きゅごう!! ずがっっっしゃぁあああぁぁん!!!!

 頭上をテーブルが、視認できないほどの速度で大気を切り裂いた。
 と同時、壁に突き刺さり粉微塵に吹き飛ぶ。
 爆風が吹き荒れ、髪をひっかきまわす。
 バラバラと辺り一面に破片が降り注ぐ中、沙羅とホクトは窓の外を眺めていた。
 ソファーをバリケードにして、その影に座り込み、何をするでもなく窓の外を眺めていた。
 空は雲ひとつなく、夏の朝特有の透明感のある青をいっぱいに広げている。
 太陽は薄い絹を一枚纏ったように穏やかに優しく輝いており、新しく生まれた朝を祝福していた。

「どわ! ちょっ……ちょっと待て!! 死ぬ!! こんなんくらったら死ぬって!! 落ち着け!! 落ち着いて話し合おう!! 争いからはなにも生まれない!!!」
「うるさい!! いっぺん死んで来なさい!!!」

 朝日を全身に浴びながら、沙羅は朝の静謐な空気をおもいっきり吸いこんだ。
 草木や土、朝露の匂いが交じり合った、朝の匂い。
 冷たく新鮮な空気が肺に流れ、体が清められたような気分になる。

 ばすごす!! がごっっ!! めきめきめき!!!
「でえ! つーか、つぐみ!! どーでもいいけど、なんでお前トルネード投法をマスターしてんだよ!!!」
 ずがああぁぁぁぁああああん!!

「気持ちのいい朝でござるなぁ♪」
 小鳥のさえずりに耳を傾けながら、いつものように手足をうんっと伸ばし−これをしないと朝という気がしないのだ−これ以上の幸せはないとでもいうような笑顔で、沙羅はしゃべる。
「……そーだね……」
 さきほど降り注いだ木屑を被ったまま、虚ろな目でホクトはぼんやりとつぶやいた。

「武! なんで避けるのよ!!」
 がしゃあああぁぁぁあああんんん!!!
「無茶苦茶ゆーな!!」
 ばきめきぐごずかん!!!

「今日はなんかいいことありそう♪」
 放物線を描いて丁度、沙羅の真上に落下してきた包丁を、雑誌を頭上に掲げ盾代わりに受け止める。
「……そーだね……」
 本棚にコップが激突し生じた鋭利な刃を、ホクトはクッションをひるがえし、防ぐ。
「こんな天気のいい日は忍者村にでも遊びに行きたいでござるな♪」
「……そーだね……」

「ぎやあぁぁぁぁああああ!!! 死ぬ!! 死ぬ!! 死ぬ!!! 首がもげる!!!」
「この!! この!! この!!」

 沙羅は再び窓の外を見やった。
 風につられて、梢がさわさわと音を奏でている。
 それは涼やかに優しく、体の中に染み入る。つられる様に彼女は目を閉じた。
 郊外に立つ、この少なくとも自分より年をとっているであろうアパートを不思議と、彼女は気に入っていた。
(赤ちゃんの頃、ママとお兄ちゃんと3人で暮らしていたアパートを思い出させるからかな?)
 もっとも、そのアパートを覚えているわけではないけれど。
「ねえ、お兄ちゃん。子供の頃、ママとお兄ちゃんと私……三人で住んでたアパートって、ここと似てる気がしない?」
「……そーだね……」

「おい! ホクト! 沙羅! 現実逃避してないでつぐみを止めてくれ!!」

 沙羅はさきほどからの声や音を聞こえないふりをしつつ、しゃべり続ける。
 ホクトはさきほどからの声や音を聞こえないふりをしつつ、相槌を打つ。

 武の断末魔の叫びが、朝の静寂を打ち砕くようにひときわ大きく辺りに響いた。








ある夏の日の過ごし方
                                     雪月花










「―――それで」
 脚を組んでイスに座っていた春香菜は、小さな小さな溜息と共につぶやいた。
「ここに逃げ出してきたってわけ?」
「ええ、そうなんです」
 ホクトと沙羅は、ぴったりの呼吸で頷き、答えた。
「いーや、違う、違うぞ。ホクト、沙羅。これは決して逃げたわけじゃない」
 武は二人の言葉をきっぱり否定し、大きなソファーに仰向けに寝た状態から、改めて辺りを見まわした。
 ここは田中家のリビング。
 じりじりとアスファルトを焦がす太陽。一時も途切れる事のない蝉時雨。
 冷房の効いた部屋の中は、そんな窓の外とは別世界だった。
 横になっているソファーからゆっくりと身体を起こす。
 身体中の傷が悲鳴をあげるが無視し、武は三人に視線を向けた。
 拳をぐっと握り、瞳の中に意志の光を灯し、自信をもって答える。
「これは戦略的撤退だ」
「どっちも同じでしょ」
 キッチンから人数分の飲み物を持って出てきた秋香菜は、武の言葉を一刀両断、冷たく切り捨てた。
 武はちらりと秋香菜を一瞥すると、小馬鹿にするようにふっと息を吐いた。指を左右に振りながら、
「ちっちっち。ただの逃亡と戦略的撤退は似て否なるモノだ。俺は状況を冷静かつ大局的に把握し、最も適切な判断を迅速に下したんだ」
「最も適切な判断?」
「怒ったつぐみに勝てる訳ない」
「……そんな情けない事、胸張って言わないでよ……」
 秋香菜は半眼でつぶやく。
 そんなことにはまったく構わず、武は彼女が持っているおぼんから麦茶を取ると、腰に手を当て一気に飲み干した。
「っっかあ〜、うまい!」
「……オヤジくさ……」
 嫌そうにつぶやくと、秋香菜はてきぱきと飲み物を配り始める。
「えっと、ホクトとマヨは麦茶で、お母さんはアイスコーヒーね」
「ん、サンキュ……それにしても、最初ここに来た時は全身骨折血だらけだったっていうのに……何度見てもこの回復力には驚かされるわね……」
 春香菜は治療の準備をしながら、口を開く。
「ホントだ……もう傷口、塞がりかけてる……」
 沙羅は武の腕にぺたぺた触りながら、感嘆の息を漏らした。
 秋香菜はうんうんとうなづきながら、
「ゴキブリ並の生命力――いえ、それ以上よね。名前、倉成ゴキ太郎に改名したら?」
「だれがするかっ!? 人をゴキブリと比べるな!!」
「そうよね〜。ゴキブリに失礼よね〜」
「違うだろ!?」
「……桑古木にはタヌ吉ポン太郎なんて名前つけようとしたくせに……」
 ホクトがポツリとつぶやく。
「はいはいはい。どいてどいて」
 治療の準備を手早く済ませた春香菜は、沙羅と秋香菜をかき分け、武の前に陣取った。
「ん〜、まあ、消毒しておけば大丈夫でしょ」
 傷口を眺めしばらく思案した後、そう結論づけて傷口にどばっと大量の消毒薬を吹きかける。
「いてててててて! 優、もうちょっとそうっとやってくれ!」
「あ〜もう、うるさいわね。大の大人がさわがないでよ」
 武の抗議の声を一蹴し、春香菜はさらに消毒薬を豪快に傷口に塗りたくる。
「!!!!! おい優!!」
「あんたね〜。こんな麗しい美女に手当てしてもらってその言い草は何よ」
「うるわしいびじょ〜!? 優、少しは自分の年齢を考えて……」
 春香菜はにっこり微笑むと、どこからか一本の注射器を取り出した。
「……あの〜、優さん……それはなんでしょうか……?」
 武の問いには答えず、春香菜は天使のような微笑みを浮かべたまま、武との距離を縮めた。
 ただし目は笑っていない。
「……」
「……」
 沈黙。
 全身が総毛立つ。
 ぞくぞくと背筋に悪寒が走る。
 冷や汗が体中からにじみ、乾き始めていたシャツが再び湿る。
 春香菜の背後で、秋香菜が十字を切り、黙祷を捧げている。
 春香菜は、何も知らない男なら一発で恋に落ちる笑顔を浮かべたまま、ゆっくりと注射器を振りかざす。
 針先が蛍光灯の光を反射し、鈍く光る。
 その注射器の中は長年放置されたどぶ池の色を思い起こさせるような濁った緑色の液体が入っており、春香菜はゆっくりと注射の中の空気を抜いた。
 じゅううぅぅぅぅ
 液体がじゅうたんに跳ねると、その部分は焦げぐさい匂いと共にどす黒く変色した。
 顔が引きつる。
 気が遠くなるほどの年月を経て蓄積された最も原始的な太古の記憶、危険を回避し生き残るために培われてきた本能が今、命が危険さらされていることを警告していた。
「……………………」
「………………………………………………(にこにこ)」
「………………………………………………………………………………………………ごめんなさい」
「分かればよろしい」
 春香菜は手品のごとく、注射器をしまった。
「……田中先生だけは敵に回さないようにしよう……」
「……異議無し……」
 いつのまにか、部屋の隅に避難していたホクトと沙羅は固く固く心に誓った。
「さて……っと、あとはガーゼでも貼って……っと、これでよし」
「ありがとうございました……」
「どーいたしまして」
 春香菜はいたずらっぽく微笑んでから、グラスに手を伸ばそうとした。
 と、その直後。

 ……かた………かたかた………かたかたかた…………がたがたがた

 テーブルの上のグラスが振動を始め、それに呼応するように遠くから地響きがこちらに向かってくる。
「え……何……?」
「……地震……?」
 各々不安げにつぶやく。
 その間にも、地響きはどんどんこちらに近づいてくる。

 …と…………た………と……とた…とたとたどたどたばきい!!! どたどたどた!! ずがしゃあああんんん!!…………………どたどたどた!!!

 その音から頭の中でシュミレートする――――つまり玄関を豪快にぶち破り、廊下を踏み抜く勢いで爆走し、突き当たりの壁に頭から激突し………

 どたどたどたどたどたどたどたどたどたどた!!! ばん!!!

「く…く……くくくく………倉成さん!!! 無事ですか!?」
 引いて開けるはずのドアを、何故か押して現れたのは―――
「おお、空。そんなに慌ててどうしたんだ?」
 髪の毛が乱れ、服も擦り切れて、といった普段の彼女からは想像できないような空を、武は何事も無かったかのように出迎えた。
「倉成さん!!……倉成さんが……全身複雑骨折、頭蓋骨陥没、アキレス腱断裂、大量出血、ぎっくり腰、水虫、痔、糖尿病、その他もろもろの瀕死の重症を負ったって……」
「ああ、もうだいたい治ったぞ……って!! 後半のは何なんだ!!!」
「え?……でも……秋香菜さんからお電話頂いた時に……」
「おい! 田中優美清秋香菜!!……あれ? あいつどこいった?」
「優ならさっき、こっそり部屋から出ていったよ」
 ホクトはさきほど空が破壊した、元ドアの方を示しながら答えた。
「あ〜い〜つ〜は〜〜」
 歯ぎしりしながら、元ドアを睨みつけ、呪詛のごとくうめく。
 と、その元ドアから――
「やっほ〜、たっけぴょ〜ん♪ お見舞いに来たよん♪」
「武、具合はどうだ?」
 ひまわりのように元気を振りまくココと、どことなく嬉しそうな桑古木が顔を出す。
「おお、ココに桑古木。ひさしぶりだな」
 さきほどまでの怒りを忘れ、武は更なる来訪者を出迎えた。
「わあ、ひさしぶり! 二人は一緒に来たの?」
「あ、いや。偶然、駅で会ったんだ」
 桑古木は狼狽し、たどたどしく答える。
「うん♪ 改札の所でばったり♪」
 そんな、桑古木の様子には気づかず、ココはいつも通りの天真爛漫な笑顔を浮かべる。
「……ふ〜ん………偶然、ねえ……」
「……へえ…………偶然、かあ……」
「……はあ…………偶然、ですか……」
「……ほっほお……偶然、と来ましたか……」
「……そ〜…………偶然、なの……」
 沙羅、ホクト、空、武、春香菜、それぞれ意味ありげに含み笑いをしながら、桑古木をつま先から頭の先まで眺めた。
「な…なんなんだよ!その反応は!!」
「なんでもないでござるよ」
「なんでもないよ」
「なんでもないです」
「なんでもない」
「なんでもないわ」
 見事にそろったコンビネーションだった。
「? ねーねー。なんのこと〜? ねえってば〜。ココだけ仲間はずれ〜?」
 ココだけ状況を理解できずにぶーたれていた。










「と、ゆーわけで、第17回たけぴょん&つぐみん仲良しこよし作戦会議を開きます!!」
 いつのまにか戻ってきた秋香菜は、テーブルの上に片足を乗せ、ビシっと天を高らかに指差し大声で宣言した。
 目は生き生きと輝き、終始笑顔である。
「議長は私、田中優美清秋香菜、書記はマヨが務めます」
 どこから引っ張り出してきたのか、ホワイトボードを前に秋香菜はふんぞり返っていた。
 その隣で、沙羅もノリノリでボードに書き込んでいる。
 武とつぐみらしき人物が抱き合い、周囲にハートを乱舞させている。
「ねぇ、そのネーミング、もうちょっと考えた方が…」
「発言は挙手にてお願いします」
 ホクトは溜息をつきつつ、あきらめたように首を振る。
「なあ…なんでこんなことになってんだ?」
 天井からつるされた垂れ幕−LOVE&PIECE 倉成家の平和を取り戻そう−(なかなか達筆である)を眺めながら武は尋ねた。
「僕に訊かれても……」
 ホクトは困ったようにかぶりを振る。
「二人とも、楽しそうですね」
「まあ、女の子が甘い物と恋愛事には目がないのは、いつの時代も変わらないってことね」
 空に春香菜が苦笑混じりに同意する。
「そこっ! 私語は慎んでください!!」
 秋香菜は振り返りざまに数学教師のごとく、チョーク代わりにペンを投げつける。
 しかし、ペンは見当違いな方向へ飛んでいき、
「ぐえ」
 蛙が潰されたような声をあげて、桑古木は椅子ごとひっくり返った。
「あ……やっちゃった……ま、いいか。桑古木だし」
 秋香菜は何事もなかったように『議長席』と書かれた椅子に腰掛ける。
「さて、それでは武とつぐみのケンカ仲裁について、なにかアイデアのある人は……」
「はいは〜い。ココ、いい事思いついちった〜♪」
 元気良く手をぴんっとまっすぐに挙げ、テーブルに身を乗り出し、底無しに明るい声をあげる。
「はい、ココ君、何か名案が?」
「うんっ!えっとねぇ〜、みんなでゴキブリごっ…」
「却下!!!!!」
「ええ〜!? なんでぇ〜!?」
 ほぼ満場一致の決議に、ココは両手を胸元で握り締め、心底驚いたように叫んだ。
 両手をぶんぶか振り回し、地団駄を踏んでわめき声を上げる。
「ごきぶ〜したい〜、ごきぶ〜したい〜」
「よし、じゃあ俺とやろう。」
 満場一致の例外−桑古木がいつのまにか復活し、うれしそうに提案する。
「涼ちゃんと? うんっ、やろう♪」
 ココの顔が、ぱあっと明るくなる。
 桑古木は大きく頷くと、慣れたようにためらいもなく床に這いつくばった。
 いったん目をゆっくりと閉じ、呼吸を静かに整える。
 時間が止まったようにピクリとも動かない。
 辺りに緊張が走る。
 唯一、聞こえる自分の心音に耳を傾ける。

 ……どくん……どくん………どくん……どくん……

 身体中に神経を張り巡らし、細胞の一つ一つを覚醒させ、全身に力をみなぎらせる。

 かっっ!!!

 桑古木の双眸が見開かれ、キュレイの爆発的な力が解き放たれる!

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」


 かさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさかさ


「わあぁ! 涼ちゃん、うま〜い!」
 ココはうれしそうにぴょんぴょこ飛び跳ねながら、歓声をあげる。
「きゃあ! ちょ、ちょっと! こっち来ないでよ!!」
 桑古木の進行方向にいた秋香菜は、スカートの裾を押さえながら逃げ惑う。
「桑古木……」
 春香菜は、17年間付き合ってきたパートナーがゴキブリごっこに興じる姿を見て、天を仰いだ。涙がこぼれないように……
(いままでありがとう…………そしてさよなら、桑古木…………)
 そっと、心の中で別れを告げる。
 最後に這いつくばって床をかさかさ動き回る桑古木とそれに追われる娘、それをさらにはしゃぎながら追いかけるココの姿を生暖かい目で見守り、それを振り払うように春香菜は話を元に戻した。
「それで……?」
「え?」
 唐突に春香菜に尋ねられ、武は間の抜けた声を出す。
 春香菜は紅茶をソーサーに音も立てずに置くと、じっと武の目を見つめた。
「ケンカの原因よ。まだ話してないでしょ」
「原因って言われてもな…つぐみの奴、いきなり怒り出したからな……」
 武は麦茶を一口啜り、眉根にしわを寄せて答えた。
「ホクトと沙羅は? 何か思い当たる事ない?」
「私達がダイニングに入った時には……」
「もう、タンスが飛んでたよね」
 二人は互いに確認するように頷く。
 しばらく胸元に手を当て黙考していた空は、何かに思い至ったように声をあげた。
「つぐみさんが怒る前に、何か言っていませんでしたか?」
「う〜ん、そーいや『今日、何の日か覚えてる?』とかなんとか言ってたな……」

 ………………………………………………………………………………

 唐突に沈黙が訪れる。

「こうなったら、これでも食らいなさい! ゴキゴキバスター噴射!!」
「いって! 目に入った! 目に入った! 目に入った!!」
「にゃははははは〜♪」

 キッチンからの声がやけに大きく響く。
 春香菜はマリアナ海溝よりも深い溜息をつきつつ、大体、返答の予想がつく質問を投げかけた。
「それで? なんて答えたの?」
 武は男らしく、きっぱり言った。

「ビキニスタイルの日」










 その頃―――
(まったく、信じらんない!)
 つぐみは早足で繁華街を歩いていた。
 レンガ貼りの地面を踏み壊さんばかりに足音を立て、道行く人々が怯えた様子で道を譲るのも気にせず、歩きつづける。
(普通、妻の誕生日を忘れる!?)
 ふつふつと湧き出る怒りを発散させるように、ひたすら歩きつづける。
 目的地などない。でも立ち止まりたくなかった。
 歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。ひたすら歩きつづける。
 そして、曲がり角を曲がる、と―――
「ってぇな!おい!っんのアマどこに目つけてやがる!!ああ!?」
 肩がぶつかったのは、顔面ピアスだらけの男だった。
「おお!いい女じゃねェか」
 後ろから彼の仲間らしい若者が声をあげる。
 しかし、つぐみは歩き続ける。
「っンだぁ?シカトか!?こっち向けやコラァ!」
 つぐみはゆっくりと振り向いた。
 その瞬間―――
 なぜか、男達はさあっと顔面を蒼白にし、なにやら脂汗のような物をだらだらとかきはじめた。
「あ…ああ、いや……えっと……そうじゃなくって……なぁ?」
「そ…そう! 怪我は無いかと思って…なぁ……ははは……」
 口々にぼそぼそ言いながら、じりじりと後ずさりし、脱兎の如く退散していく。
 しばらくその様子を眺めていたが、どうでもいいというように、再び思考を歩くことに集中させる。
 自然と足は人気のない方へと向いていく。
 いつの間にか商店街を抜けて、あまり馴染みのない風景が広がっていた。
 ふと、寂れた公園が目に入る。
 誰もいなかった。
 すでに辺りは夕暮れで、世界を赤く染めている。
 なにかが、すとんと心から抜け落ちる。
 ふらふらと吸い込まれるように公園に入った。
「………………」
 気が付けば、錆びたブランコに腰掛けていた。

 …きい……きい……きい……きい……

 ブランコが悲鳴をあげる。
 いつもなら、10キロ走ろうが息切れひとつしないはずなのに、全く力が入らない。
 ここから1ミリも動きたくない。
 今までの怒りが一気に冷めていくのを、他人事のように感じていた。
 そしてそれ以上の、感情の奔流が体中を駆け巡る。
 前日まで感じていた期待と不安の入り混じった幸福感は、そっくりそのまま逆転した。
 どうしようもないほどの惨めな気持ちに心を侵食される。
 あまりの惨めさに、ともすれば零れ落ちそうになる涙を必死で堪える。
 喉の奥から熱いものがこみ上げ、息が詰まる。
 胸の奥がじくじくと痛い。
 涙が滲み、視界が歪んだ。
 つぐみは歯を食いしばったまま、視線を落とす。
 思う。
 私はいつの間にこんなに、弱くなったのだろうか……
 昔なら……氷の様に心を凍てつかせていたあの頃なら……こんな事で、こんな苦しい想いをすることもなかったのに……
「ばか……」
 弱々しいその声も辺りを支配する静寂にかき消された。










 つぐみはすっかり日が落ちて暗くなった道を、とぼとぼと子犬のように歩いていた。
 なにもかも、どうでもよかった。
 好きな人と、初めて過ごす誕生日。
 昨日まであんなにはしゃいでいた自分が、酷く滑稽に思える。
 切れかかった街灯の光りが、かろうじてつぐみの姿を浮かび上がらせる。
 それが、漆黒の闇に消え失せようとしているつぐみを弱々しく繋ぎ留めている唯一のものだった。
(なんか……もう、どうでもいい……)
 どうでもいい。
 どうでもいい。
 どうでもいい。
 家に帰ったらいつも通り、なにもなかったように振舞おう。
 そして早く毛布に包まって、今日という日が過ぎるのを待とう。
 俯いた、表情のない虚ろな顔には涙の跡が少し残っている。
 つぐみはそれを拭うこともせず、感情のないロボットのように、機械的に足を動かす。
 足は鉛のように重く、ほとんど引きずるようにしてのろのろと歩いた。
 やがて、アパートが見えてくる。
 窓から零れる光に一瞬、安堵するが、すぐにその想いもかき消される。
 なんだか、そこが自分の居場所ではないような気がした。
 つぐみはその場に立ち尽くす。
 その時、ざあっと一陣の風が吹いた。
 月を覆い隠していた厚雲が晴れ、月の光が辺りを照らした。
 玄関前にいる人の姿を浮き彫りにする。

 ドクンッ

 心臓が高鳴る。
「……たけ…し……」
 口が勝手に動く。
 かすれた、自分でもよく聞き取れない声で。
 武は、アパートの入り口の塀に寄り掛かった姿勢から、ゆっくり顔をこちらに向ける。
 真摯なまなざしでこちらをじっと見つめる。
 風になびく髪。
 月の光に彩られた端整な顔。
 どこまでも透き通る透明な表情。
「………………」
「………………」
 沈黙。
 さらに強く風が吹き、髪を揺らす。
 髪の毛の一本一本が光を反射し、美しく輝く。
 さきほどまで月を覆っていた雲は退き、濃紺の闇を塗りかえ、月の光が降り注いでいた。
 月の白い光が、木も草も全てを優しく照らす中、武はつぐみをじっと見つめる。
 月の光を受け、つぐみの顔は白く輝き、濡れた瞳は武を映し出している。
 つぐみの瞳から、つっと涙が一筋流れる。
 つぐみは反射的に顔を逸らすと、踵を返し走り出す。。
「つぐみ! 待ってくれ!!」
 武はつぐみを追い駆け、右手を掴んだ。
「放してよ!」
 ほとんど涙声で叫ぶ。
 鼻の奥がつんっとする。
 情けなかった。
 いつも通り振舞おうなどという考えは、武の顔を見て一瞬で吹き飛んでしまった。
「お願いだから放してよ!!!」
 耳が裂けそうなくらいの大声で力の限り叫ぶ。
「つぐみ!!」
 武はつぐみの言葉を無視し、思いっきりつぐみを抱きしめた。
「!!!」
 つぐみの顔が一気に崩れた。
 その目を大きく見開く。
 目からぼろぼろと涙が出てくる。
 つぐみの体から力が抜け、そのまま武に寄りかかる。
 温かかった。
 武は優しくつぐみの髪を撫でる。
 頬に当たる風。
 月の光。
 優しく鳴く虫の声。
「……今日は……あの時………武と離れ離れになったあの時から………初めて二人で迎える誕生日なのよ……?」
 一言一言を詰まらせながら、つぐみは絞り出すように言葉を紡ぐ。
「……ああ、そうだな……」
「……17年間……ずっと……ずっと………ずーっと待ってたのよ……?」
「……すまない……」
 つぐみを、今にも消えてしまいそうな女性を武は優しく抱きしめる。
 つぐみは小さく体を震わせ、やがて嗚咽を漏らす。
 武はもう一度、力強く抱きしめた。
「誕生日、おめでとう。つぐみ」


 つぐみは顔をくしゃくしゃにして、子供のように泣いた。










 月明かりに照らされ、二つのシルエットが一つになる。
「なんとか一件落着ですね。」
 空はほっとしたように微笑んだ。
「それにしてもまったく、自分の奥さんの誕生日を知らなかったなんて信じらんない! ハイバネ―ションでまだ脳味噌凍ってんじゃないの!?」
 秋香菜は憤慨した様子でマシンガンのごとくしゃべっていた。
「まあ、倉成からすると、つぐみと知り合ってから2ヶ月しか経ってないわけだし、倉成らしいといえばらしいけどね」
 春香菜は苦笑しつつ路地裏から二人の姿を眺めていた。
(まったく……仲良くやんなさいよね)
 ちくりと胸が痛んだが、顔にはおくびにも出さない。感情を押さえ込むことには、あの日から慣れている。
 未だ抱き合ったままの二人から目を背け、なんともなしに夜空に視線を向ける。
 そこには満天の星空が瞬いていた。

「ほいじゃあ、そろそろつぐみんのバースデーパーティを始めよ♪」
「そーだね。桑古木、ちゃんとケーキ買ってきた?」
「とーぜん! ローソクもちゃ〜んと41本もらってきたぜ!」
「あんた……いくらキュレイが強靭な生命力を持ってるっていっても殺されるわよ」
「ねえ、あのさ、今日この後花火やらない?」
「あ、私、花火ってやったことないんですよ」
「え? 空、やったことないの? すごく綺麗なんだよ」
「うふふ。楽しみです」
「ふっふっふっふ。火薬の調合はまかせてくだされ♪」
「沙羅さん、調合って?」
「えへへ〜、あのね、ちょこちょこっと花火を分解して・・・」
「あ〜! やった! やった! 子供の頃!」
「だ、だめだよ、危ないって」
「ミノムシごっこやろ〜よ〜」

「優?」
 いつのまにか隣に立っていた桑古木が、驚いたような声を出す。
「……優……泣いてるのか……?」
「……え…? 何言って…」
 否定の言葉を口にしようとしながらも、反射的に頬を手で撫で、そこで冷たいものに気づく。
(涙…? 私、泣いてるの……?)
 涙。
 17年間一度も零れなかった涙。
 倉成とココを助け出した時にも零れなかった涙。
「優……大丈夫か?」
「大丈夫よ……」
 桑古木が差し出したハンカチで涙を拭う。
「……ん、よし! 今夜は飲み明かすわよ!! 桑古木、付き合いなさいよ!!」
「ああ、今日はとことんつきあってやるよ」
 春香菜の頭にぽんっと手を乗せて、桑古木は微笑んだ。
「なっきゅ〜、涼ちゃ〜ん! 早く、早くぅ! おいってちゃうぞ〜♪」
 ココが手を大きく振って呼んでくる。沙羅もホクトも空も秋香菜もこちらを見て微笑んでいる。
「二人でなに話してたんですか〜?」
 沙羅が口元に手を当て、にやにや笑う。
「ん〜?……桑古木が、今日は全部おごってくれるって話♪」
「お、おい……そんな話は……」
「え、ホント!? やった〜!! ねえ! みんな! 今日は桑古木のおごりだって!!」
「涼ちゃん、太っ腹〜♪」
「らっき〜♪ 私、今月ちょっとピンチだったのよね〜」
 あっという間に、桑古木の周りに人だかりが出来る。
「い、いや……ちょっと……俺も今月は苦しいんだけど……」
 春香菜はそこからこっそり抜け出すと、武の家へと足を向けた。
「えらい! あんたこそ、漢のなかの漢だわ!」
「桑古木さん、ごちそうさまです」
「ごちそうさま〜」
「え、えっと……おい、優!」
 背後でなにやら叫び声がするが、気にせず歩き続ける。
 口元に微笑を浮かべながら。


《終》











  あとがき

 こんにちは〜。雪月花です。
 まずは、このSSを読んでくださり、ありがとうございます。
 このSSは元々つぐみんの誕生日記念SSとして書き始めたのですが、いろいろあってこんな時期での投稿となりました。
 初めて書いたSSなのでいろいろ未熟な点がありますが、このSSを読んでの意見・感想等ありましたら、一言でもいいのでぜひぜひ聞かせて下さい。
 お待ちしてます。
 ではでは〜。
 
 P.S  明さん、作品の発表の場を提供してくださり、ありがとうございました。

  補足トリビア(笑)
  ビキニスタイルの日
  1946(昭和21)年、フランスのルイ・レアールが、世界で最も小さい水着としてビキニスタイルの水着を発表し、7月5日はビキニスタイルの日に制定されました。
  ちなみに“ビキニ”は発表の4日前にアメリカが原爆実験を行ったビキニ環礁からその名前がとられました。
 ……なぜ、武がそんな記念日を知っていたかは謎です(笑)


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