―――――――それはとても不思議な味がした。 |
いつかどこかの屋台の前で 製作者 REI |
「お客さん、そいつは教えられませんよ〜」 眉を片方だけしかめながら、その青年はおどけるように言った。 私がそのタツタサンドの屋台を見かけたのは、五月の夕暮れ時のことだった。 私の住む街は、海に面した小さな田舎町だった。 田舎町だが、開発は矢のような勢いで進んでいく。 つい先月、最寄りの駅が全面改装されて他の町に見劣りしない外観となったばかりだ。 ロータリーの隅。バスの停留所の少し離れた場所に、私は見知らぬ露店を見つけて足を止めた。 今日は14になる娘の誕生日だった。無理をして退社時間と同時に会社を出たのだ。 電車を乗り継ぎいつもの駅で下車。あっと言う間に変わってしまったロータリーの様子を一瞥して、感慨深く吐息を吐く。 バスの時間はまだ先だった。手持ち無沙汰だった私は、何となくその店に足を運んだのだ。 屋台は繁盛していた。 小さな子供から高校生、果てには主婦や、私のようなスーツを着込んだ大人達が、街の大通りよりも無作為的にその場所に溢れかえっていた。 青年はタツタを揚げながらお客と談笑している。器用なものだ。 この店は彼一人でやっているのだろうか―――? しかしよく見ると、大きなタヌキの着ぐるみが店に集まった小さな子供を相手にしていた。 歓喜の声を上げながらタックルの要領で抱きつく小さな子供達。 そんな彼らを、まるで母親のように受け止め、頭を撫でる自愛に満ちた大きなタヌキ。 微笑ましく思えた。 やがて私はその青年と対面した。 「おいくつっすか?」私は「1つ」と答えた。 そして私は、その不思議を体験することになる。 サンドは有り体に言えば、美味い、の一言にかぎる。しかし、だからこそ私は疑問を拭えずにいた。 美味いのなら、ああ、美味しいな、と頷くだけでいい。 しかし私は、それと同時に胸の中で広がる「何か」に気付いた。 それは揚げたタツタの味だったのか、調味料の仕業だったのか、マスタードの加減だったのか、それともパンのほうに仕掛けがあったのか。 今まで味わったことのない味、ではない。 いままで感じたことのない味、だったのだ。 「不思議な味がしますね」 「そうかあ? 一応、賞味期限は切れてないはずだけど」 「いや、そういう味ではなくてねえ」 うむむ? と唸りはじめた青年を、私は慌てて声を上げた。 「何というか、不思議な感じがするんですよ。何か特別な味付けでもしているんですか?」 青年は一瞬だけ呆気に取られたような、不思議そうな顔をした後、 「お客さん、そいつは教えられませんよ〜」 おどけるように、言ったのだ。 バスが来るまでの間、私は遠巻きに青年の様子を眺めていた。 小さな子供を相手にする時はまるで父親のように。学生を相手にする時にはまるで兄のように。 私のようなサラリーマンを相手にする時にはまるで同僚のように。 ともかく、彼はよく喋る。そして、面白い。 人の笑いのツボを心得ている、というのだろうか。 ―――いや、そんなことは、私にはどうでもよかった。 私はただ不思議に思ったのだ。 彼は、大学生なのだろうか? それにしては彼の雰囲気は大人びている。 一見すると子供っぽくおどけて笑うのだが、その奥に見え隠れするものは、私なんかよりももっと高い場所に居る、悟りを開いた高僧のようなものだった。 やがて彼らは屋台をたたみはじめた。タヌキが売り切れを告げる看板を頭上に掲げる。 見るとこのタツタサンドは一日50個限定のようだ。 「お疲れ様です」 気がつくと私は屋台に駆け寄り、ねぎらいの言葉を掛けていた。 どうしても、あの味の正体を知りたかったのだ。 「楽しそうでしたね。いつからこの商売を?」 「そうだな。もう結構前からだな」 「そうなんですか」 結構前、ということは、彼は高校に進学せずにずっとこの商売を続けているのだろうか? 「手馴れてますね」 私は店の片付けをテキパキとこなす青年に、ぽろりと言葉をこぼした。 「暮らしイキイキって感じだろ?」 彼は笑う。 その笑顔は、同性である私が見ても魅力ある、励まされるようなものだった。 やがて屋台は走り出す。 私はついに、その味の秘密を聞き出せなかった。 停留所にバスが到着して、私はふと思った。 家族のために、お土産にいくつか買っていけばよかったな、と。 あれから何年か経った、ある冬のことだった。 私は事故で、すべてを失った。 不慮の、事故だった。 こうして私は、妻と、そして来年挙式を予定していた娘を喪った。 絶望に打ちひしがれた。 私には、もう何も残ってはいない。 生きていても、何もない。 ならば、いっそのこと――――― そこから先は、考えてはいけない、口にしてはいけない禁句だ。 それを考え、口にした瞬間私は本当の意味ですべてを失う。 ――――失う? もう、失うものなど残ってはいないというのに。 私はふらりと。 会社を無断で休み、海へと向かった。 灰色の空の下の海は、禍々しく揺れていた。 堤防の先。 防波堤に波が打ち付けられ、耳鳴りがする。 高さは、6メートルほど。 ここから身を投げれば、私は容易く波に飲まれ、あの無骨なコンクリートの群れに叩きつけられて死ぬことができる。 私は何かに取り付かれたように足を踏み出し、そして―――― ―――――いつかの、タツタサンドの屋台を見つけた。 「いらっしゃい。って、どうしたおっさん。元気、なさそうだな」 堤防から身を投げようとしていた私の足は、いつの間にかその屋台に向かっていた。 「君は………あの時の」 青年は、驚きを隠せずに私の顔を凝視した。 「まいったな。日本中あちこち移動してるけど、前の客にもう一度会うなんてこれが初めてだ」 驚いたのは、私も同じだ。 いいや。違う。 私の驚きは、彼のそれよりも遥かに上だった。 青年は厄介ごとをどう片付けようか悩むように頭をかいている。 その容姿は――――驚いたことに、数年前私が出会った頃、そのままだったのだ。 屋台の脇には、それが当然と言わんばかりにタヌキの着ぐるみを着た従業員が立っていた。 中身は、あの頃とはまた別人なのだろうか。 ―――そうは思えない。この青年と同じく、同一人物が、あの頃と同じ容姿のまま入っているのだ。 従業員の素顔を見たことのない私でも、それを直感的に感じた。 「で、どうすんじゃい?」 「――――え?」 「いやだから。買うのか買わないのか。冷やかしはお断りだぞ」 青年は既にタツタを揚げていた。 なし崩し的に、私はサンドを1つ買って、無感動にそれを口に運んだ。 そして。 「おいおいおっちゃん。そんなに美味かったのか?」 私は不意に、涙したのだ。 頬張る。 心の芯まで温めてくれるような、それを。 「そ、それともマスタードが効きすぎたのか? おっちゃん、水いるか?」 私は首を振り、子供のように涙をぽろぽろ、ぽろぽろ流しながら無心に頬張る。 食べ終えた時。 私は、タヌキの着ぐるみにタオルを一枚手渡された。 ぐしゃぐしゃになった顔を、拭う。 「は――――あ―――――」 吐息を吐くと、それはずいぶん長い間、目の前に白く残った。 ぼりぼりと。 青年は頭をかく。 「何があったかは知らないけど」 立ち尽くす私の肩に、青年はぽんとその手を掛けた。 「頑張れな。おっちゃん」 ああ――――。 私は今、その味の意味を知る。 何も知らない、私より遥かに若い青年が、頑張れ、と励ます。 それはまるで、生きることの意味を知っている人間の言葉のようで。 そんな彼の声を、一体誰が「何も知らないのに何を無責任な」と罵ることができるだろうか? 不思議な味のするタツタサンドは、たぶんそういうことだ。 普段、何気なくただ淡々と日常を生きているだけでは、到底気付くことのできないもの。 何かを喪って、失いかけ、絶望しきった時、それでも放さないと。 ただそれを続けるだけで、意味があるということ。 私の頭が訴える。 生きてさえいれば、それだけで幸せなんだと――――そんなの嘘だ。 私の胸が訴える。暖かい何かに包まれた私の心が、訴える。 それこそが嘘だ、と。 私は喪った。 これから生きていく希望もない。 本当にそうなのだろうか。 絶望したって、希望がなくたって。 私はこうして、今を生きている。 理屈じゃない。 こうして胸から湧き上がってくるものは、決して御託ではない。 ただ本能に。 私のすべてに訴えかける、その真実。 生きているかぎり、生きる。 そんな勇気をくれる。 それこそが、あのタツタサンドに隠された、究極の隠し味だったのだ。 喪った私は、これからの時間を生きていくだろう。 それは絶望とともにあるのではなく。 ただ、がむしゃらに生きる。 生きているのが辛いとか、そんなことは考えない。―――考えさせない。 生きていることそのものが、いいことのように思わせてくれるそれを胸に。 私は生きているかぎり、生きていていいと思う。 私はなぜ生きるのか。 死ぬということが、一体どういうことなのか。 終わるということが、一体どういうことなのか。 その答えを見極めるための執行猶予――――。 今はまだ、その時ではない。 私はまだ死ねない。 これから先、絶望しか待っていなくても。 生きていていいことがなかったとしても。 私は、生き続ける。 その強さを、私は確かに貰ったのだ。 気が付くと、屋台は車に変わっていて既に発進していた。 曇り空はいつの間にか二つに割れ、日暮れの淡い朱色の光が海を染め上げている。 結局、彼らの正体は分からず終いだったが、私が得たものは大きかった。 ふと、大昔大学に在学中、世話になった教授の話を思い出した。 第三視点。 そしてブリック・ヴィンケル。 今私達が生きている世界よりも、もう1つ上の次元に住む存在。 彼は偏在している。 過去に。現在に。そして、未来に。 並列する空間。そして、今この空間のすべての場所に。 生涯を通して第三視点の研究を続けていた私の恩師は、もう亡くなっているだろう。私が世話になっていたあの頃、既に彼は70を越えていたからだ。 私は思う。 タツタサンド屋の青年は、そのブリック・ヴィンケルそのものだったのでは? と。 彼は世界に偏在し、そして、タツタサンドを売る。 その味は、言うまでもない。 あるいは、彼から私達への、メッセージだったのではなかろうか。 推測の域はでない。 そして、それらは意味のない憶測だ。 私は生きる。 その意味と、それを成し遂げる強さを、私は彼に貰ったのだから。 あるところに、屋台がある。 それはタツタサンドの屋台。 切り盛りするのは一人の青年とタヌキの着ぐるみ。 私は今でも、そのタツタサンドの味をはっきりと思い出せる。 ――――そう。 それはとても不思議な味がした―――――――。 |
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