※本作は『陽だまりの中の奇跡』、『虚空と空虚の狭間で』、『田中教授の華麗なる日常』の設定を引き継いでいます。 西暦二〇三五年三月三十日金曜日。 「のどかだなぁ……」 昼下がりの陽光が差し込む部屋の中で、俺は何とはなしに呟いた。 やはり、彼岸を過ぎた辺りの陽の光という奴は気持ちがいい。地球温暖化の影響とやらで、さほど寒い冬ではなかったが、十七年の月日が見事に抜け落ちている俺にとっては、単なる暖冬だ。 やはり春のうららかな温もりには勝てない。二人掛けのソファの上でつい、意識が飛びかける。 「平和だよなぁ……」 何処かで口にした言葉を、再び吐いてみた。 「もぉ〜、武。何が平和なのよ。まさかこのまま寝入っちゃうつもりじゃないでしょうね」 「悪いか?」 「絶対的に悪くは無いけど、かなり迷惑ね」 「そりゃまた、きっぱりとしたお答えで」 まさか折角の休みに、愛妻の膝上でとる休息を、迷惑と言われるとは思わなかった。 「……にしても」 「今度は何?」 「大分、大きくなったよな……」 「……」 膝枕をしていると言うことは、よほど変則的な格好でもしていない限り、頭の横につぐみのお腹がある訳で……俺は女性の神秘性を示すその巨大な膨らみを、何とはなしに見詰め続けていた。 「正直、まだ実感ねえけどな」 「この子が産まれれば、三児の父よ」 「……俺、まだ二十一なんだけどな」 「私は十七よ」 「……だったな」 小さく苦笑した。 「で、いい加減名前は決めたの?」 「ああ……男だったら太郎。女だったら花子」 「……悪くないわね」 「え゛?」 さ、流石はマイワイフ。俺の古典的且つ高度なボケに対し、ボケを上乗せするとは…… って、この表情、天然か!? 「ちょっと待った、今の無し! やっぱりこういうのはじっくりゆっくり考えようぜ」 「もう……そう言い続けて何ヶ月経つと思ってるのよ。そもそも予定日ちゃんと憶えてるの? 三日後、四月二日よ。もうしばらくは産まれないって話だけど」 「四月二日、か……」 「運命的なものを感じる?」 「ああ、空の二十四歳の誕生日だな……」 二○一一年、四月二日が稼働日である空にとって、三日後は、本当の意味で二十四歳になったと言える。 尤も、幼年期、少女時代、思春期を経ていない彼女と俺等の二十四年は違うだろうし、空に言わせれば『私は産まれた時から、そして未来永劫二十四歳です』なのだろうが。 「……誕生日?」 何かが引っかかり、脳内検索を掛ける。とりあえず、思い出せる限りの友人、知人の誕生日を端から上げていく。 えっと、つぐみが七月五日、沙羅とホクトが一月二十一日、親父が五月九日、お袋が八月十三日だったかな? あとは――。 「あ゛ぁ〜!!」 「な、何よ、いきなり? この子がびっくりするでしょ」 「悪ぃ、緊急事態だ」 俺はそう言い残すと、ヴァルハラの如き至高の寝床から身を起こし、取るものも取らず家を飛び出した。 |
全ての想いが辿り着く場所 第一章 毀れ始めた歯車 制作者 美綾 |
「はぁ……はぁ……」 息せき切りながら、目的の場所に辿り着く。 ポケットに小銭が入っていたのは幸運だった。もしこれが無ければ、電車に乗ることは出来ず、気まずい思いをして家に帰らなければならないところだった。やはりあの事件分の不運が、今になって還ってきているのだろう。信仰心なんぞ特に無い俺だが、この時ばかりは神様とやらに感謝した。 「しかし……」 俺の目の前には、次なる難関が待ち受けていた。それは、俺が俺である限り容易くは越えられぬ壁。いや、所詮人が産み出したものである以上、決して崩せぬものでは無いだろう。 だが――。 「女子大なんだよな……鳩鳴館って……」 今日が優の誕生日であることを何とか思い出し、祝いの言葉の一つも掛けてやろうとしたのはいいのだが、校門前で立ち往生してしまう。もうこの時点で不審者確定だが、無理矢理、中に入るのは更に危険だろう。下手をすれば明日にも三面記事デビューを飾れてしまうかもしれない。 「といっても、ここで引き返すのもなぁ……」 PDAがあれば連絡も出来るのだが、忘れてきてしまった。生憎俺は、知り合い全ての番号を空で言えるほど記憶力に自信がある訳ではない。 呆然とその場に立ち尽くす俺。先程から女子大生と思しき生徒が俺の方をちらちら見ているが、あれはきっと『何ていい男なの』と羨望の眼差しで見ているに違いない。うん、きっとそうだ。 「あれ? ひょっとして武さん?」 不意に、聞き覚えのある声を聞いた。俺にとっては最も聞き覚えのある優の声。 いや――この声の今の持ち主は、息子の恋人、田中優美清秋香菜。優の娘だ。 「武さん、何してるの。こんなところで?」 「いや、今日が優の誕生日だって思い出してな。上手いこと仕事が休みだったんで会いに来たんだが、連絡すんの忘れてた」 優と同じ外見、同じ声の女性にさん付けされるのはかなり違和感があるのだが、彼女にしてみれば俺は恋人の父親だ。いきなり『お義父さん』と呼ばれないだけ良しとしよう。 「何だ。だったらつれてってあげるよ」 「……出来るのか?」 「大丈夫、大丈夫。私達、結構有名だからこのくらいの無茶は通ったりするんだな〜」 「……」 それは職権濫用と言わないか? 何とはなしにそんなことが頭を掠めたが、俺には従うしか術が無い。ここは敢えて共犯者となり、自らの手を汚す道を選択した。 通された部屋は、およそあの優からは想像しがたい雰囲気を醸し出していた。壁際にはこげ茶色を基調とした重厚な本棚がいくつも並び、その中には少なくても日本語ではない、分厚い書物が無数に納められている。中央に置かれたソファとテーブルは、年代物なのか古いだけなのかは分からないが、とりあえず空気に合致していると思う。 そして何より、一番奥に配置された椅子と机に腰掛ける女性そのものが、だ。肩口まで伸ばした淡い栗色の髪に、落ち着いた瞳。眼鏡でも掛ければ、一部の人が狂喜乱舞しそうなこいつは、本当にあの田中優美清春香奈なのだろうか。 「あら、倉成じゃない。平日の昼間っからこんなところに来るなんて暇ね〜」 「……」 唯、声質と喋り方が若干変わったとは言え、中身と言うか本質の方はあまり変わっていない様だ。 「せっかく誕生日を祝いに来た友人に、随分な言い草だな」 「誕生日? ああ。そう言えば今日だったわね。いや〜、もうすぐ学会があるから、最近詰めててね。やっぱ、働いてる振りくらいはしないとね」 ……おい!? 「この不良教授」 「あら? 給料分くらいは働いてるわよ」 言い切れるところが侮れない。 「ま、とりあえず座ってよ。紅茶とお茶請けくらい出すわよ」 「紅茶? お前、コーヒー党じゃなかったのか?」 「最近凝っててね。ぎゃふんと言わせたい人が二人ばかり居るし」 「誰だよ?」 「二人とも、あんたの知らない人よ」 そう表現されると、少しばかりカチンとくる。そこで俺は報復的措置を取ることにした。 「男か?」 「……」 目付きが一瞬にして変わる。もちろんここで笑顔を見せられる様な奴では無いことは分かっている訳で……俺はこの状況を打破すべく、最良と思える行動を取ることにした。 「ごめんなさい。少し図に乗ってしまいました」 「弱いわね〜」 「無益な戦いは好きじゃない」 「そこは同意しておくわ」 目線を合わせると、互いに苦笑した。 「それで。プレゼントは何をくれる訳?」 「……」 あ゛。 「い、いや、そのあれだ。お前も今日で三十七だし、もう物質的な欲望も消える頃だろう。やはりここは俺の笑顔と思いやりという奴が何よりの贈り物だと思ってな」 「ちなみに三十六、よ」 「……」 しまった! 墓穴か!? 「ま、手ぶらで来た時点で期待してないからいいわよ」 「……悪ぃ」 「らしくていいわよ」 両目を瞑り、紅茶を啜る。その様は妙に艶めかしく、俺は思わずドギマギしてしまう。 「……?」 不意に、違和を感じた。厳密に表現するのであれば、部屋に入った瞬間から感じていたのだが、その正体が何なのかを理解したと言うべきか。 部屋の奥、仕事用の机の上に置かれた銀色の灰皿。安物のスチール製と思しきその上には、当然の如く一本の吸い殻が置かれている。吸い口にこびりついた鮮明な紅色は、俺が見る限り、優の唇と同色に見えるが……。 「お前、煙草は吸わないんじゃなかったか?」 警備室で交わした会話を思い出す。たしか瑞々しい肌がどうとか言ってた気が――。 「……何年前の話よ」 「俺にとっては去年だな」 「私には十八年前。ろくに言葉も話せなかった娘がもう大学生なのよ」 「まあ、俺なんか産まれてもいない双子が高校生なんだけどな」 「不思議な話よね〜」 「全くだ」 良く分からない会話だが、成立してしまっているところが恐ろしい。冷静に考えると落ち込んでしまうので、これはここで打ち切ることにした。 「要するにそれだけの時間が流れたってことよ。ま、と言っても月にほんの数日、箱半分も吸わないんだから、喫煙者と言えるかは微妙だけどね」 「月数日?」 「それ以上聞いたらセクハラよ」 「……成程」 納得して、引き下がっておく。残念かどうかは分からんが、とりあえず男である俺には、一生理解出来ないであろう世界だ。 「ねえ、倉成……」 不意に、優は意匠文字の入った箱を手繰り寄せると、紙煙草を一本取り出した。そして口に銜えると、安物のライターで火を点す。一息だけ吸うと、口紅のついた部分を軽く抓み、俺に突き付けてきた。 「煙草の火で自分の目を潰したいって思ったことある?」 意味の無い質問に聞こえた。それこそ、一笑に付してしまっても、聞かなかったことにしても問題ない程度の。 「なんだ、そりゃ?」 「ちょっとした自傷行為って言うのかしら? 無い?」 あまりに真剣な優の眼差しに、喉が渇き、言葉に詰まってしまう。 「無い……と思う」 「そ」 あまりにあっさりそう返答すると、再び口に銜える。今度は深くゆっくり、二度三度。 黙っている道理は無いのだが、俺は何とはなしに口を開くことが出来なかった。 「ありがとね、倉成。良い気分転換になったわ」 「時間無いのか?」 「ん〜。そんなにやる気ある訳じゃないから、早く終わらせたいのよね〜。今度は暇な時に来てよ。丸一日だって付き合うから」 「……不良教授」 「天才の特権よ」 並の奴なら只の嫌味だが、こいつが言うと妙な説得力を帯びる。もしかすると、俺はとんでもない奴と友人になったのかもしれない。 「あ、倉成」 去り際に声を掛けられた。俺は扉に掛けかけた手を止めると、顔だけをそちらに向ける。 「あんた、今、幸せ?」 「……多分な」 「それは何よりね」 小さく微笑みを見せた。 「それじゃ、な」 「また、ね」 何事も無い、平穏であるべき日常の一コマ。 だが俺は、小さな歪みを感じていた。放っておけば生活の中に埋没してしまいそうなほど、微細なズレ。 気のせいで済ませてしまえば良いのかもしれない。むしろ俺はそうであることを望みながら、この場を立ち去った。 つづく |
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