に勉強してるのを邪魔して……そのくせ学年で50番以内に入ってたりするんだから、本当にあたまくる!」
 さっきから大人しいなぁ、と思ってた所に、いきなり怒り出すからちょっと気後れしてしまった。
「お、おい……なにもいきなり怒り出さなくても……」
「うるさい!」
 本当に、扱いにくいな……
「あのさ、そんなに成績が気になるんだったら……」
「だったら何?」
「勉強、教えてやろっか?」
 こう言えば、収まってくれるだろう。まさかコイツが頼んでくることなんて無いだろうし、こう言えば誠意とかいうやつも伝わるだろう。なにせ、自分の時間を使ってまで勉強の埋め合わせをしようというのだから。まあ、授業中に寝ないことは保証できないが。
「………………」
 中西は黙ってこちらを睨んでいる。思惑がバレたか。
「………………」
 何か、様子がおかしくなってきた。キョロキョロと視線が落ち着かないし、心なしか顔も赤くなっている気がする。これじゃまるで、普通の女の子じゃないか。
「………………」
 無言が続く……息苦しい……
「………………」
 うーん……
 キーンコーンカーンコーン……
 やばっ!! このままフケるという手もあるが……中西はさっきの様子からして無理だろう。
「おい、早く戻らないと……」
「あの……さ……」
 うん? 急がないとまずいから端的に……
「何だよ、早くしないとまずいぞ」
「分かってる……けど……」
「どうした? ひょっとして、お前もこのままフケるのか?」
 コイツに限ってそんなことはあり得ないけどな。
「フケるって……どういう意味?」
 どういう意味って、深い意味はないけど……そう訊かれるとちょっと想像してしまう。
「い、いや……特に深い意味はない。どっか遊びに行こうとか、そう言う事じゃないぞ」
「そうじゃなくて、『フケる』そのものの意味なんだけど……?」
 はい?? ……ああなるほど。フケるを知らないわけだ。
「んー、授業をサボるってこと」
 まあ、もう取り返しは付かないからねぇ……午後の授業はほぼ100%始まってるだろう。
「アンタ、サボるって……何考えてんのよ!」
 おっ、元に戻った。
「だって、もう始まってるぜ、授業」
「ああっ!!ダメじゃない、授業サボっちゃ! ほら、早く早く!!」
 いや、俺はこのまま昼寝タイムに突入する予定。
「あー、一人で行ってて。俺、寝る」
「ちょっと、授業受けないつもり!?」
 …だからそう言ってるのに。
「ふわ〜ぁ……」
「こらっ! 無視するな!」
 ったく、うるさいなぁ……
「うるさい。俺は寝る。お前もどうだ?」
「…………!」
 中西は、俺の方をキッと睨むと、そのまま階段を駆け下りていた。
 ……なんで、あんなに怒るかな……気分悪い……

 さて、屋上は誰も使わないのに掃除はされてて、意外と綺麗だ。まあ、どこぞの誰かが置いていったビーチチェアーがあるので、そのまま寝るって事はしないから関係ないけど。が、問題が一つ……ここ最近では実に珍しい事なのだが、ちょっと寒いのだ。ひょっとしたら寝冷えするぞ、こりゃ。まあ、何かあったかいもの、例えば毛布とか寝袋とか、ちょっとしたものがあれば寒いのはそんなに嫌いじゃないからここで寝てしまうんだが、今は無いしなぁ……今更戻るのも何だし……
「……図書室、かな。」
 図書室は、かなり昔から他の教室に先駆けて冷暖房完備されている。快適に眠ることが出来るだろう。
「……早く行こ」
 数分前に中西が下りていった階段を、俺も下りていった。

 丁度同じ頃。
「ふぅ……」
 教室を覗くあたし。
「あれ??」
 何か、授業にしては騒がしい。…ひょっとして、自習?
「やっぱり……」
 黒板には、『課題のプリントをやる。終わったら提出』と生徒のものらしき字で書かれていた。あれが先生の字だとしたら、ノートが取れなくて困る。
 まあ、そんなコトは置いといて。……自習なら、武……ううん、倉成も戻ってくれるかもしれない。
「屋上、戻ろっかな」
 それと…まあ、倉成を連れてくるのが目的なワケだけど、もし戻ってこないとしたら屋上は寒い。一応、人として、あくまでクラスメートとして、毛布くらい持っていくのはそう変なことじゃないハズ。うん。
「ええと…毛布とか、あったかいものがあるのは…技師室かな」
 技師さんは半分あそこで生活してるみたいなものだから、この時期毛布や布団くらいあるでしょ。布団はちょっと持ってけないけど。
 他の教室はちゃんと授業してるみたいだから、呼び止められないように上手く視界から外れて歩かないと。ちょっとしたスパイ気分?
 そんなこんなで、技師室。
 ……今は仕事中かな。中にいないみたいだ。
「失礼しまーす……」
 ガラッ
 中に人がいないことを確認した後は、堂々と歩いていける。
 ……あった。イスの上に毛布が丸めてある。汚くないし、新しそうだし……これでいっか。
 目的物を回収した後はすぐに部屋を出て、扉を閉めて、屋上へ。
 たったったっ……
 屋上に着いた。アイツ、今頃寒くて震えてるんじゃないかな?
「おーい、倉成ー!」
 ヒューヒューと風の音。
「……どこ行ったのよ、アイツ」
 目の前には寒々とした冬の光景が広がるばかり。
 なんか、こう……バクハツしたい……
「倉成の……バカァーー!!」

 ……バカー……
「なんだ今の??」
 ……なんか、俺がバカにされたみたいで気分が悪い。
 ここは図書室。校舎の4階にあるため景色もなかなかいい。人工物が密集している冬景色というのも、都会的でなかなか趣深い。まるで世界が無彩色で構成されているような錯覚に陥る。いや、実際に冬の都会というのは建物の白色、灰色と、常に霞がかっている白っぽい空と、黒っぽい茶色の木の幹のみだ。彩り豊かな春夏秋とは違う。全ての生物が活動を止める冬。まあ、針葉樹とか、キタキツネとかは別だけど。
 そこで考える。なら、人間も冬は丸々休みにしてしまってもいいんじゃないか? と。……そんなことを言ったら中西に殴られるかな……?
 って、どうして中西が出てくる、ここで。やっぱり…あいつが今日俺を叩きまくったせいだろうな、多分。何だっていきなり叩くかな…もう少し口で注意をしてから実力行使に出てほしいものだ。
「ま、そんなことより今は睡眠……」

 ・
 ・
 ・
 ・

 キーンコーンカーンコーン……
「ん〜〜……」
 よく寝たぁ……ぐぐっ、とのびをすると気持ちいい……
「さて、と」
 そろそろ、教室に戻りますか。午後全部をすっぽかすのはさすがにまずいからな。
 ガラッ
 うわっ、こんなに寒かったっけ? どうやら寝ている間に随分と気温が下がったみたいだ。屋上で寝てたら風邪引いたかも知れないな…
 目をこすりながら教室に向かう。あ、途中で顔でも洗ってくか……
 水道の水は凍っているみたいに冷たい。
 …………はぁ〜
 ゴシゴシ…タオルで顔を拭く。
 …………ふぅ。生き返ったぁ〜……
 スパンッ!
「ぐあっ……」
「倉成っ! アンタいったいどこ行ってたのよ! あたしがどれだけ探したか分かってる!? まったく、人が親切で毛布を持って行ってやろうとしたのに、いつのまにかいなくなって! バカにしないでよ! そりゃあ、あんな寒いトコに長くいたくないのは分かるけど、だからってあたしが戻る位の時間待てなかったの!? あたしを待っててくれてもいいじゃない!」
 ぐわぁ〜、と。ご立腹の様子の中西。周りには野次馬が集まりだした。ヤバイ……
「おい、誤解を招くような表現は止めろって……」
「うるさいわよ、人の気も知らないで! あたしがどれだけアンタの心配をしたか分かってないでしょ!」
「知るかっての……勝手に探して勝手に心配したんだろ?」
「『勝手に』!? アンタ、人の気持ちをそういう風に言うの!?」
 だあっ、もう、野次馬が多すぎる!!
「ああもう! こっち来い!」
 中西の手を引いて野次馬から逃げる。
 ……あ……中西の手、冷たいな……よっぽど寒かったんだろうか……悪いことしたかな……
「……悪かった」
 走りながら、中西に謝った。
「……えっ??」
 角を右に曲がる。
「だから、なんか、随分大変な……寒い思いをしたみたいだから……悪かったな、さっきのは許してくれ」
「…………うん」
 階段だ。上へ。
「毛布、ありがとな」
 中西が、はっとしたようにこっちを見た。
「でも、倉成……使ってないでしょ?」
 屋上に近づいている。
「まあ、そうだけど……持って来てくれてありがとう」
 タンタンと階段を駆け上る。
「やっぱり、アンタ変なヤツだね」
 中西はくすくすと笑った。
「……かもな」
「絶対だよ」
「むっ……」
「文句ある?」
「ある」
 ガチャッ!
 ドアを開けると、冬の澄んだ空気に夕日が映えて、綺麗だった。林立したビルが夕日を反射して、複雑なグラデーションを描いている。それは少し鋭角すぎたけど、街にかかったもやがグラデーションを柔らかく、穏やかなものに変えていた。都会という人工物の、美しさ。思わず見惚れる。
「うわぁ……」
 隣から、感嘆の声。
 ……ここから、こんなに綺麗な景色が見えるとは知らなかった。
 もっとよく見たくて、フェンスに近づく。
「綺麗だな」
 素直な感想をもらす。
「だね……」
「…………」
「…………」
「……さむ」
 さすがに夕方は冷えてきた。
「あ、毛布……」
 中西はそう言うと、たたたっ、とドアの方に走って行き、そして
「はい、これ」
 と、毛布を出してきた。どうやらドアの所に置きっぱなしだったらしい。
「おう、サンキュ」
「………………」
 そういや、中西の分の毛布がないな……
「なあ、お前の……無いのか?」
「まぁね。でも、そんなに寒くないから」
 無理してるな……震えてるじゃないか。
「これ、使えよ。お前が持ってきたんだろ?」
「……ん、いいよ。大丈夫……」
 大丈夫じゃない。
「もう一つ取って来る」
「待って、もったいないよ……せっかく景色が綺麗なのに」
「じゃあ、どうする? 言っとくが、この気温で寒くない、なんて言ったら怒るぞ」
「んー……寒くな……さむ、く……っくしゅん……」
 ほら見たことか。
「な? 寒いだろ。使えよ、俺はまだ大丈夫」
「さっき自分で言ったでしょ『寒くないって言ったら怒る』って。あたしも同じだよ」
「じゃあ、どうする?」
「そ、れは……っくし……」
「くしゃみまでがまんすんな……ったく……ほら、入れ」
 こんなに意地張りやがって……
「えっ、あ……」
 ばふっ、と毛布を被せる。
 もぞもぞ…ばっ、と現れた中西は鼻先3センチだった。
「あ…………(赤)」
「あ…………(赤)」
 顔を逸らす。
 どくんどくん……心臓の音は俺のものだろうか、中西のものだろうか。
 ……恥ずい……
 顔を逸らしたことで気付いたが、既に夕日は沈みかけていて、急速に明るさが消えていった。
 そして。
 太陽の光に代わってビルや、街灯や、自動車などの光が街を様々に染めていく。その光は常に変化し続け、一瞬たりとも同じ顔を見せてはくれない。オフィスの光は幻想的に空気を彩り、自動車の光が筋を作り、街灯は、暗闇にある光のオアシスのように優しい光を其処此処に湛えていた。

 この街は、こんなに綺麗な姿をしていたんだ。

「………………」
「………………」
「……なぁ」
「……ん?」
「立ってるの、疲れないか?」
「んー。疲れたかな」
「それに、そろそろ本気で寒くなってきたし……」
 時間も、際どい。
「そだね。ここでお終いかな?」
「……中西」
「……あたし、下の名前『舞』だよ」
「ん……じゃあ、舞。俺、今日は楽しかったよ」
「うん、あたしも。なんか、今日初めて話したなんて嘘みたいだね」
「あ、そういやそうだ……今日が初めてだ、舞と話すのは」
 忘れてた。あまりにも違和感がなかったから。
「そう。もう一年生も終わるっていうのにね」
「ああそうだな……俺って、人付き合い悪いから」
「そうそう。自己紹介の時もあまりにフツー過ぎて印象に残らないタイプだよね」
「む……そういうお前だって、俺は今日まで名前すら知らなかったぞ」
「う、うん……そう、だよね……」
 舞はうつむいてしまう。ひどいことを言ってしまったのだろうか。
「ま、それを言ったら……俺はクラスの内2/3は名前を知らんがな」
「えーっ?? それって問題あるよ?」
 多少は元気になってくれたようだ。
「いいんだ。どうせ俺は友達を作るなんて性に合わない」
 そう。友達を作ったって、かりそめの関係だ。
「……なんか寂しくない?」
 真剣に、舞は心配しているようだ。
「無理に他人と仲良くするなんて出来ないし、したくない。ホントに気が合うヤツだけいればいいんだ」
「そっか……じゃあさ、波多くんは?」
 波多か……
「まあ、俺と話す希有な存在であることは確かだが……ただのお節介焼きだ」
 アイツは、どうして俺につきまとうんだか……
「そんなこと言って……ホントは違うんでしょ?」
 舞は微笑むような、咎めるような、分かりにくい表情をする。
「……………………」
 嘘は付きたくない。だけど、本当のことを言うのも恥ずかしい。
「……もう、素直じゃないなぁ」
「……………………」
「あの、さ……あたしはどうなの?」
 ためらいがちに訊ねてくる舞。
「え……」
 俺が思わず見ると、舞は目をそらしてしまった。
「……別に、深い意味じゃないけど……その……」
「……舞は、なんて言うか……」
 気が合うのは確かだ。話していると楽しいし、きっと一緒にバカやっても楽しいと思う。
 だけど……そういうのとは、違う気がする。
 俺は、舞のことをどう思っているんだろう?
 自分の気持ちが分からない。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「あの……あ、あたし……」
「ん? もう戻る?」
「そうじゃなくて……」
「…………???」
「えっと……いいや」
「いいのか?」
「まだちょっと……えへへ……」
 照れ隠しに笑う舞。
「これ以上冷えると本当に風邪引いちまう。帰ろう」
「うん……」
 カツンカツンと、階段を下りていく。もう非常灯ぐらいしか点いていなくて、あたりは暗かった。
「わっ!?」
「大丈夫か!?」
 転びそうになったのを支える。
「…ありがとう」
「ん……いいよ」
 あまりに違和感が無くて、ふと、このまま二人でいられたら……と考えてしまう。
「……もう、誰も残ってないね」
「まあ、こんな時間だからな」
 腕時計を見ると、午後六時。この時期の六時は真っ暗だ。
「なんだ、意外とまだ早いんだ」
「まあ、早いといえば早いが……」
 舞はぴょこんと俺の前に出ると、
「ね、勉強教えてくれるって言ってたでしょ?」
 いきなりそう言った。
「はい?? ああ、確かに言ったけど?」
「じゃあさ、今日家に来て教えて欲しいんだけどな」
 今日か……それはまた性急な話だ。
「まあ、いいけど」
「ホント? ありがとう、武」
 今、『武』って名前で呼んだ……?
「…………あ、ああ。自分で言ったことだしな」
 ちょっと、平常心じゃない。
「えへへ……」
 舞は照れたように笑っていた。

 今、俺たちは舞の家への道を並んで歩いている。……こんな時間に人の、しかも女の子の家を訪ねるのは何かまずい気もしたが、舞は全く気にしていないようなので、俺も気にしないことにする。
「なぁ、舞」
「んー、なに?」
「今日は何を教えればいいんだ? 学校から直だから、今日授業のあった科目しか教えられないが……」
 何か話していたくて、でも面白い話題がなかったのでこんな話になってしまった。
「何でもいいよ。武が教えてくれるなら、何でもいい」
 そう言って、俺に笑いかける舞。
 その屈託のない笑顔に、思わず俺の頬も緩んだ。
 
 軽い足取りのまま、舞の家に着いた。
「へぇ……」
 女の子の家なんて来たことがないから、ちょっと…いや、かなり緊張する。
「ただいまー!」
「………………」
「………………」
 ひょっとして、ひょっとするのか?
「あれー、この時間なら帰ってるハズなんだけど……ま、いっか」
 舞は家に入っていく。
「武も早く。まあ、中も同じくらい寒いけど」
「あ、ああ。……おじゃましまーす」
 玄関。別にどこかヘンな所があるわけじゃないのに、何か、すごく、おかしな気分になってくる。
 ここが、舞の家か……
「ほらほら、そんなトコに突っ立ってないで。上がっていいよ」
「おう」
 靴を脱いで、家に上がる。
「こっちこっち!」
 舞はたたたっ、と小走りで俺を案内する。
 くるっ、と振り向くのも、すごく……新鮮。
「あたしの部屋二階なの。行こっ」
「お、おい。ちょっと速いって……」
「武が遅いんだよ〜」
 舞は元気だなぁ……
「……ここだよ。さ、入って」
 ガチャ
「失礼しまーす……」
 部屋は、すっきりとしていて綺麗だった。もっと乱雑なのかな、とも想像してたけど、見事に裏切られた。
「へぇー、綺麗だな」
「ん? んん……まあね」
「綺麗好きなのか? あまり掃除をしそうには見えなかったよ」
「あっ、ひどーい。それじゃあ、あたしが不精者みたいじゃない」
 むー、とこちらを覗き込みつつ睨む舞。
「ご、ごめん。舞って、その……元気だからさ、つい」
 ドギマギしてしまう。
「あ……うん。気にしてないから。それに、あの……『元気』って言ってくれて嬉しいし……」
「えっ??」
「…………(赤)」
「あ、あはは……」
 何か、変な雰囲気になってしまった。
「そ、そうだ! 勉強しなきゃ!! あの、ちょっとジュースとか取ってくるから、待ってて!」
 やけに慌てて出て行く舞。
 …………
「きゃっ!」
 ドタッ!!
 何かあったのか!? 急いでドアを開けて廊下の先を見ると、舞が倒れているのが目に入った。
「舞!?」
「いたたた……」
 今日こけるのは二回目だ。まったく、そそっかしいんだから……
「もう少し慎重になれよ。ほら、立てるか?」
 結構派手にこけたようだ。まだふらふらしている。ジュースは我慢して、とりあえず舞を部屋に連れて行かないと。
「部屋に連れてくぞ」
「……うん……ゴメンね、せっかく来てくれたのに……」
「そんなこと気にするな」
「……ありがとう……」
 隣で支えながら部屋まで連れて行った。
「ここでいいか?」
 舞はあたりを少し見回して、うん、と言った。
 そっと、ベッドに横たえる。暖房が効いてきているので、寒くはないだろう。
「………………」
「………………」
 無言が続く。まあ、居心地の悪い沈黙じゃない。
「…………んん……」
「……どうした?」
「ちょっと、痛い……頭が痛いだけ……」
「何か冷やすもの持ってこようか?」
 と言っても、どこに何があるかなど微塵も分からないのではあるが。
「……うん、お願い……あ、でも場所、分かんないよね」
「そりゃ、初めてだからな」
「ええと、じゃあ説明するね? まず、階段下りて左に行くと、ドアあるから……廊下の左側ね。そこが台所で、冷蔵庫の中に保冷パックがあるよ。タオルは……適当に探してきて? でも、その、絶対にバスルームには入らないで……ちょっと今まずいから……」
 めちゃくちゃバスルームの中が気になるが、入るなと言うなら入らないでおこう。
「おう、分かった。大人しく待ってろよ?」
「うん……待ってる」

「ええと……」
 階段を下りて左。で、廊下の左側のドアか。
「ここかな?」
 ガチャッ
「…………」
 あった、冷蔵庫。中から目的のものを取り出す。
「さて、直接だと冷たすぎるよな。タオルってバスルーム以外にどこにあるかな……?」
 見回すと、ちょうどダイニングルームのイスに掛けてあるのを見つけた。
「よかったよかった。あんまり人の家でうろうろするのは避けたいからな」
 保冷剤をタオルで包んで……よし。早く持って行ってやらないと。
 すぐに舞の部屋に戻る。
「おーい、持ってきたぞ」
 見ると、もう体を起こしていた。
「大丈夫か、体起こして」
「うん。たいした怪我じゃなかったから」
「そっか、良かった。保冷剤持ってきたぞ」
 タオルで包んだ保冷剤を渡し、ベッドの近くに座った。
「ん、冷たい……」
 舞は、頭の後ろの方に保冷剤を当てて、片目を閉じて、いたたーとか言ってる。
 何でもない仕草。でも……
「………………」
「……?? どうしたの、武」
「いや……なんでも、ない」
「ならいいけど」
「………………」
「ね、武」
「何だ?」
「あのさ……今日、屋上で言いそびれちゃったコト……」
 言葉を選ぶように、ゆっくりと喋る舞。
「ああ、俺も気になってたんだが、なんだったんだ?」
「あの、その……えっとね……あたし、その……」
「……?? 舞が、何だ?」
「あの、あたし……んと、えと……た、たけ………………やっぱりいいや……」
「はっきりしないな。舞らしくない」
「……………………」
「……まあ、いいけど」
 気になる。すごーく、気になる。
「……………………き……」
「えっ? 何か言った?」
「な、なんでもない……!」
 舞は耳まで真っ赤になっている。……気になる。
「笑ったりしないから、ほら言ってみて」
「い、いいよ。また、後で……」
 あたふたしている舞。
「だめだめ。ほら、言っちゃえば楽になるよ?」
「あたしは被疑者か!」
「あ、そうかもね? ……あははっ」
「あは、あはははっ……」
「はははっ、あはっ……」
「くすくすくす……なんかおかしーね?」
「それは、舞のせいだろ……くくくっ」
「なんでー? 武だって……」
 そうして、しばらくの間互いに笑い合っていた。

「あ……外、見て……」
 ふと、舞が窓の外を指差した。
「……雪なんて最近降ったことないよな……」
 珍しい。ここ数年、地球の平均気温はぐんぐん上がり、雪など豪雪地帯と呼ばれるところだけのものになっていた。
「今日も、昼間はあったかいと思ったんだけど……」
 舞は、うっとりと雪が降るのを見つめている。
「…………………………」
「…………………キレイ」
 俺は、そう呟く舞の横顔こそ綺麗だと思った。……口には出せないが。
「…………………………」
「…………………………」

 その後、俺たちは一応の目的である勉強をした。

 ふと、時計を見てみる。えっ? もう10時になってるぞ……
「そろそろ、帰らないといけないかな……」
 名残惜しいが、このまま泊まるわけにも行かない。
「ううん、大丈夫。今日はお父さんもお母さんも帰ってこないみたいだから。……それとも……その、あたしとあんまり一緒にいたくない?」
 舞は、じっ、と上目遣いに俺を見つめてくる。
「え、いや……そんなことは無い……」
 平常心を保つなんて、無理だ。
「本当に? なんか、どもってるのがすごくあやしいんだけどな……」
「それは、舞が……」
「ん??」
 小鳥のように、首をかしげる舞。
「なんでもない……」
 カワイイから、なんて面と向かって言えるわけないだろ……
「はっきりしないなあ、もう」
 そうやって、覗き込まれると余計言いにくい。
「ええと……とにかく、一緒にいたくないなんてことは絶対にないから、大丈夫」
 目をそらして、そう言った。
 ん…? アレは……
「あっ、これ……」
「ああ!! 見ちゃダメっ!」
 そう言って舞は俺の手から写真立てをふんだくったが、あれはどう見ても高校総体の時の写真だ。
 しかも陸上部……俺の部活の。
 舞は確か……何部だろう? 陸上部ではないハズだ。
「そう言えば、舞って何部だっけ?」
「………………」
「さっきの写真、陸上部の総体だろ?」
「………………」
 むー、と睨む舞。
「……分かった分かった、もう訊かないから睨まないでくれ」
 ちょっと呆れたけど、そこまで知られたくないのならしょうがない。
「……バスケ」
「えっ……?」
「私、バスケット部だよ……」
 目をそらして頬を赤らめて、少しふてくされたように答える舞。
「そうだったんだ。だけどそれならどうして……」
 陸上部なんかの写真を?
「そんなの、自分で考えてっ!」
 ふん、と。
 本当にふてくされてしまった。
「………………」
「………………」
 少し、気まずい。
「あ、あのね……」
 舞が口を開いた。
「うん…?」
「私、陸上部に好きな人がいるの」
「そ、そっか……」
 やっぱり、好きな人がいると言われると、あなたと私は友達なだけですよ、と言われているようで落ち込む。
「……でも、どうして俺にその話を……」
 ひょっとして、俺を通してラブレターでも渡すつもりなのだろうか。
「もう、分かんないの……?」
 うーん……
「……ごめん、分からない」
「はぁ……鈍いんだね、武って……」
 呆れたように、舞は言う。
「………………」
 なんと言っていいか分からず、黙り込んでしまう俺。
「………………」
「………………」
 時刻は、もう10時30分を過ぎている。
 そろそろ……
「武……」
「なに?」
「もう、帰るの……?」
 ちょっと前にも同じような問いを受けた気がするが…
「……まあ、ね。もう少しいたい気もするけど、時間が時間だし……」
「そっか……」
 舞は、目に見えて落ち込んでしまった。でも、今の俺はどうするべきか判断することが出来ない。
「こんなに遅くまで帰ってこなかったら、武の親も心配するよね……」
「…………ごめん」
 なぜか分からないが、謝罪の言葉が出た。
「えっ…? どうして?」
「よく分からないけど……ごめん」
 それを聞いた舞は、しばらく呆気にとられていたが、やがて、とても優しい顔になった。
「うん……」

 そして、中西家の前。先ほどから降っている雪は、既に道に積もっていた。
 車の通った後はなく、汚れのない白が広がっていた。
「武、今日はありがとう。すごく勉強になったし、すごく楽しかったよ」
 両手を後ろにまわして、見つめてくる舞。
「ああ、そう言って貰えると来た甲斐があったな」
 ………………
「それじゃ、また明日学校で……」
 俺はそう言って、背を向けた。
「武……」
 一歩踏み出したところで呼ばれたので、振りかえる。
「ん? ……!!!」
 柔らかな感触、唇……
 目の前にはさらさらした舞の髪……
 舞の香り……
「……私の好きな人って、武だよ……」
 そう言って、舞は家の中に駆けて行ってしまった。
 ……………………
 ……………………
 ……………………
 ……………………
 ………………キス。
 ……………………
 舞が、俺に………
 ……………………
 ……………………
 雪の降りしきる夜。
 俺は忘我し、ただ佇んでいた。

 しばらくした後……冷たい風が気持ちいい事で、俺は自分が真っ赤になっているだろう事に気が付いた。



 翌日

「おっす、武!」
 あの後、結局家に帰ったのは12時過ぎ。家の鍵は植木鉢の下という泥棒さんの格好の餌食になるような家に住んでいる俺も、あの時ばかりはそれに感謝したものだ。しかし、そうして家に入っても、別れ際の舞の一撃のせいでずっと寝付けず、空が白み始めるまで悶々としていた。
 ……よって、眠い。
「ああ……おはよう……」
「おんやぁ? テンション低いねー、チミー」
 波多はうざい。
「さてはあの後何かあったのだね? さあ、ワタクシがなんでも悩みを聞いてあげようじゃないか。言ってごらん?」
 バキッ
 寝ていないとは思えないほどの右ストレートが決まった。
「ぐぁ……」
「……ふわぁぁ……」
 触らぬ神に祟りなしと、波多は消え去ったようだ。
「……………………」
 ぼーっと、あたりを見回す。
 …………
 舞は、まだ来てない。顔をあわせたらどう対応すればいいのだろうか、昨日からずっと考えている。
 ……考えたところでどうなるワケでもないと分かっているのだが。
 …………
 昨日の、舞の唇の感触を思い出してしまう。意識しないようにしても、どうしようもない。
 …………どうしようもないので、寝ることにした。
 とりあえず、いつも通りの机に突っ伏して眠る基本スタイル。
 …………
 …………
「おはよー、舞ちゃん」
 ……隣の女子の声で舞が来たことに気がついた。
「うん、おはよー……」
 心なしか、眠そうだ。
「あれ? 舞ちゃん眠そうだね?」
「……ちょっと、ね……あふ……」
 トサッ 荷物を置く音がした。
 ガタッ どうやら、イスを引いたみたいだ。
 ……舞が気になる。後ろを見てみたい誘惑に駆られるが、振り向いた時に目でもあったらそれこそパニックになってしまうだろうから、止めた。
 …………
 やっぱり、舞もあの後眠れなかったみたいだ。まあ、当たり前かも知れないけれど。とにかく、俺だけが一人でやきもきしていたわけではないと分かって、少し安心した。
 …………
 …………
 …………
 さっきまでの騒ぎが収まった。どうやら先生が来たようだ。
 起立、注目、礼……
 朝のショートが始まったので、俺は再び眠りにつくことにする。今日は舞も眠いみたいだし、怒られはしないだろう。多分……

 そのまま、一時間目に入った。
 …………
 やっぱり、舞は何もしてこない。
 そろ〜っと見てみると、カクン、カクンと頭が揺れている。
「ん……んん……」
 寝ぼけているのか、時々声を漏らしながら目をこすっている。
 と、急に目をぱっと開いた。
 えっ??
 目が合ってしまった。
 固まる。幸いに、ここは教室の端のそのまた端だ。俺たちが何をしているのか分かる者はいないだろう。
 ……いや…………
 波多、あいつは暇人だからな……
 どうせ後でニヤニヤしながら近づいてくるのは必至だろう。
 ……あっ!!
 バッと顔を戻す……
 今更だが、さっきからずっと見つめ合っていたハズだ。舞はどう思ってたんだろう??
 ……はぁ……
 まったく、なんでこんなことになってるんだ……?
 昨日一日で、何だかよく分からない関係になってしまった。
 いや……昨日のアレから考えれば、舞が……その……俺の事を好いてくれているのは確かだ。だって、告白……されてしまったし。俺は、舞と一緒にいると楽しい。外見も結構……いや、かなり可愛いし……断る理由なんて無いんだけど……
 俺は、あまりにいきなりすぎて……ちょっと、戸惑ってしまっている。

 そして、放課後。
 ぼぉーっと、窓の外を見る。結局、舞と話らしい話はしなかったな……
「……武」
 おわっ!!?
 横を向くと、顔を近づけている舞がいた。
「い、いきなり耳元で囁かないでくれ……」
「えっ……うん、ごめん……」
 舞は下を向いてしまう。
「いや、別にいいんだけど……それより、何か用があるんだろ?」
 舞はちょっと顔をあげて、また下げた。
「うん……でも、やっぱりいいよ」
 『いいよ』って顔じゃない。
「遠慮するな。俺だって気になるじゃないか」
 そう言うと、舞は首を振った。
「ごめんね、ホントに大したことじゃないから……」
 バイバイ、と残して舞は行ってしまう。
 ………………
 ………………
 ったく、あいつ、俺が放っておけなくなる事位分からないのか……?
「おい、舞!」

 屋上。
 舞は、そこにいるはず。
 ジャリ……ジャリ……
 昨日は気付かなかったが、この階段は掃除なんてまともにやっていないようだ。砂埃やら何やらが階段を覆っている。いくつか付いている足跡は、きっと昨日の俺と舞のものだろう。
 ……それと、今日舞が付けたはずのものも……あるはずだ。
 ドアの前に立つ。
 ……そこにいるんだろ? 舞……
 ガチャッ……
「……舞」
 果たして、舞はそこにいた。
 フェンスに寄りかかって、昨日の様に、夕焼けの景色を見ていた。
「……やっと、来た」
 舞は、微笑みながら顔だけをこちらに向ける。
「……ここにいると思ってた」
 ふふっ、と舞は笑い、顔だけでなく体もこちらに向けた。
「遅いよ」
 舞に歩み寄っていく。
「ごめんな。ちょっとゆっくり来すぎたみたいだ」
「………………」
「………………」
 舞と、およそ30cm。
「武……昨日の返事、聞かせて?」
 舞は、さっぱりした口調でそう言った。
「俺は……」
 じっと、見つめてくる舞。
「…………」
「俺は…舞と一緒にいて、ホントに楽しい。だから、一緒にいたいと……思ってる」
 泣き笑いに近い表情をして、舞は俺を見ている。なんだか、とても儚い。
「俺も舞が好きだ」
 そう言うと、
「……うっ、ぐすっ」
「舞!!?」
 なぜか急に泣き出してしまった舞。
「ぐすっ……ひっく……」
 どうしよう、どうすればいい?
「……えっ、えっ……」
 ああもう!!
「ひっく、武……?」
 舞を抱きしめた。
「…………」
 何も言わない。こう言う時にあれこれ理由を尋ねるのは野暮だ。
「……ぐす……っく……」
 舞は、両手で俺のシャツを掴んで、泣いている。
「…………
「……ひっく……」
「…………」
 日は既に沈み、あたりは薄暗い。
「…………」
「武……ぐす……えっと……」
「…………」
「ありがと…その…『好き』って言ってくれて……」
「それが俺の偽り無い気持ちなんだ」
 ぐっと、抱く腕に力を込める。
「お礼なんて、言わなくていい」
「……うん……」
「…………」
「あと、こうして…抱きしめてくれて、ありがと……あたし、こういうの初めてなんだ……へへっ」
 ドクン、と。俺の心臓が跳ねた。かあっ、と顔が熱くなっていく……
「……そ、そうか……」
 俺の変化に気付いたのか、舞は不思議そうに俺を見上げてきた。
「……??? 武、どうしたの?」
 もう、反則だ。
「きゃっ……」
 見つめられていると、どうにかしてしまいそうだったので、舞の頭を俺の胸に抱いた。
「えへへ、武って暖かい……」
 何も考えられない。
「…………」
 今気が付いたが、今日も珍しく寒い日のようだ。長くここにいては風邪を引いてしまう。
「……なあ、舞。そろそろ、戻らないか?」
「うん。でも、私は武があったかいからいいんだけど……ね?」
 うっ……
「さ、さあ! 戻るぞ!」
 恥ずかしくて、つい声が大きくなる。
「うん!」
 俺の隣にぴたっと寄り添う舞。
 ………………
 多分、俺は今までの人生で一番幸せだ……

 …………
 ………
 ……
 …

「というワケで俺と舞は付き合い始めたんだ」
 すっかり空は夕焼けに染まっている。
 あの頃の様に……
「……ふぅん」
 つぐみはやっぱり面白くないのだろう。昔の事だとしても、俺とつぐみ以外の女性が仲良くなる話なのだから。
「武が話し始める前に言ってた『あまりいい話じゃないぞ』って感じじゃ無いみたいだけど?」
 苦笑して俺は答える。
「まあ、な。あの頃は幸せだったよ」
 視線を落とす。いや、視線が落ちた。
「……………………」
「つらいの? だったら、ここで終わりでも……」
 つぐみは俺を気遣ってそう言ってくれる。
「いや、つぐみには話すって決めたんだ。俺は大丈夫」
 つぐみを見て笑う。かなり無理をしているのが自分でもわかったが、ここで止めるわけにはいかない。
「…………聞かせて」
 俺は頷いて、またあの頃に戻っていった。

 …………
 ………
 ……
 …

 2013年2月

 付き合い始めてからだいたい一週間。何というか、色々変わった。
 まず、一番変わったのが起床。舞の家まで迎えに行くので、かなり早くなった。今まで一時限目にいないことが多かった俺が、ここ数日全て遅刻していない。……何とかの力は本当に強いようだ。まあそれでも、初日は遅刻ぎりぎりになって舞に叩かれたんだが……
 次に変わったのは食事。これには一言だけ……慣れない事はするもんじゃない、以上。
 三つ目は……学生が『在学中』でも『卒業』できることで、その、俺達も年頃ってコト……
 まとめると、ちょっと前とは別世界になったと言う事だ。

「なあ、舞」
 隣でパンを食べている舞に声を掛ける。
 ここは舞の家。まあ、色々あった場所だ。
「うん?」
 舞は口をもぐもぐさせている。
 数十秒して、ようやく全て飲み込んだ舞は俺の方を向いた。
「なーに?」
 ……何というか……
「明日、俺斉藤達と―」
「ダメッ!」
 舞は俺の口を手で押さえてしまい、そのままじーっ、と俺を見ている。
 このままでは仕方がないので、舞の手を掴んで意思表示した。
「…………」
 俺に、半ば睨むような視線を投げかけたまま、舞は手をどける。
「あのさ、一応約束しちゃったんだよ……」
 舞の視線が意地の悪いものに変わった……
「浮気者」
「だから、ただ単に友達として遊びに行くだけだって……それに、舞だって用事があるって言ってたろ?」
 そんな風に、見ないでくれ……
「…………」
「…………」
 はぁ、俺はどうすればいいんだ??

 結局、ぎこちない状態のまま次の日になってしまった。


「あ、倉成が来たわ」
 俺を最初に見つけたのは斉藤だった。
「こっちこっち〜!」
 手招きしているのは……誰だ?
「……おう」
 短く返事する。……はぁ……
「みんなそろった事だし……さあ、行きましょう」
 斉藤はやっぱりリーダー気質のようだ。
「…………」
 はぁ、やっぱり断るべきだったかな……
 舞は、俺の前では強気だったけど、めちゃくちゃ落ち込んでるだろうし……可哀想なことしたな……
「ここ、おいしいんだって〜」
 そんな気持ちをかき乱すように、斉藤の取り巻きの一人が声を上げた。
「……へぇ」
 何とも気のない返事だ。
「なんだか、そういう所が一筋縄でいかなそうでカッコイイな」
 などと言って、俺の気持ちなど考えもしない。
 ……でも、そんな風に考えてしまう自分が何故かとてもイヤだった。

 食事を終えた俺達は、次の目的地にいた。
「えっと、ここだね」
 斉藤が俺達を案内したところは、つい先日オープンしたばかりの最新の映画館。
「すごいな」
「倉成くん、何見るの?」
 斉藤が訊いてきた。
 ……どれを見ようか。まあ、どれでもいいんだが……
 ……どれもいまいち……
 ……!!!
「な、な……」
「どうしたの、倉成くん…?」
 広告の前に、いた。
「……ちょっと待ってて」
 走って行くと、すでにそこにはいなかった。あたりを探す。
 二階に向かうエスカレーターに乗っているのが見えた。
「すいません、通して下さい!」
 人混みをかき分ける。
「すいません!」
 エスカレーターも人の隙間をぬって駆け上がる。 
「はぁ、はぁ……」
 どこだ、どこに……
「いた……」
 業務用通路の奥の方。
 薄暗い。照明は殆どその役割を果たしていないようだが、俺はそこにいる「大切な人」の存在を感じた。
「……こんにちは。奇遇だね、武」
 舞が、そこにいた。
「……どうして、ここに?」
「……ただ、映画を見に来ただけだよ」
 と言うと、舞の用事って……
「なんだ、『用事』ってこのことだったのか?」
 ジトーッとした視線を感じる……
「武には関係ないでしょ。あたしを放っといて他の女の子と遊んでるんだから」
 やっぱり、怒っているようだ。
「あのな……舞が、日曜日は予定があるって言ってたから……」
「……ばかっ!」
 えっ?
「いきなりバカとはなんだ、バカとは」
 暗闇で、舞の表情が分からない。
「ばかだからばかって言ったの! そういう問題じゃないんだよ! あたしに用事があるとか、ないとか、関係ない! あたしが武からその話を聞かされた時、どんな気持ちだったか分かる!? 断って欲しかった。あたし、武が斉藤さん達の誘いを断ってくれるの待ってたんだよ! 武なら……武なら……あたしのコトを分かってくれると思って……」
 通路に舞の声がこだまする。
「俺は……」
 舞はかぶりを振った。
「あたしだって、自分勝手なコト言ってるって分かってる! でも、でもね……分かっていてもどうしようもないの! 武が、他の子と一緒にいるだけで、あたしは…!」
 俺は、ゆっくり舞に向かって歩き出した。
「え……武、イヤ……来ないで、来ないで!」
 無視する。
「ダメ……こんなひどいあたしなんかに近づかないで!」
「舞のどこがひどいんだ?」
 俺は訊ねた。
「だって、あたし……武達が楽しんでるのを妬んで、それで、それを壊しちゃえって……そんなコト考えるあたしなんてひどいに決まってるじゃない!」
 立ち止まる。あと1mくらい。
「そんなの、俺は気にしてない」
「ウソだよ! そんな訳ないよ!」
 舞は意外と心配性だな。
「そんな訳ある。だって、俺は舞に会えて嬉しかったんだぞ」
 息を呑む気配。ここまで近づいても互いの顔は殆ど分からない。
「どうして……」
「わからないか?」
「…………」
「あのな、正直に言うと、俺は今日一回も楽しいなんて思わなかったんだ。それどころか、ずっと舞の事を考えてたんだぞ。舞に悪いことしたな、とか……舞は今頃何してるんだろう、とか。だから、俺は舞に会えて嬉しいんだ。だから、今日の事なんて気にしてない」
 呆然としているであろう舞。
「……武……」
「…………」
「ごめんなさい……」
 舞は今にも泣きそうだ。
「いいんだ」
 舞を安心させる為と、こんなにやきもち焼きな舞が愛しくて、抱きしめた。
「あ……武」
「…………」
「大好きだよ、武」
 舞の方からも強く抱きしめてくる。
「俺もだ」
 …………
 …………
 …………
 しばらくして、気が付いた。
 斉藤達をかなり待たせているという事に。
「なあ、舞」
 ごろごろと喉を鳴らしそうな勢いで甘えていた舞に、話し掛ける。
「……うん?」
 恍惚とした表情の舞が俺の話を聞いているかどうかはなはだ疑問なのだが……
「どうせなら、一緒に映画見ないか?」
 斉藤さん達が待ってくれているか分からないが。
「………………えっ?」
 きょとんとしている舞。
「だから、一緒に映画見ないか?」
「……ホントにいいの?」
 だんだん正気に戻ってきたようだ。
「でも、斉藤さん達怒ってないかな…? あたしのせいで遅れちゃったんだし……」
 やっぱり気にしてるんだな。
「気にしなくていい。俺が何とかごまかすよ」
 そう言って、舞の頭を撫でた。
「んん……」
 舞は気持ちよさそうに声を出した。
 なんだか、本当に猫みたいだ。できればこのままいちゃいちゃしていたいが……
「さ、そろそろ行こう」
 あまり待たせるのもどうかと思うし。

 斉藤達は、俺を待ってくれていたようだ。
「遅かったじゃない、待ったのよ……って中西さん?」
 最初は俺に文句を言っていたが、すぐに隣の舞に気が付いた。
「こんにちは、斉藤さん」
 舞は軽く会釈した。
「それで…どうして倉成くんと中西さんが一緒に来たの?」
 驚きと疑いの目で俺を見る斉藤。
「それがさ、さっき俺が走って行ったのは昔の友人を二階に見つけたからだったんだけど、結局見つからなくて。しばらく探してたら、ま……中西がいてさ。どうせなら一緒に見ようって誘ったんだ」
 危うく『まい』と呼んでしまうところだった。
「へー、そうだったんだ」
 と斉藤が言った。
「うん、どれを見ようか迷ってた所に、たけ……倉成が誘ってくれたから丁度いいかなって」
 舞も危なかったな……
「だそうよ。みんな、いいでしょ?」
 斉藤の問いに皆頷いた。
「ありがと、みんな」
 舞は笑った。
「さて……じゃあ改めて、何を見ようか?」

 …………

 …………

 …………

 俺達が見たのは、恋愛ものだった。
「どうだった、舞」
 斉藤達と少し離れ、小さな声で訊いた。
「面白かったよ。けど……」
 少し納得のいかない風の舞。
「けど、何?」
 訊いてみる。
「あの終わり方、なんだか悲しすぎて」
 確かに、切ない終わり方だった。
「舞……」
「あたしは、あんなのやだな……」
 舞は下を向いてそう言った。
「だって、あの人がいなくなっちゃうのは誰のせいでもなくて、でもみんなのせいなんだよ? 残された男の人は誰を責めればいいの? どうやって忘れればいいの? それとも、ずっとその人の事を想って……想って……想い続けて……その気持ちに苦しめられながら、生きて行かなくちゃいけないの?」
「…………」
「ねえ、武……もし武があの男の人で、あの女の人があたしだったら、どうする?」
 舞が……いなくなる……?
「そんなの、考えたくない」
 俺を見つめている舞。
「いいから、答えて?」
 真剣な表情の舞。
「そうだな……多分、世界中を探し回るだろうな。舞を見つけるか、俺が死ぬまで」
「どこにいるか分からないんだよ、それでも探すの?」
 不安げに、舞は俺を見る。
「だって、探さないって事は諦めるって事だろ? 俺は、まだどこかで舞が生きているのなら、絶対に諦めない。諦めてしまうほど、俺の気持ちは弱くない」
 舞は赤くなって
「ありがと、嬉しい」
 と、消え入りそうな声で返事した。
 ……思わずこの場で抱きしめたくなった。
「今度は、二人っきりで来ような」
 俺はそう言って笑った。
「うん……」
 舞も、恥ずかしそうにしながら笑っている。
「おーい、二人とも置いてくよ〜」
 呼ぶ声に答えて、俺達は駆け出した。



 2013年4月 倉成武二年生

「ほら〜、早く!」
 舞はクラス表の方に俺を引っ張っていく。
「待ってくれ、舞……」
 校舎の上での告白の後から付き合い始めて、2ヶ月ほどが経った。俺たちは出来る限りの時間を共有し、多少のトラブルを交えながらもお互いを深く深く知り合った。その時間の経つ速さはまさにあっと言う間だった。気が付くともう春休みも終わり、二年生になっている。
「あ……」
 舞はクラス表を見て、次に俺を見ると、
「えいっ!」
 と飛び付いてきた。最近は、この舞の大胆な行動にも慣れてしまったようだ。
「あははっ、同じクラスだったんだな」
 両腕に感じる、確かな少女の体温。
「うん!」
 まったく、端から見るまでもなくバカップルだ。
 そうだ、端と言えば……
 波多の野郎が俺達の関係をどうやって知ったのかは知らんが、その事実を、自身の築き上げた情報網を逆利用して学校中に暴露した。おかげで俺達はどこを歩いても好奇の視線を投げかけられてしまう。
 まあ、そのおかげで周りを気にせずこんな事……殆どの同級生が集まっている中で抱き合ったり出来るのだが。ばれてしまった後には視線など気にする必要はない。……いや、本当は気にしなきゃいけないのだろうが。

  ガヤガヤ……
   アレがうわさの倉成、中西カップル?
  そうそう、いいよね〜
   うん、倉成くん格好良いし、中西さんもカワイイし。
  一度でいいから代わってくれないかなぁ……
   無理だって

 ………………はぁ……
「舞、舞……」
 新学期早々甘えている舞に声を掛ける。
「うん…?」
 甘い声をだす舞。
「そろそろ教室に行かないと……」
 舞はちょっと残念そうだ。
「そうだね、いつまでもここにいても仕方ないか」
 と言うより、ここにいると周りの視線が……
 慣れたとは言え、少し冷静になるとめちゃくちゃ恥ずかしい。
「よし、えーと…俺達は2−6か」
 クラス表を見て確認する。ちなみに俺の高校では、1〜4が理系クラス、5〜8が文系クラスだ。
「さ、行こっ!」
 舞はいつになくハイテンションだな。
「おう」

 廊下を歩く。
「あたし、武と同じクラスで本当に良かったな」
 舞はそんな風に言って俺を見上げる。
「俺も嬉しいよ。あ、でも……」
「どうしたの?」
 怪訝そうな舞。
「授業中寝られないなって」
 バシッ!
 痛っ!
 俺の後頭部あたりから小気味良い音が鳴り響いた。
「ま〜た、そんなコトばっか考えてるんだから」
 軽く睨まれる。
「あはは……」
 なんだか恥ずかしくなって目をそらす。
「もし寝てたら、キスして起こしちゃうから」
 な、なっ!?
「ななな、何を言ってるんだよ、舞は……」
 冗談、だよな…?
「ふふふっ♪」
 と言うか……
「寝てたらキスできないだろ」
 俺がそう言うと、あっという顔をしたあと、舞はにやっと笑った。イヤな予感……
「じゃあ、キス以上のコトを……」
 な……顔が赤くなるのが分かる…
「そ、それこそダメだ!」
 舞は俺が慌てるのを見て笑っている。
「もう武ったら冗談だよ〜……えっ…?」
 ドサッ……

 ………………
 ………………
 ………………
 こういう、何でもない時間が大切だったと気付いた時は……もう遅かった。



 2013年4月 

 国立循環器病センター
 
 第一病棟210号室。ここには舞と俺しかいない。
「あはは……ちょっと風邪でも引いちゃったのかな」
 舞はそう言って笑う。
 …………
 …………
 風邪なんかじゃ無い事は舞が一番よく分かってるはずだ。
「そう、だな……」
 笑えない。舞に笑いかけてあげたいのに、笑えない……
「……武……」
 俺の名を呼ぶ声に、力がない。
「何だ…?」
 舞は微笑んだ後言った。
「あたしに……構わないでいいんだよ?」
 ……!!
「何だって?」
「あたしに構わないで……武って優しいから、ずっとあたしの側にいてくれるでしょ? でも、それはダメなんだよ」
「どうしてだよ、舞」
 なんとか聞き返す。
「……つらそうな武を見るのは、つらいの……それに、武には武の生活があるでしょ? それを壊したくない……」
 そんなこと。
「いいんだ、舞。気にするな。俺は、舞の側にいたいんだ」
 ふふ、と声を出す舞。
「武……本当に、やさしいんだね……」
 困ったという顔をしている舞。
「そうか?」
「うん……」
「…………」
「武、お願いがあるんだ。聞いてくれるかな……?」
 舞はゆっくり喋る。
「ああ、もちろんだ」
「…………手……つなぎたいな……」
「……分かった」
 ギュッと、舞の右手を握る。
 強く、強く……
「武……もういっこお願い……」
 手を握ったまま答える。
「何をすればいいんだ?」
「えっと、その………………やっぱりいいや……また、後で……」
 舞はそう言って目を閉じ、俺は舞の手を握ったまま、ずっとそこにいた。


 コンコン…
 ノックの音だ。
 舞を見ると、もうすっかり寝ついているようだった。
 どうする? 声をあげたりすれば舞は起きてしまうだろう。だけど、無視するわけにもいかない。
 しかし、そんな風に考えている内に、訪問者は部屋の中に入って来た。
 舞の両親。優二さんと、美千子さん。
「こんばんは……武くん」
 優しそうな目に憂いを帯びさせて、小声で挨拶をしてくる優二さん。
「ええ、こんばんは……この度は随分……」
 そこまで言って、俺は言葉を止めた。
「……んん……」
 舞が目を覚ましそうだ。
「…………」
 ゆっくり目を開く舞。
「……お父さん、お母さん……」
 舞はまだ眠そうにそう言った。
「……舞……体の方は、大丈夫なのかい?」
 悲しそうな顔で訪ねる優二さん。
「うん……大丈夫だよ……」
 ベッドに寝て、点滴を打たれている状態が大丈夫なわけない。
「そうか……」
 それでも、舞の言葉に頷く優二さん。
「……舞……」
 それだけ言って、後が続かない様子の美千子さん。
「お母さん、そんな顔しないで……あたしまだ元気だよ」
 それを聞いて、美千子さんは更に泣きそうになってしまった。
「……あの、俺は席を外します……」
 そう言って出ようとすると…
「イヤ……武……行っちゃやだよ……」
 数時間前とは逆に、涙目で俺を呼ぶ舞。
「…………」
「…………」
 それを無言で聞いている中西夫妻。
 …………
 苦しい……
「……分かった。側にいるよ」
 親としては複雑なのだろう、中西夫妻は目をそらしている。
「…………」
「…………」
「……どうやら、私たちより武くんの方が適任らしいな」
 そう言って立ちあがる優二さん。
「あなた……舞……」
 順番に視線を送る美千子さん。
「いいんですか……?」
 訪ねる俺。
「ああ。私は明日も仕事がある……それに、家を留守にするわけにもいかない」
 無言で寄り添う美千子さん。
「舞をよろしくお願いするよ……武くん」
 俺は頭をさげた。
「はい……」
 ……舞の両親は退室した。
「…………」
「なあ、舞」
 ベッドの横に置いてあるイスに座る。
「なぁに、武……」
「……よかったのか……?」
 舞は少し驚いたようだ。
「よかったって……何のこと?」
「……舞の両親、止めなくて良かったのか?」
 舞はじっと俺を見つめた後、ふふっ、と笑った。
「いいんだよ……お父さんとお母さんには悪いけど、今のあたしは武と一緒の方が落ち着くから……」
「でも……」
 親の気持ちは理屈では説明できないものだと思う。
「……言わないで。お父さんも、あたしの気持ちを分かってくれたから……ああしてくれたんだよ」
「………………」
 それは、そうかも知れないけれど……
「……あたしね……」
 舞の言葉に、いつの間にか下がっていた視線が上がる。
「…………」
「入学式の時から武のコト好きだったんだ」
 そんな、前から……
「話し掛けたくて……どうしようもなかったんだよ……」
「……そう、か」
「あたしが勉強を頑張ったのもね……武、頭良かったからなんだ。あたしも頭が良くなったら武と話が出来るかもって、そう思って……」
 昔を懐かしむように、舞は話している。
「……そうだったのか……」
「うん……」
 …………
「う、あ……っく、あ……はぁっ…!」
 !!
「舞、舞!! 苦しいのか!?」
 急に激しく息をする舞。
「……はぁっ、はぁっ……!!」
 くそっ!! ナースコールは!?
 タッタッタッ……
 探す前に、三人の医師が飛び込んできた。
「急げ! まずいぞ……」
 どうやら、患者の体調が悪くなると何かのセンサーが異常を感知するようになっていたようだ……
「……脈拍安定しません!! 血圧異常値です!」
 ………………
「さ、あなたはこっちへ」
 女性の医師が俺を部屋の外へ誘導した……
「………………」
 何が起こったのか……頭が真っ白だ。
「……キミは、あの子の恋人なんだそうね…?」
 どうやら、どこかのイスに座らされているらしい俺の隣に、さっきの人が座った。
「………………」
「……気持ちが混乱しているでしょう? 今はゆっくり休んだ方がいいわ」
「……どうして……」
「えっ?」
「どうして、俺と舞の関係を…?」
「見てれば分かるわ。それに、あなたが来る前に舞ちゃんから聞いたもの」
「………………」
「……武くん、だったわね」
 名前を呼ばれて、我に返る。
「はい」
「……あの子のこと、知りたい?」
「病状、ですか?」
「……本当は、肉親以外にはあまり言わない方がいい事なのだけれど……特別よ」
 聞いてはいけない、と理性が圧迫する。
「………………」
 だが、どうにもならない気持ちが、俺の口を動かしてしまう。
「教えて下さい」
「………………」
 一瞬の沈黙の後、ネームプレートに高瀬とある医師は話し始めた。
「あの子……原因が無いの」
 は?
「どういう、意味でしょうか」
「そのままの意味……つまり、何らかの原因で命の危険があるほど心臓の拍動に異状が起きる……つまりひどい不整脈になるのは分かっているけれど、その原因が分からないの……現代医学を用いても……」
「そんな!! じゃあ、舞はどうなるんです!?」
 高瀬先生はうつむいてしまった。
「……半年後の生存率は30%、一年後は5%。もっとも、病状が進行しない条件で、だけど……」
 そんなの、信じないぞ……
「あ、あはは……先生、悪い冗談は……」
「冗談ではないわ! あの子は、それだけ危険なの!」
 全てが、崩れた。
 視界が割れて、何も見えなくなった。
 聴覚が潰れて、何も聞こえなくなった。
 感覚が消えて、この意識すら――

「―――!? ―――、―――!」
「――……―――――。―――――」
「―――…? ――、―――――」
「――、―――――」
「――――――――――……」
 カツカツカツ……

 何がどうなっているのか分からず……白い世界を漂っている。

 ………………

 ………………

 ………………

 どれだけ経ったのだろう……俺の顔に朝日が当たるのを感じて、こっちの世界に帰ってきた。
「俺は……」
 どうやら、先生に話を聞いた時の格好のまま、ずっと座っていたようだ。
「…………舞……」
 無意識のうちに、そう呟いた。
「なーに?」
 ええっ!?
「ま、舞!」
 目の前に舞がいる。
「おはよ、武」
 昨日の苦しみ様からは想像できないくらい明るい笑顔。
「ああ、おはよう、舞……ってそれより! 歩いたりして、大丈夫なのか…?」
 舞は、大きな目をぱちぱちと瞬かせた。
「大丈夫だよ〜。武って心配性だね」
「そりゃ、昨日の様子を見れば心配するに決まってるだろ……」
 普段と全く変わらない様子の舞に、俺の方がなぜか不安になってくる。
「うふふっ、ありがと……武。心配してくれて嬉しいよ」
 舞は一瞬、ひどく優しい顔をした。それが、やっぱり不安を煽る。
「……舞……」
 ふと、思った。
「あのさ……今、何時?」
 聞きたいのは、そんなことじゃないのに……
「えっとね……朝の5時かな?」
 5時!?
「まだそんな時間なのか……?」
 今までの人生でこんなに早く起きた事は希だ。
「そーだよ。……もう、武ったら家に帰んなくて良かったの?」
 その言葉に答えず、俺は今までにない程、熱く強く舞を見つめた。
「……え、武……?」
 舞は困惑しているようで、キョロキョロと落ち着かない。時折、俺をちらっと見てはすぐに目をそらしたりしている。
「……俺は」
「……??」
「舞が退院するまで……」
 そんな日が来るのは、絶望的なまでに無いとしても。
「…………武?」
 それが恐らく、舞がこの世から消える時だとしても。
「その日まで、ずっと一緒にいるよ」
 …………
「……知ってるんだ」
 ……!!
「え……いや……」
 俺がどもってその事を肯定すると、舞は寂しそうに笑った。
「そっか……武も……知っちゃったんだ……」
 朝日に霞む舞は、今にも消えてしまいそう。
「……ごめん」
 いいよ、と言う舞は儚く、淡い色彩の中にいる。
「………………」
 それは、なぜだかとっても綺麗で……
「舞……」
 俺は誘われるように舞に近づいていった。
「武……」
 両腕に収まる華奢な身体。

 それは、震えている。

 それは、怯えている。

 それを、愛している。

 そして、……………

 それは、消えてゆく。

「……いいんだよ……泣かないで、武」
 俺は、泣いているのか……
「ごめん…ごめん…ごめん…」

 少女一人、俺は守れない……
 大切なもの一つすら、俺は守れないのか……

「謝らないで、武のせいじゃない……」
 一番つらいはずの舞が、俺を慰めてくれている。
 俺は……何をすればいいんだろう…?
「俺、どうすれば……」
「……………………」
「……………………」
「そのままで……」
「えっ…?」
「……そのままの武でいて?」
「そのままの、俺……」
「うん……武が側にいてくれるだけで、あたしは……」



 その後の俺達は、いつもいつも他愛のない話をした。病気の事を忘れるように……
 どうでもいいウワサとか、俺の部活の事とか、友達の事とか。
 舞はどの話にも面白そうに笑い、つっこんだりして、全然病気の事なんて感じさせない。

 そして今日も……

「―それで、そいつがな――」
「うんうん」
 ベッドから身を乗り出して話を聞いている舞。
「――なんて事を言い出して……」
「あははっ、そんなコトがあったんだ〜」
 こんなに元気な舞。なのに、なぜ……
「ああ……他にも色々……」
 ……なぜ……
「……あるんだ、けど……」
「……どうしたの?」
「いや、何でもない……」
 舞はしょうがないなぁ、という風に俺の頭をつついた。
「気にするなっ!」
 は?
「気にするな、って……」
「だから〜、あたしの体のコトを気にするなって、そう言う意味」
 あ……
「……悪かった」
 もう、と舞は言って、俺を見つめた。
「武は武のままでって言ったでしょ? ……あたしだって……いつも通りに接しようとしてるんだから……」
 俺は……バカだな……
「だから、あたしの体のコトなんて気にしないで」
 でも……バカで、いい。
「それは、出来ない」
「えっ……そ、そんな、困る……あたし」
 困るって言われても、俺だってどうしようもない程困ってる。
「俺、バカだからさ……舞の言いたい事分かってるのに、出来ないんだ……俺、舞が好きだから……舞から目をそらしたくないんだ」
「…………武のばか」
 俺から目をそらす舞。
「バカついでにもう一つ……舞、俺と一緒になって欲しい」
 俺の、素直な欲求。
 ませた考えに聞こえるんだと思う。まだ成人もしていないのに結婚なんて口にするのは。でも、今考えられる舞との最高の愛のカタチはこれしかない。
 別に、形にしなくてもいいのかも知れない。もっとじっくり考えた方がいいのかも知れない。でも……このままでは曖昧すぎて、何かとても大切なものが指の間からさらさらとこぼれ落ちてしまいそうで、俺は不安でどうしようもなかった。
「えっ!?」
 俺の言葉を聞いた舞はバッと俺を見て、すぐ下を向いてしまった。
「もちろん、今すぐっていうのは無理だけど……なに、一年と少しすれば俺は18になるんだから」
 舞は手をもじもじさせて、視線も落ち着いていない。
「あ、あたし嬉しい……で、でも……あの……急にそんな事言われると……」
「………………」
 黙っている俺。
「ええと…………」
「………………」
「……うん、いいよ…こんなあたしでいいなら……」
 その返事を聞いて、俺はベッドの上に乗り、舞を抱きしめた。
「あ…………武……」
「嬉しいよ、舞……」
 トクン…… 舞の心音が聞こえた気がした。
「あたしも……」
 キュッと、俺を抱き返してくれる舞。
 互いの体が熱くて、まるで溶け合っているようだ。
「………………」


 この時……俺はある事を意識的に思考から外していた。
 それは、『一年と少し』先が、舞にとってどれだけ遠い日の話なのか……と言う事。



 2013年6月

 ……ふと、窓の外を見る。
 音も立てず、静かに高速で過ぎ去る景色。
 今更、驚くわけでもない。2ヶ月前から毎日繰り返し見ている、既に日常と化した風景。
「…………」
 病院は遠い。循環器にもっとも精通している病院を、全国から探したからだ。時間は、公共機関を利用しても2時間と少し。俺が子供の頃は東京−大阪間がこの時間だった気がするが、最近は本州の3/4をこの時間で行けるようになった。
「…………」
 正直言って、俺は高校なんてどうでも良かった。ずっと舞の側にいたかった。
 だけど、舞がこう言った。
『ねぇ、高校の様子を毎日教えてよ。そうすれば話題が無くなるコトも無いでしょ?』
 なんだか、俺を高校へ行かせる為の口実にも思えたのだが…これも舞の思いやりなのかも知れない。それに、話題が無くならないのは本当だ。高校でのちょっとした出来事を話すだけで舞はとても喜んだ。その顔を見る為だけに高校へ行っていると言っても決して間違いではない。
「…………」
 ヒュンヒュン……
 高速で過ぎ去っていく景色。
 高速で過ぎ去っていく俺達の時間。


 国立循環器病センター 療養施設

 新幹線を降りた後、バスで更に2時間。時刻は既に夜の8時を回っている。本来ならば面会は出来ないのだが、ここの院長は大らかというか、ひょうひょうとしていて、事情を話したところ快く許可してくれた。
「…………涼しいな」
 夜でも連日30度を越える下界とは違い、ここは涼しかった。
「こんばんは」
 受付の人とは既に顔見知り。挨拶だけして、すぐに舞の部屋へ向かう。
 カツカツカツ…
 107号室。
 コンコン…
 ノックをした。
「武でしょ? 入っていいよ」
 ガラッ
「…………舞、どうしたんだ……それ」
 ……呆気にとられた。
 部屋の隅に、どう考えてもあるはずの無いものが置いてある。
「えへへー、作ってもらっちゃった…」
 舞は恥ずかしそうに俺を見る。
「……ドレス」
 何度見ても間違いない。
「うん! ウェディングドレスだよ」
 ……綺麗だ。
「このドレス…すごく綺麗だな」
 素直に感嘆の言葉が出た。何というか、このドレスそのものが舞のように感じる。
「ホント? 嬉しい……!」
 舞は今にも踊り出しそうなほどに喜んでいる。
「…………??」
 よく分からない。
「あのね…このドレス、あたしがデザインしたんだ」
 えっ??
「それ、本当の話か?」
 驚きを隠せない。隠す必要も無いのだが。
「うん。ホント」
 オーダーメイドって……
「すごいな……」
「一生の思い出になるんだから、すごいものにしなきゃ、ね?」
 ………一生の、思い出…
「うふふっ……」
 その一生は……
「舞……その…」
 声を掛けると、舞は俺の考えを悟ったのか一瞬ひどく躊躇うような、悲しいような、そんな顔をした。
「うん…? なに、武」
 今見ると、いつもの笑顔だ。でも…さっきのは見間違いなどではない。やはり、舞も……
「俺達…いつまでも…一緒だぞ」

 一言一言、想いを込めて……俺は言った。

「………………」
 舞は呆然として…そして、頬に涙が流れた。
「………………」
 ただ、涙が流れるのみ。
「………………」
 そこは、無音。
「………………」
 少女が俺にしがみついた。
「………………」
 しかし俺は、少女を抱きしめる事しかできず、溢れ流れる涙を……
「………………」
 それどころか、俺自身から流れる涙さえ……
「………………」
 止める事はできなかった。



 2013年7月

「あっつ〜!」
 舞はTシャツをバタバタさせてそんな事を言う。
「何言ってるんだよ、舞。下界はもっと暑いぞ」
 久しぶりに許可をもらった、施設の敷地内での散歩。
「ホント〜? そんなに暑かったんだっけ、あの町……」
 昔を懐かしむように、遠くを見る舞。
「…………」
 森林に囲まれているこの施設は、散歩と森林浴がほぼ同義になっている。
 あたりから聞こえてくる鳥の鳴き声…葉の擦れる音…
「ねえ、武」
 隣を歩いていた舞が足を止めた。
「なんだ、舞」
 俺も足を止める。
「…………」
 舞の意思を悟った俺は、舞の頭に両手を添え、その顔を近づけていく。
「…………」
 最近、舞はよくキスを求めてくる。
 舞にどんな心境の変化があったのか分からない……いや、分かっている。が、それを言葉にできない。したくない。
「……ぁ」
 上気した舞の顔。
「……可愛いな、舞」
 もう一度唇を重ね、抱きしめる。
「…………」
「…………」
 抱擁が終わり、ゆっくり互いの体を離していく。
「……さ、行こっか」
 一時のふれ合い。今の俺達に許されているのはそれだけ。
「ああ」
 再び、寄り添って歩き出す俺達。
「…………」
「…………」
「武、見て」
「えっ……」
「今日は…こんなにも空が澄んでるよ……」
 見上げると、涙が出そうなほどに見事な青空。

 青く澄み切った空の下、少年と少女が歩いていた。
 深い緑の山間に、ぽつりと佇む二つの命。
 それは未熟で、だからこそ精一杯生きている、美しい命。



 2013年8月

「おはよ〜、武」
 俺が部屋にはいると、舞は既にベッドから体を起こしていた。
「おう、早いな」
 夏休みは当然、泊まり込みをしている。場所はここの仮眠室。
「あのさ、朝からゴメンね、お願いがあるんだけど……」
 まだ寝ぼけているのか、はっきりしない発音。
「いいよ、言って」
「ええと、朝起きたら汗びっしょりで、気持ち悪いの……だから着替えを手伝って欲しいんだ」
 着替えって……
 ゴクリ……
「ちょっと、武〜?」
 むーっ、と俺を睨む舞。
「い、いや、何でもないよ、うん」
 あまりにも何でもありすぎる返事。
「まあ、武だったらいいんだけど」
 頬をピンクに染めている舞。
「あ、あはは……」
 …………
「えっと、そこの戸棚の中に着替えがあるから、出してくれるかな……?」
 戸棚は後ろにある。歩いて行って、戸を開けた。
 …………
「あ、その、どれを出せばいいんだ…?」
 恥ずかしい……舞はもっと恥ずかしいのだろうけど……
「えっと、どれでもいいんだけど……その、武の好みでいいよ」
 俺の好み…?
「でも、早くしてね? これ、汗で気持ち悪くて……」
 舞に似合いそうな服は……
 これがいい。
 オレンジのTシャツ。
 元気な舞にぴったりだ。そう、元気な舞に……
「武、そんなに悩まなくていいんだよ?」
 ぼうっとしていた俺を心配したらしい。
「ああ、すまん。それで、下はジャージにしとくか?」
 首をまわして訊く。
「うん。楽に履ける方がいいな」
 舞はそう言った。
「で、その……」
 俺が言いよどむと、舞はすぐ察したようだ。
「うん、その事なんだけど…武、今からあたしがいいって言うまでこっち向かないでね」
「えっ、ああ、分かった」
 いきなりそんな展開になるなんて予想していなかった。
「でも、どこにあったんだ…?」
 後ろでごそごそと音が聞こえる。
「えっと、予備はあたしのベッドの近くに置いてあるんだ。だから、大丈夫なの」
 少し恥ずかしそうに聞こえるのは、俺がそう思っているからだろうか。
「そ、そうか」
「うん」
「は、早く着替えた方がいいぞ、か、風邪引いたら大変だろ!」
 何だかとても恥ずかしくなってきてしまった。
「うん、もう少しだから……」
 ごそごそ……
 ごそごそ……
 シュル……
 聞くまいと思っても、やっぱり聞こえてしまう。
 …………
 まだかな……
 …………
「武、いいよ」
 振り向くと……
「……!!!」
 布団一枚…!
 ゴクリ……
「ま、ま……舞」
 布団一枚隔てて、向こう側には懐かしいあの身体が……
「ねぇ、恥ずかしいから早く……」
 かなり赤くなっている舞。
「あ、ああ」
 ドクンドクンドクン……
 お、俺は何を考えてるんだ!
「はい、これ……」
 少しはだけた所から、舞の肩が見える。
 滑らかなラインが……
「武〜、目がいやらしいよ?」
 うっ……
「舞がそんな格好してるから……」
 意識するなという方が無理だ。
「否定しないの?」
 俺は、嘘を付きたくない。特に舞には。
「まあ、事実だしな……でも、4月からずっとお預けくらってたんだから、仕方ないだろ?」
 はぁ、とため息をつく舞。
「……しょうがないなぁ、今日は特別だよ?」

 数十分後

「じゃあ、俺は朝飯食ってくるから」
 舞に声を掛けた。
「うん、行ってらっしゃい(赤)」
 結局あの後―――だった訳で……
「はぁ……綺麗だよなぁ」
 またそれを思い出して、顔を赤くしたりしているのであった。

 食堂にたどり着くと、そこにはまだ職員がまばらにいるだけだった。
「おはよう、倉成君。早いね」
 最近よく話をする霜野道則先生。
「ええ、おはようございます」
 カウンターへ行って、食事を受け取る。
 俺は、既に頼まなくても食事が出てくるようになった。
「はい、どうぞ」
 食堂のおばちゃんは鮭の塩焼きとご飯、みそ汁、漬け物の、いつも通りのものを出してくれた。
「いつもありがとう」
 代金を出して、先生と共にテーブルにつく。
「最近どうですか、中西さんは」
 先生は俺に訊ねた。
「なんとか落ち着いてます。でも、やっぱり担当の高瀬先生の方が俺なんかよりずっと分かってますよ」
 そう、高瀬綾乃先生は俺よりずっと舞の事を分かっているはずだ。
 俺が言うと、霜野先生は首を振った。
「いいえ、私は倉成君の方が良く分かっていると思いますよ。別に、高瀬先生が分かっていない、という訳ではありません。あの先生は実に熱心ですし、真面目で誠実、まさに医者の鏡だ。でもね、医者と患者という関係は恋人同士という関係には遠く及ばないものです。倉成君が中西さんを思う気持ちは、中西さんのほんの些細な不調も見逃しません。そう、どんなに優秀な先生よりも……まあ、私の経験上の話ですから、科学的根拠があるわけではないのですが」
 そう言って、優しそうに笑う。
「…そう言われると、俺が舞のそばにいるのも無駄じゃないなって気がします」
 俺の言葉を聞いて、また首を振る先生。
「倉成君、あなたは分かっているはずですよ。倉成君が中西さんの近くにいるのはそういった目的ではありません。それはあくまで二次的な効果です。
 ……ところで、倉成君。私たちが患者の病気を治すのに一番苦労するのは何だと思いますか?」
 先生は微笑んでいるが、真剣だ。
「……患者を前向きにさせること…?」
 大きく頷く先生。
「そうです。『病は気から』、昔から言われていますが、やはりこれが一番大事です。
 ……人間とは、不思議な生き物です。どんなに私たちが手を尽くしても治せないような病気を、自身の思いだけで克服してしまうこともあるんですから……まあ、逆に、快方に向かうはずの患者が亡くなってしまったりすることもありますがね。そう、死ぬ必要なんか無いのに……」
 先生は遠い目をした。
「……そこで、さっき私が言った、倉成君が患者の側にいる効果が抜群に出てくるんです。彼女にとって、倉成君の存在は最後の砦です。私が考えるに、あの患者は本来半月と待たず、恐らくは1週間ほどで亡くなられたはずです。それが、4月から今日までの4ヶ月間も生きながらえ、快方に向かわないまでも病状の悪化が防がれている。これは、通常あり得ないことです。私たちが施しているのはあくまで二次的な治療ですし、予防なんてできる病気ではありませんからね。……でもそれを、それだけの病魔に蝕まれている患者を、生かしているのはあなた、倉成君なんですよ」
 俺が……
「先生、本当に俺は、舞の力になっているんですか?」
 頷く先生。
「………………」
 なんだか、不思議だ。
「でも気を付けて、倉成君。気負ってはいけませんよ」
 そう残して、先生は食堂を出て行った。
「俺が、生かしている…?」
 そんな風に考えた事なんて無かった。
「気負うな、か…まあ、俺には難しい話はよく分からないから気にする事なんて無いか」
 それより……
「舞は、一週間で死ぬはずだった…?」
 今更ながら、舞の命がいかに儚いものなのか、突きつけられた気がした。

 舞の部屋に戻る。
「あ、やっと来た」
 舞は本を読んでいた。
「随分ゆっくりだったね。あたしも朝ご飯食べたけど、武が来るまで暇でしょうがなかったよ」
 そう言って、舞は本を閉じてベッドサイドに置いた。
「ちょっと話し込んでてな」
 さっきの会話が頭に残っている。
「なんだか、元気ないね?」
 舞は本当に俺の事をよく分かっている。
「ああ、ちょっと、な」
 ベッドに座った。
 どうしたの、と目で訴える舞。
「実は、さっき先生と話してて……」
 舞の目が恐くなった。どうしたんだろう??
「高瀬先生とお楽しみ? いーなぁ、武は」
 そっか、舞にとって先生と言えば担当の高瀬先生なんだ。
「違う違う。霜野先生だよ」
 へっ? という顔をする舞。
「舞の体調が悪くなった時に高瀬先生とたまに来てるだろ、ちょっと太った感じの優しそうな初老の先生。ほら、一昨日だって回診に来たじゃないか」
 数秒の間。
「ああ、あの先生!」
 どうやら思い出したようだ。
「で、その先生とどうしたの?」
 俺を見つめて、舞は次の言葉を待っている。
「その先生が言うにはさ、俺が舞を生かしてるって……そう言うんだ」
 ほえっ? という感じの舞。
「どういうこと?」
 舞は首をかしげている。
「ええと、舞にとって俺は精神的な支えになってるって、そういう事らしい」
 窓の外を見た。森が広がっている。
「なーんだ、それだけ?」
 舞は期待が外れたように言った。
「えっ…舞?」
 俺は舞の方を見て聞き返した。
「そんなこと、当たり前じゃない。あたしにとって、武がいないっていうコトはあたしがいないっていうのと同じなんだよ。だから、支えになってるのは当然でしょ」
 胸の奥が、熱い。
「舞……」
 無邪気に笑っている舞。
「そんなに深刻そうな顔しないで? あたしは笑ってる武が好き」
 そう言って、舞は俺に飛び付いてきた。
「わっ、こら……舞」
 俺の胸に頭をすりつけてくる。
「ほらほら、武はあたしの支えなんだから。しっかり甘えさせてね…?」
「約束か?」
「うん!」

 これからも、大変そうだ。



 2013年8月

 コンコン……
「おーい舞。入るぞ」
 ガタンッ! とドアの向こうで音がした。
「ちょ、ちょっと待って…!」
 あたふたしているのが目に浮かぶ。
 でも、一体なぜ…?
 ごそごそ……
 ガタン!
 …………
「……いいよ」
 ドアを開ける。
「よう、今日の朝は何してたんだ?」
 舞は俺の言葉を聞くと、嬉しそうにした後
「見たい?」
 と、それだけ訊いてきた。
「何だか知らないけど……まあ、見たいかな」
 すると、舞はフトンの中から何やら取り出した。
「じゃーん!」
 舞の手に広げられているもの、それは…
「水着…?」
 舞は俺の反応が気に入らなかったらしい。
「なに、武。おかしい?」
 いじけてしまった。
「いや、おかしいことはない、ただ……」
 横を向いたままの舞が訊く。
「ただ、何?」
「やっぱり、着てもらわないとよく分からないかなって」
 固まる舞。
「…………」
「…………舞?」
「な、なに言ってんの、武ったら……こんな山奥で着たってしょうがないでしょ…!」
 さっきの不機嫌はどこへやら、嬉しそうな顔をして、それを否定する舞。

 山奥で着なければならないのは……泳ぐはおろか、そこまで行く事が困難だから。

「いいじゃないか、舞の水着姿を見たいんだ」
 さっきの考えを頭から押し出してそう言うと、いっそう赤くなる舞。
「やだ武、恥ずかしいからやだよ……」
 はぁ、とわざとらしくため息をつく俺。
「あーあ、せっかく舞の綺麗な姿を見れると思ったのに」
 ぴたっ、と止まる舞。
「あ、別に見せるのがイヤな訳じゃないんだけど……なんて言うか、その……」
 必死に弁解しようとして、舞は更に深みにはまっていく。
「だから、えっと、見て欲しいって言うか……ううん、そういう訳じゃないんだけど…」
 可愛くて、つい頬が緩んでしまう。
「むっ、た〜け〜し〜! 笑わないでよ!」
 俺を睨む舞。
「ごめんごめん、舞が可愛くって、つい……」
 思わずそう言うと、舞はもっと慌てて支離滅裂になっていった。
「あ…う…えっと…たけし〜…」

 数分後。

「えっと、つまり…」
 舞は何とか落ち着きを取り戻したようだ。
「あたしに、これを着て欲しいって……そういうコト?」
 既に十回以上繰り返した質問をもう一度した舞は、俺の方を懇願するかのような目で見上げる。
「ああ。……まあ、無理にとは言わないが」
 一応譲歩してみる。
「…………あたしの水着姿、たぶんみっともないよ…? いいの?」
 舞は自分を過小評価しすぎだ。
「もちろん。それに、みっともないなんて事はないって。舞は綺麗だぞ」
 頭から湯気が出そうなほど真っ赤になった舞。
「そ、そんな……綺麗だなんて…」
 さっきから、話が前に進んでいない気がする…
「いいからいいから。とにかく着てみて」
 俺が言うと、
「うん……分かった…」
 ついに、折れた。
「じゃあ、着替えるからちょっと外出てて……」
 ……ふ、ふふふ…
 やったー! 舞の初めての水着姿! ついに……ついに……!
「………………」
 きっと、相当な変質者に思われているだろうが、笑いを止めることなどできない。
 ………………
 ………………
 ………………
 ………………
 まだかな…もう5分くらい経ってる。
 ………………
 ………………
 ………………
 ………………
 ……遅い。いくらなんでも遅い。
「……おーい、舞。やっぱりダメとか…?」
 返事はない。
「おい、舞」
 何だろう、これは。
「返事しないと勝手に入るぞ」
 あり得ない。そんな事を考えるな。
「…………」
 やはり、返事がない。
 背中や足の裏から、ぞわぞわした感覚が這い上がってくる。
「……舞! おい!!」
「…………」
「くそっ! 大丈夫か、舞!!」
 バンッ! ドアを開けた。
「………………」
「あ……たけ…し……」
 な…!!
「舞、舞、舞っ!! おい、しっかりしろ!!!」
 舞の身体を起こす。
 …それは恐ろしいほど熱くなり、首筋や手首を触れた訳でもないのにその拍動が感じられる程…
「う…ゴメ、ンね…っあ…! はぁっ…着れ…なくて…っ!!」
「バカ! そんな事はどうでもいい!」
 呼吸が苦しそうで、喉がヒューヒューなっていて…もう分からない!!
 とにかく、舞が危ない!!
 カッカッカッ……
 走ってくる足音。
「中西さん!!」
 高瀬先生と、霜野先生が来てくれたようだ……
「霜野先生、前回とは別の膜安定化剤を!」
 狼狽する霜野先生。
「まさか、この前のより強力なのを使うつもりですか!」
 かぶりを振る高瀬先生。
「それしかない!!」

 張りつめた空気の中……俺はただ、呆然として……いるわけにはいかない。
 俺は、舞の支えにならなきゃいけない。それが舞との約束で、俺自身に課した事でもあるから。

「……倉成君」
 霜野先生をどけて、舞に近づく。
「舞……しっかり…」
 高瀬先生は、霜野先生が押さえてくれているようだ。
 俺は舞の手を握った。
「はぁ…はぁ…!」
 俺の手を痛いほど握り返してくる舞。
「大丈夫だ、俺がついてる」
 うっすら目を開けて俺を見た後、舞は再び目を閉じて、力を抜いた。
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
 まだ脈は定まらず、危険な状態であるのだろう。医学的に見れば。
「大丈夫だ…舞。大丈夫…」
 しかし、俺はもう安心だと悟っていた。
「はぁ…はぁ……はぁ…」
 それは、俺の思い込みかも知れない。
「はぁ……はぁ……はぁ…」
 もしかしたら、先生達に任せた方がずっと舞の為なのかも知れない。
「頑張れ…舞」
 でも…俺は…舞の為にしてやれる事がこれしかないから。
「はぁ……武……あは…ヘンな顔…」
 そして、舞はまだ生きてくれている。
 汗ばんでいる顔に、僅かだけど笑顔を見せて。
「よかった……舞……よかった……」
 俺は舞を抱きしめ、抱き上げ、ベッドに寝かせた。
「こんな、こと……」
 高瀬先生は、呟いた。


 数日後

 廊下を歩いている俺。
 カツン、カツン、カツン…
 舞はまた元気に俺を迎えてくれるだろう。
 カツン…………
 コンコン
「武?」
 舞は少し照れているような声を出した。
「そうだ」
 …………
「いいよ、入って」
 今の間はなんだろう。
「…………舞…?」
 部屋に入る。と、そこには水着を着た舞が…
「どうして……この前……ダメで……」
 照れている舞。
「いいじゃない、そんなコト……それより、どう…? ヘンじゃない??」
 舞が一回転した。
 …………
「………………」
 …………
「ちょっと……武?」
 …………
「………………」
「武、武ってば!」
 …えっ、あ! 思考が停止していたようだ。
「綺麗だ」
 停止した思考が再稼働したあと、最初に浮かんだ言葉がそれだった。
「え……(赤)」
 …………
「すごい、本当に綺麗だ」
 それしか言葉が浮かばない。
「やだ、もう……恥ずかしい」
 このまま砂浜まで連れて行って一緒にはしゃぎたいと、欲求に駆られる。
 しかし、それはしてはいけない事。
「舞、寒くはないよな」
 心配になって訊ねる。
「大丈夫だよ。だって、武の視線が熱いから」
 両手を後ろに組んで、赤くなりながら俺を見る舞。
 理性が飛びそうだ……
「そ、それは仕方ないだろ?」
 かなり動揺しているのが自分でも分かる。
「あははっ……武ったらおかしー……」

 舞の笑顔。
 一夏の…思い出。

 儚いから綺麗で、一瞬だから輝く。
 そういう、もの。



 2013年9月

 国立循環器病センター 療養施設

「高瀬先生、中西さんは今日ずっとあんな感じなんですか?」
 心配になってきてみたら、案の定…鬱状態でした。
 現在は場所を移動して、休憩室で話をしています。
「ええ、いったいどうして…」
 やはり、高瀬先生は全ての問題が医学によって解決出来ると信じているようですね。
 もちろん、医学を信じ、信念を持って治療に当たれば殆どの問題は解決出来るのですが…もっと大切な事があると気づけないのは若さ故でしょう。
「倉成君ですよ、原因は」
 高瀬先生は私を驚きと若干の失望を交えて見上げました。
「どういう事です? 武君が彼女に何かしたとでも?」
 語気を荒げるのは医師としてどうかと思いますが…
「違いますよ、武君がいなくなったからです」
 は? と声を出す高瀬先生。
「武君は、今日だって始業式が終わったらすぐに来るはずでしょう。なぜいなくなったなんて言うのですか?」
 患者の気持ちになる事も大切ですよ、先生。
「そういう問題では無いと思います。今日の朝は倉成君がいない。それだけであの子はとても不安になります。そういうものでしょう? あなただって、大切な人に『後で来るから』と言われても待てない時や、不満になる時があるのではありませんか?」
 言葉につまる高瀬先生。
「しかし…あの子はそんなに弱くありません、鬱の原因は他にあるのではないかと思います」
 やはり、もう少し深く人の心を読まなければ医療に携わる者としてはまだ未熟ですね。
「あの子が強い面を見せていられたのは、四六時中一つ屋根の下に倉成君がいるという安心感のおかげですよ。あの子にとって、恐らく武君の存在は自身の存在に等しいのです」
 高瀬先生は、本当は既に理解しているのに自分の中の何かがそれを邪魔しているのでしょう。思うに、医師としてのプライド(ここでは良い意味です)とか、そういったもの…
「私は、まだ理解出来ません…」
 高瀬先生はそう言って、失礼します、と残して去っていきました。
「……医師として許せない…といった所ですね…彼女も医師としての視点ではなく、一人の人間としての視点を持ってこれを見られれば良いのですが…」
 ですが……それができる医師が沢山いれば、この日本の医療ももう少しまともになっていたのでは…と思うと、案外それは難しい事なのかもしれませんね。


 ……校長の話が続いている。
「………………」
 俺は今までの学生生活で校長の話で寝なかった事など無い。しかし、今は別だ。
 舞が、どうしているのか。
 それが気に掛かって、寝るなんてできない。
「………………」
 昨日、俺はこっちの町に戻ってきたのだが……その時を思い出すと心が痛む…

 ……………
 病院の玄関。
「武…明日もちゃんと来てくれるよね……?」
 舞は不安げな表情で俺を見ている。
「もちろんだ。始業式が終わったらすぐ来る」
 俺は笑って答えた。
「ホント…? すぐだよ……絶対」
 重いバッグをいったん下ろし、舞を見た。
「ああ、絶対すぐ来る。約束だ」
 舞は依然として不安そうな顔をしている。
「うん……」
 ……こんな返事しかできない舞を置いては行けない。やっぱり、俺はここに残ろう。
「舞、やっぱり俺は残るよ」
 それを聞いた舞は一瞬本当に嬉しそうな顔をしたが、またすぐに表情は沈んでしまう。
「ダメだよ……武にすごく迷惑が掛かっちゃう……」
 どっちみち、舞が元気になる道はないらしい。
「そっか…じゃあ、俺が戻るまで元気でな」
 バッグを持ち上げる。
「…………」
 見ると、舞は何か言いたげに口を開いている。
「舞…?」
 ぶんぶんと頭を振る舞。
「な、なんでもない!」
 俺は、それがひどく気になったのだが……
 舞は大丈夫を連発して俺を送り出した。
「じゃあな、また明日」
 俺は、背中に痛いくらいの視線を感じながら、一ヶ月ぶりの俺の町へ戻って行った。

 …………
 やはり、戻るべきではなかった。
「はぁ……」
 こんな所でつまらない話を聞いているくらいなら、舞の側にいてあげたい。
 まあそれも、今になってはどうしようもない事なのだが。
「…………」


「…………不思議……」
 狸に化かされたような顔をして、高瀬先生は呟きました。
「何が不思議なんです?」
 返ってくる答えはほぼ分かっているのですが、一応訊いてみました。
「どうして、中西さんはこれほど延命できているのか…不思議なんです」
 やはり。
「それは、不思議でも何でもありませんよ」
 私は言いました。
「じゃあ、霜野先生は……もう動くはずのない体の患者が元気に笑って、歩いて、話している事が不思議じゃないって言うんですか?」
 ふむ…データ上はそうなるはずですから、反論はできませんが…
「…確かに、不思議といえば不思議ですね。しかし、それは必然的な不思議なんですよ」
 露骨に目を細める高瀬先生。
「どういう、ことです…?」
 説明は難しいのですが……
「つまり、これもやはり倉成君のおかげ、という事です」
 かぶりを振る高瀬先生。
「訳が分かりません。つまり、倉成君は私たちより医学に精通していて、私たちに知られずに治療している……そういう事ですか?」
 あまりに常識を逸脱しているので混乱しているのでしょうか、言葉に刺がありますね。
「違います。倉成君はただそこにいるだけです」
 両手を上げて降参のポーズをしてしまった高瀬先生。
「つまり、心の力と言いましょうか……中西さんと倉成君が婚約しているのは知っていますか?」
 いきなりの事で動揺している様子ですね。
「それは、知りませんでした」
 それでは、この話を知っているのは、私と倉成君と中西さんだけですか。意外と信頼されていたのですね、私は。
「さて、本題です。中西さんを延命させているのは、この婚約を遂げたいという想いなんですよ。なんとか生きて、一緒になってから逝きたい。そういう想いを中西さんは持っているから、だから今まで生きてこれたんです。生きようと強く願う人は、なかなか死にません。まして、それが愛する人の為なら尚更です。まあ、それでも危険な事に変わりはないのですがね……」
 …………
 話を聞いて、困惑している様子の先生。
「まあ、理解出来ないのは仕方ないかも知れません。今まで散々データ統計やら論文作成やらが中心の学生生活と臨床医生活だったでしょうから」
 私の言葉の後、高瀬先生は退室していきました。
「あの先生は、患者の立場に立てる人だと思うのですが……」
 まだ、経験が足りないですね。もっと様々な事例に出会えば考えも変わるでしょう。
 そう考えていた時、走る音が近づいてくるのに気付きましたので、部屋を出ました。
「あっ、先生!! 中西さんが……」
 最後まで聞いている暇はありません!
 カッカッカッ…


「倉成、ちょっといいか?」
 いきなり担任が俺の肩を叩いた。
「何です? 今ここで話してくれても……」
「いいから、来てくれ」
 有無を言わさず俺を引っ張っていき、体育館――始業式が行われている所――から外に出て、ようやく止まった。
「一体、何なんですか」
 先生は少し躊躇った後、言った。
「中西が、危篤だそうだ」
 ……………………は?
「それ……どういう……」
 舞はここ二週間発作もなく、安定した状態だったはず……どうしていきなり……
「とにかく、お前にそう伝えるように病院から連絡があったんだ」
 先生は、どうして俺なのか腑に落ちない様子だが、事が事だけにきちんと伝えてくれたようだ。
「ありがとうございます、俺すぐ行きます」
 先生は咎めるような視線をしたが、何も言わなかった。
「そうか、気を付けて行けよ」
 俺はその言葉を聞かず、既に走り出していた。

 中西さんが意識不明に陥ってから、既に五時間。
「………………」
 容態は落ち着いてきていたので、集中治療室から一般病棟へ移し、現在は意識の回復を待っている状態です。
「…………はぁ」
 何もできないこの状況が恨めしい。
 ………………
 こんな時、倉成君がいれば何とかなってしまうと考えるのは、期待のしすぎでしょうか。
「仕方ありませんね……」
 私は、気分を変える為に病室を出ました。

 廊下を歩いていると、色々な事を思い出します。
 105号室…末期ガンで歩く事も困難な男性、まだ四十歳…働き盛りでした。その男性は、普段はぶすっとしていて私たちの事を嫌っていたようでしたが、ある日突然「ありがとう」と言ったその日の夜遅く、屋上で亡くなっているのが発見されました。満月の、綺麗な夜でした。
 140号室…ひどい敗血症だった女子大学生の事も印象に残っています。毎日ニコニコと笑っていて、今にも死にそうな事など忘れてしまいそうなほど元気な人でした。……両親の訪問後、行方不明になりました。そして、一ヶ月後ここから3km程の所で白骨死体になり発見されました。その近くには家族の写真が落ちていたそうです。
 ………ここに来る人の中で、助かる見込みのある人はいません。それ故、皆自身が満足する方法で天寿をまっとうしようとする方が非常に多いのが現実です。
 しかし、私はそれで構わないと思います。
 己の死に方くらい、自分自身で決めたいと私も思います。どこのだれだか分からない医者達に囲まれて逝くのなんて、最悪です。もし私が願うなら、家族の下で…いや、自分の家で逝きたいものですね……
 そう考えていると、急速に近づく足音に気付きました。

 己の足がもどかしい。こんな事なら陸上のトレーニングをもっと真剣にやるべきだった。
「舞…舞……絶対に死ぬな……」
 息が切れる。足がもつれる。と、遠くに誰か人影が見えた。
「倉成君ですか!」
 霜野先生だ。
「はい! 舞はいつもの部屋ですか!?」
 立ち止まり、少しでも息を整えようとする。
「そうです。今は……落ち着いています。行ってあげて下さい」
 少しの間が気になったが、お礼を言ってすぐに駆けだした。
 舞…! 今行くからな!

 ふわふわしていて、気持ちがいい。
「ここ、どこ……?」
 なんだか、よく分からないところに来ちゃったみたい。
「武……」
 この不思議な世界に武がいるのか分かんないけど……
「えっ……」
 目の前に現れたのは、ヘンな生物。
「こんにちは、舞ちゃん」
 ふにゃふにゃしてて、さわり心地が良さそうな……一応、人のカタチをしてる。
「こんにちは、ヘンな生物さん」
 ヘンなのは苦笑した。
「なんて言うか、ひねりのない名前だね」
 だって、ヘンなんだもん。
「まあ、いいや。僕は一言伝えに来ただけだから」
 って、すぐ行っちゃうの?
「それで、その伝えに来た事ってなに?」
 ヘンなのは一瞬悲しそうな顔をした後、
「……舞ちゃんは、もう起きる事はないよ」
 えっ……?
「なにそれ、じゃああたしずっとこのまま?」
「うん」
 ヘンなのは間髪入れずに答えた。
「それじゃ、武にも、お父さんにもお母さんにも、友達にも会えないってコト……?」
 少しの間。
「そうだよ、残念だけど……」
 そんな……ヒドイよ……
「いやだよ、武に会えないなんて……嘘でしょ、そんなの嘘だよね!?」
 黙ってあたしの言葉を聞いているヘンなやつ。
「………………」
 何とか言ってよ……
「………………」
 ヘンなのは私を一回見た後、消えちゃった……
「嘘だよ、絶対に嘘だ……」
 この世界は、走っても走っても前に進まない様に感じる。
「やだ、どこにいるの……武……武!!」
 見渡して叫んでも、武は来てくれない……
「お願いだよ、武に会わせて……武に……会わせてぇ…………」
 あたしは急に体中の気が無くなった気がして、そこで倒れちゃった……
 ………………
 ………………
 ………………
(……い……起き………)
 ……今の、なに…?
(……い……ろよ……)
 …………まさか……
(まい……起きろ……)
 武!? 武の声が聞こえる!
「武!!!!!」
 思いっきり叫んだ。
「武、武!……助けて!!」
(舞……お願いだから目を開けてくれよ! 舞!!)
 そのとき、急にこの世界が崩れていくのが分かった。
「舞!!!」
 気がつくと、あたしはきつく抱きしめられていた。
「あ、武……」
 とても懐かしくて、あったかい。
「舞!! 気がついたのか! よかった、本当に、よかった……!」
 武ったら、あたしの為に泣いてくれるんだね。
「武……ありがと。武の声が聞こえた時、本当に嬉しかったよ」
 痛いくらいに抱きしめてくる武にそう言って、あたしも腕をまわした。
「舞、舞、舞っ……!」
 あたしの名前を何度も何度も呼ぶ武。
「大好き、武」
 そう言って、どこかに消えちゃったヘンなやつにも一言。

 どうだ、あたしの武はすごいんだぞ。



 2013年 9月

 俺は、舞の意識がなくなってしまった事と、新学期が始まって一緒にいられる時間が大きく減ってしまった事に関係がありそうな気がしてならなかった。
「なあ、舞。俺やっぱりずっとこっちに残るよ」
 俺が言うと、舞は辛そうに首を振った。
「ダメだよ、そんなことしたら……武が留年しちゃう」
 留年なんか、たいした問題じゃない。舞の体が――考えたくない事だし、考えただけでもぞっとする話だが――限界に近づいている状況で呑気に学校へなど行っていられない。
「留年なんか、気にしてない。舞の側にいたいんだ」
 …………
「でも……」
 舞は、優しすぎる。
「なぁ、舞。舞は俺に残って欲しくないのか?」
 明らかに動揺している。こんなになる位なら素直に認めればいいのに。
「あたしは……」
 舞は一瞬口を開いたが、でも音は出てこなかった。
「…………」
 あまり気分のいい静寂じゃない。
「武……」
 舞がためらいがちに口を開いた。
「なんだ?」
 努めて自然に訊いた。
「ホントに……いいの?」
 何度も言ってるのに。
「当たり前だろ」
 舞は下を向いて、しばらくして顔をあげた。
「武……ありがとう……」
 その目にもう迷いはなかった。



 2013年 10月

 俺が学校に行かなくなってから1ヶ月と少し。始めは少し違和感があったが、夏休みが続いていると思えば大したことはなかった。
「おはよう、舞」
 部屋に入る。
「うん、おはよー武」
 舞はベッドの上で上半身を起こしていた。
「なんだ、まだ寝ぼけてるみたいだな」
 ぽー、っとした目をしている。
「あんまし眠れなくて……」
 確かに、朝が早くて……という訳ではなく寝不足のようだ。少し心配だな……
「何か俺にできる事はあるか?」
 とりあえず、訊いてみた。
「んー……分かんない」
 まあ、原因がはっきりしている事なんてあまり無いのだろうが。
「そっか……」
 それはそうと、まわりの葉が少しずつ色づいてきた。ここはまわりが山に囲まれてるから、本格的に紅葉すればさぞかし綺麗だろう。
「ねえ、武。それよりさ、一緒に朝ご飯食べようよ。いいでしょ?」
 そうだな、いいかも知れない。
「もちろん。じゃあ、俺はちょっと食堂に行ってもらってくるよ」

 数分後

 俺は、折りたたみテーブルを出してその上に飯を置いている。
「頂きま〜す」
 そう言って、俺達は食べ始めた。
「……………」
 なんとなく、舞の食べる姿を眺める。
「……ん? どうしたの、武」
 舞は食事を中断して俺の方を見た。
「いや……なんとなく、舞が食べてるとこを見たかったんだ」
 へっ? という顔をする舞。
「なんか、可愛くて」
 舞の頬が赤く染まった。
「や、やだ、どうして食べてるトコなんか……」
 俺も、よく分からないんだが……
「たぶん……舞の全てを見ておきたいんだと思う」
 よくまあ、こんな歯の浮くようなセリフを言えるものだ。自分に感心してしまう。
「もう……恥ずかしいよ……」
 そう言って箸を置いてしまった舞。
「そんな仕草が可愛いんだ」
 俺の口は、俺の意思とは殆ど無関係に言葉を紡ぐ。まるで、無意識の欲求がそのまま現れているように。
「武……どうしちゃったの……?」
 舞は赤くなったままおずおずと俺の方を見た。
「分からないんだ。でも……」
 言葉が出てこなくなった。
「でも……?」
 聞き返す舞。
「いや、何でもない。それより食べよう、冷えちゃうぞ」
 何かおかしい。俺の本能が警告を鳴らしている。しかし、それを言葉にできない。
「う、うん」
 俺の言葉に頷いて、また食べ始める舞。
「……!!」
 一瞬、舞が薄れて見えた……?
「どうしたの、武」
 …………
「武、武ってば」
 ……そ、そんな……
「武っ!」
 え……?
「どうしたの、今日は……なんかおかしいよ?」
 不安そうな舞。
「ごめんな、心配させて。もう大丈夫だ」

 すごく、イヤな予感がして仕方ない。

 結局、一日をずっと病室で過ごした。俺のイヤな予感は消えなかったが、そんなものを気にして舞との一日を無駄にするのも勿体なかったのであえて笑って過ごした。
「はー、今日も楽しかったね。武」
 そう言って、無邪気な笑みを向けてくる舞。
「そうだな。まあ、舞といれば何でも楽しいんだけどな」
 いつもの調子に戻っていると思う。
「うん、あたしも」
 そう言う舞はどこか……いや、気のせいだ。
「じゃあ、俺は戻るぞ」
 立ち上がる。
「うん」
 舞は手を振っている。まるで、ガラスの風船のように壊れやすいものに見え……気のせいだ。
 俺は、不安を振り払うように舞に微笑みかけた。
 …………
 ゆっくり、歩を進めた。
 …………
 ………… 
「武……」
 部屋を出る直前にかけられたその声は、今まで聞いたことのない程不安そうなものだった。
「何だ、舞?」
 俺は努めて冷静に答えようとしたが、それは無理だった。舞に対しては感情を抑えられない。
「…………」
 じっと見つめてくるその瞳を見た瞬間、俺は何をすべきか悟った。
「…………」
 黙って舞に近づき、抱きしめ、ベッドに組み伏せる。
「…………ん」
 頷く舞。もう一度抱きしめる。
「……舞、いつまでも一緒だぞ……」
 舞の耳たぶに口を近づけ、ささやく。
「ん……ぁ……」
 ゾクゾクしたように震える舞。その吐息が俺の首筋にかかる。
 急速に熱くなる互いの身体。

 もう……止められなかった。


「なあ、舞……」
 隣を見ずに、話し掛ける。
「ん?」
 どうして、こんなに恐いんだろう。
「俺、恐いんだ」
 舞は黙って聞いている。
「ごめん、舞の方が恐いよな。でも、残される苦しみも少しは分かってくれるか……?」
 それを聞いた舞は、体をずらして俺の上に乗った。
 舞の重みが、それだけが……そこに舞が生きている事を証明していた。
「うん……分かるよ……武、ひとりぼっちになっちゃうんだよね……」
 そう言って、俺の胸を撫でる舞。
「でも、絶対に舞を一人にはしない。ずっと、ずっと……どんな事があっても」
 くすくすと笑う舞。息が胸にあたってくすぐったい。
「どうして、笑うんだ?」
 俺は訊ねた。
「だって……さっきまで一人で寂しがってたあたしがばかみたいで……」
 …………
「あたしね、武と離ればなれになっちゃうとずっと思ってたよ」
 …………
「だって、この世とあの世だよ? 会えないし、喋れないんだから」
 …………
「まあな」
 …………
「それでね、あたし……ずっと前、映画館で武が言った言葉を思い出してたんだ。ほら、あたしがいなくなったら……ってやつ」
 …………
「あの時の武の言葉……嬉しかったな。でも、あの世までは探しに来ないだろうなぁ……ってさっき思ってて……」
 あの世までも、俺は探しに行きかねないな。
「それで……?」
 舞は本当に安心したような表情をして、言った。
「でも、ね? 武の『絶対舞を一人にしない』っていう言葉を聞いたら……そんな不安は全部無くなっちゃって、逆に安心すらしたんだよ」
 …………
「それで、さっきまでヘンなことで悩んでたあたしがばかばかしくて、笑っちゃったんだ」
 またくすくすと笑い出す舞。
「そうか……」
「うん……」
 舞は手を伸ばして、俺の頬をさわった。
「…………」
 頬から耳へ、髪へ、逆の頬へ、俺の顔の輪郭をなぞっていく舞。
「…………」
 俺は黙ってされるままにしている。
「…………」
 互いに、恐らくこれが最後だと分かっているのだろう。
「…………」
 舞の手は冷たくて気持ちよく……また、不思議な暖かさがあった。
「…………」
 もうすぐ夜が明ける。きっと、今日も一日は過ぎていくのだろう。



 2013年10月

 もうすぐ、10月も終わり。紅葉は鮮やかに色づき、森にとって第二の盛りを迎えるところだ。
「なあ、舞」
 ベッドに横になっている舞に話し掛ける。
「なぁに?」
 今日も、見た目は変わらない。だが、先生の話ではいつ――してもおかしくないそうだ。
「紅葉、綺麗だぞ。見てみろよ」
 窓の外にはいっぱいの赤、黄……
「うわぁ……すごい……」
 舞は体を起こした。そうすると、イスに座っている俺と同じくらいの視線になる。
「…………」
「…………」
 互いに沈黙。だが、とても気持ちのいい沈黙だった。黙っているのに互いの心が手に取るように分かる。
「…………」
「…………」
 舞が、何かを思いついたようだ。
「どうした、舞」
 舞は驚きもせず、俺を見つめて言った。
「あのね、あたしがもし死にそうになったら……もう治療とか延命処置とかはしないで欲しいんだ」
 …………やっぱり。
「そうか」
 一言だけで、同意を示した。
「うん」
 なぜかは、十分すぎるほど分かっている。
 そして、長い沈黙。
 それを破ったのは舞だった。
「不思議だね、人間って」
 穏やかな声で言った。
「…………」
「こんなに誰かを好きになって、自分なんかよりずっとその人を大切にしようと思うなんて」
 それは舞であり、俺でもある。
「あたし……武のこと大好きだよ」
 そう言って、舞は目を閉じた。
「…………風が気持ちいいね」
 舞は微かに呟く。さわさわと葉の擦れる音がした。
「……ああ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 舞は眠ったようだ。
「…………」
 俺は、時間という概念を忘れてしまったかのように、静かな時の流れに身を任せた。



 2013年 10月

 今日で10月が終わる。最近は秋の香りが濃くて、とても寂しい気分になることが多い。
「……なるほど、分かりました」
 そう言って頷いてくれたのは霜野先生。
「…………」
 隣で納得いかなそうにしているのは高瀬先生。
「高瀬先生……これは、舞の願いなんです。お願いします」
 俺は、営業時間のない診察室の中で頭を下げた。
「でも……私たちは患者を生かすことが――」
「高瀬先生、もういいじゃないですか。あなただって分かっているのでしょう、中西さんがもう助からない事くらい」
 高瀬先生は霜野先生を睨むと、言った。
「そんな事を言っていいと思っているのですか!?」
 霜野先生は高瀬先生を正面から見据えて、その問いに答える。
「……ええ。私は、助からないなら正直に告げて、せめて自身の望む形で生を終わらせてあげたいと思っています」
 その言葉を理解出来ないというように首を振る高瀬先生。
「私たち医師の使命は患者を助けることでしょう! そんな、助からないなら好きに死なせてやろうなんてそんな考え認めません!」
 …………
「でも……それが舞の望みなんです」
 俺の言葉にはっとする高瀬先生。
「舞の、一生の最後を……望むままにさせてやりたい。そう願うのはいけない事なんですか?」
 …………
「……そ、れは……」
 言葉に詰まり、下を向いてしまった先生。
「…………高瀬先生、分かって下さい」
 と言ったのは霜野先生だった。
「……はい」
 俺は、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
 俺が顔をあげると、霜野先生は頷いて、高瀬先生と共に部屋を出て行った。



 2013年 11月

 今日は、紅葉が一番綺麗な日だ。朝、いつもの仮眠室から起きて外を見たら、まずそう思った。
「…………」
 一番最初に舞の所へ行くのも日課だ。この紅葉の事を舞は知っているのだろうか。
 …………
 舞の部屋についた。
「おはよう、舞」
 いつものように部屋に入る。
「あっ武。おはよー」
 そう俺を呼ぶ声が、とても心地いい。
「ねえ、紅葉見た?」
 舞は俺の言おうとした事を先取りして言ってしまった。思わず苦笑する。
「もちろん。今日の朝はその事を教えてやろうかと思って来たんだ」
 舞は楽しそうに笑う。
「なーんだ、あたしと武で同じコト考えてたんだね」
「そうだな」
 いつもと変わらない日常。

 とても大切だった日常……

 午前中はずっと話をしていた。舞も俺もそれが普通だったし、別に何がおかしいわけではない。ただ……何か、俺達の力ではどうしようもないほどの力が迫ってきている気がしていた。
「もうお昼を過ぎたんだね」
 舞はそう言って外を見た。
「うん、やっぱり綺麗な紅葉」
 舞と並んで窓の外を見る。
「本当に綺麗だ」
 小春日和のいい天気に、思わずあくびが……
「……ふぁぁ」
 それを聞いた舞は俺の方を見て、くすくすと笑った。
「……??」
 分からなかった。
「だって……さっきのあくびで昔のことを思い出しちゃって。ほら、あたしと武が付き合うきっかけって、武が眠そうにしてたからでしょ? で、また武が眠そうにしてるのを見たから」
 そう言えばそうだった。あの時の俺達がこんな風になるなんて、誰にも想像できなかっただろう。
「あの頃の俺は随分孤立してたな」
 今になって分かることだ。孤立していると気付いていない人間が、一番孤立している。
「そうそう。あんなに無愛想な人見たこと無かったよ」
 むっ。
「そんな奴に惚れたんだろ、舞は」
 そう言うと、舞はじっと俺を見つめた。
「うん、そうだね」
 舞は真剣な目で俺を見ている。
「あたし、武を好きになってホントに幸せだったよ」
 さっきまでのおちゃらけた雰囲気は消え去った。
 ……『幸せだった』?
「……舞?」
 舞の顔には、穏やかな、本当に穏やかな、聖母のように慈悲に満ちた微笑みが浮かんでいた。
「あたしね、武との思い出を思い出してるとすごく落ち着くんだ……一緒に遊んだ時のコトとか、食事に行った時のコトとか、映画に行った時のコトとか、口げんかした時のコトとか……一緒になる約束したコトとか……みんなみんな、大切な思い出だよ」
 ……なんで、急に思い出話なんか……
「武、もう気付いてるんでしょ? いいんだよ、もう」
 舞は、俺よりずっと俺の事を分かってる。
「そっか、もう……なのか」
 ……嫌だ。
「うん、多分」
 認めたくない、そんなの知りたくない。
「どうしても、だめか?」
 ……そんな事になったら、俺はどうなってしまうのか分からない。
「……どうしても、だめだと思う」
 もっと……
「俺は、まだまだ一緒に思い出を作りたい……」
 これ以上ないくらいの微笑みを向けて、舞は泣いた。
「あたしだっておんなじだよ……でも……でもね……あたしには、どうすることもできないんだ……ごめんね、武」
 舞はそう言って、俺の頬に手を伸ばした。
「……舞?」
 頬に人差し指を滑らせて、舞は言った。
「だめだよ、泣いちゃ。あたしだって泣きたくなっちゃう」
 そう言う舞は、既に泣いている。
「……舞……」
 俺が呼びかけると、舞はがくっと倒れこんできて、俺は両腕でそれを抱きとめた。
「あはは……もう、ホントにだめみたい……」
 俺はもう何も考えられず……ただ舞をきつくきつく抱き締める。
「武……あったかい……ホントに、あったかいよ……」
 そう言う舞の体はゆっくりと熱を失い、冷えていく。それが嫌で、俺はもっときつく抱き締めた。
「舞……俺は……」
 すすり泣きの声は、俺のものか、舞のものか……
「武、キス……して……」
 俺は舞の髪をすき、唇を重ねた。
「……舞……舞……」
 舞の唇は、涙で少しだけしょっぱかった。
「武……大好き。今までありがとう」
 そう言った舞の顔は……
「舞……舞?」
 いつかの夕焼けを、一緒に見た時の笑顔だった。

「…………」

 もう、一緒に夕焼けを見ることはできない。




 俺は、舞の体をベッドに横たえた。

「…………」

 これ以上冷えていく舞を抱き締めていたら、俺は狂ってしまいそうだったから……

「…………」

 それでも、その手だけは握ったまま……舞との思い出を、ゆっくり……ひとつずつ……

「……舞……」

 慈しむように、思い出している。
 
 …………

 …………

 …………

 …………

 …………

 気付くと、俺の膝は涙でびっしょりになっていた。

「…………」

 ふと窓の方に目を向けると、真っ赤に染まった夕焼けと紅葉。

「…………」

 その色は、俺の目には鮮やかすぎて……傷口にどんどん染み込んできた。

「…………」

 それなのに、胸の奥にはおどろくほど静かな心音。

「…………」

 あの冬の日、キスされた時の心音がとても懐かしかった。

「…………ん?」

 窓から一枚の葉が、ひらりひらりと舞い落ちて、俺の虚空に開いた手に触れた。

「…………」

 それをそっと手の平に包んだら……なぜだかとても悲しくて…………

 俺は再び泣いてしまった。



 …………
 ………
 ……
 …

 外は、もう真っ暗な闇に包まれている。ほのかな月明かりは、ほとんど何も照らしていなかった。
「もう、ずっと……思い出す事なんて無かったのにな」
 沙羅もホクトも帰ってきているようで、戸の向こうには明かりが灯り、テレビの音も微かに聞こえる。
「武……」
 つぐみはうつむいているようだ。
「あ、掃除全然終わらなかったな……ごめんな、つぐみ」
 苦笑いをして、立ちあがろうとする。
「いいのよ、そんなこと……それより……」
 俺は座り直した。
「…………」
 つぐみは俺を見て、口をつぐんでしまった。
「…………」
「武……その……中西さんのことを思い出したのは、私と知り合ってからこれが初めてなの?」
 …………
「ああ。ずっと昔は何度も思い出して泣いたりしたが……つぐみと知り合ってからはこれが初めてだ。つぐみは、俺から舞の思い出を忘れさせてくれたから」
「そう……」
 …………
 しかし、今思い出してみて思う事がある。それは、忘れていい思い出なんて無いということと、舞との思い出はどうやっても忘れられないということだ。
「でもな、ひょっとしたら実際は、いつもいつも無意識にうちに舞の姿を追っていたのかも知れない」
 …………
「中西さんのこと……今でも忘れられないの?」
 ………………
 俺は、自分の気持ちに偽り無く、はっきりとつぐみに伝えよう。それが舞のため、そしてつぐみのためになるんだ。俺は、そう信じる。
「ああ、忘れられない」
 それを聞いたつぐみは、優しく笑ってこう言った。

「この浮気者」






 あとがき


 ここまで読んで頂き、本当にありがとうございます。

 さて、これは「想い」本編と完全に独立した話なのですが、メインテーマは変わっていないと思います。ですが……これだけ長い話を書いたのは初めてなので、途中で脇道にそれてしまったり筋が通ってなかったりしていると思います(汗)

 それはさておき……中西舞、どうだったでしょうか。初めてのオリジナルキャラなのでとても心配なのですが……ご指摘お待ちしております。

「想い」続編については、なんとか形になってきました。しかし、E17×バイオのSSと同時進行のためもう少し時間が……もう数ヶ月近く進んでません、申し訳ありません……


 では、この辺で失礼いたします。


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