〜Where is Heaven?〜
                              ショージ

前編  ~The prelude of lot~



そこには天使がいた

不可視の翼を背中に宿して

慈愛と自愛の心を持つ

そして、彼女の微笑み


 目を覚ました私は瞼をゆっくりと開きました。
 視界が霞み、反射的に指で目を擦りながら上半身を起こします。
 ベッドのすぐ横にある窓から射し込んでいるのは、薄いカーテンが遮って弱まった陽光。でも、光と共に暖かさも半減している気がして何だか寂しい気分です。
 窓とはベッドを挟んで反対側にある机の上に置かれた目覚し時計に目を移すと、短針は7を、長針は11を。
 午前6時55分。
 寝る前にセットしておいたタイマーはまだ鳴っていません。
 手を伸ばしてそれを解除し、私の体温が残る暖かい掛け布団をゆっくり退け、ベッドから出ました。その瞬間、急激に高くなる視点。
 部屋の壁には全身を眺めることができる鏡が置いてあり、私は前まで歩むと白い寝間着に身を包んだ自分の姿を確認します。
 毎朝、こんなことをする私。
 きっと他人から見ればおかしいでしょう。
 でも私は今ここにいる自分が過去には考えられなかった。いいえ、考えられないようにプログラムされていたのかもしれません。
 鏡を見ながら多少乱れた髪の毛を整えて、寝間着のボタンを1つ1つ着実に外し、袖口から手を、同じように片足ずつバランスを取りながら裾より引き抜くと、クローゼットからハンガーに掛かった、着馴れた白いチャイナドレスを手に取り、これもまた手馴れた手つきで着衣します。


 私の名前は、茜ヶ崎空。正式名称はLM-RSDS-4931A。
 海洋テーマパーク『LeMU』の案内係を仰せつかっている人工知能『AI』でした。RSDという半導体レーザーを直接網膜照射する画像表示システムによって私の存在は確立されていました。
 どちらも過去形です。何故なら今の私は肉体を持っているのですから。
 触れることのできないRSD。決して表わせないものを手に入れていました。
 だから、私は茜ヶ崎空なのです。それが本当の名前。


「おはよう、空」
 ある一室のドアを開けた空は、部屋の奥で作業をしていた白衣を着ている女性に話し掛けられた。挨拶の時は途切れていたカタカタというキーボードを連続して叩く音が、再び部屋中に響き渡る。少し前まで職場で嫌というほど使っていたが機械的なその音をどうしても好きになれなかった。
「おはようございます。先生、最近徹夜が多いのではないでしょうか?お体に差し支えますよ」
 先生と呼ばれた白衣の女性――田中優美清春香菜はフレームの無い眼鏡をかけ、会社の社長が座るような回転椅子に腰掛け、机の上に載っている目前のデスクトップパソコンのディスプレイに目を向けていた。ボードの上を流れるが如く動き回る指は、話し掛けられても止まらずにリズムを刻んでいる。
 彼女の実年齢は30歳を超えているのだが、外見は20歳前半で充分通る。
 やっと手を止めた春香菜は笑いながら近くまで来た空を見上げ、
「そうね、気をつける。心配してくれてありがとう」
 言い終えると再びディスプレイに向き直った。作業を再開する。
「朝食はどうしますか?」
「じゃあ、コーヒーを貰おうかしら」
「ダメですよ、先生」
 空は眉根を寄せる。
「昨日の夕食が美味し過ぎてまだ消化できてないのよ。目の覚める熱いのをお願い」
「……わかりました」
 何を言っても無駄なようだ。
 ちなみに夕食とは、空の作ったビーフシチューのことだ。小食の春香菜でさえシチューを2杯もおかわりを頼んだくらいの絶品だ。もちろん、春香菜の娘である秋香菜は9杯も食べた。そして、世界新記録にあと3杯で並ぶというところで……朽ち果てた。
 空は部屋を出る前に、ドアのすぐ横の壁にある数個のスイッチからカーテンの開閉スイッチに指を置く。
「ポチッとな」
 と言いながら2つのスイッチを同時に押した。遮光カーテンが中央から左右に分かれ、徐々に室内に光が満ち溢れていく。
「良い天気ですね」
 思わず片目を瞑り、手で日光を遮った。
「……そうね」
 キーボードを叩く音が止み、1度顔を上げたが僅か数秒で再開された。
 振り返ってドアに向き直ると静かに空は部屋を出た。


「おはよぉ、空」
 リビングへ入ると、まだ完全に目が覚めていないという状態をそのまま表す声が耳に届き、空は無意識の内に声の方へと視線を走らせた。
 寝惚け眼の彼女はテーブルに突っ伏して顔だけをこちらへ向けている。
 そう、彼女が優美清秋香菜。春香菜の娘だ。彼女は母親に似ている。二人は親子だから当然、というレベルの話ではない。まるで1卵性双生児――瓜二つと言っても過言ではない。外見の区別はほとんどつかなく、肩に少し触れる髪までもが同じだった。異なる点は言葉遣いや性格ぐらいだろう。
 そんな秋香菜は辛うじて起きているといったところか。
「おはようございます、秋香菜さん」
 空は微笑み、キッチンへ入った。
 この世には女子大生という(女子高生に似た)不思議な効力を持つ単語があるが、秋香菜はそんな鳩鳴館女子大学教養学部人文学科の学生だ。
「う〜ん、眠いよぅ……。空、目の覚める熱いコーヒーお願い」
「ふふふっ、先生も同じことをおっしゃってましたよ」
 思わず空は口元に手を当てて笑うと、秋香菜はガバッと上半身を上げて叫んだ。
「ウソっ!」
「嘘じゃありませんよ」
「もう………」
 すっかり目が覚めたようで椅子に深く座り直した。するとテーブルの上にスプーンとフォークが2人分しか置かれていないことに気付いたらしい。
「もしかして、お母さんまた朝食いらないって言ったの?」
「いえ、軽いもので良いと―――」
 薄く怒りの篭もった言葉を聞き取った空は事態の悪化を防ごうとするが、
「そんなのダメ」
 多少乱暴に立ち上がる。空には秋香菜の顔が俯いていたため、目線や細かい表情などは髪に隠れて窺えなかった。だから、一言で雰囲気を推測してオロオロとするだけだ。
「ちょ、ちょっと秋香菜さん………」
 制止も空しく、リビングを出て行った。ドアを閉める時の考えられない静けさが空の緊張を増加させ、思考を鈍らせた。
 いくら彼女が、一時は目を血走らせた狂犬(マッドドッグ)であった(彼女の後輩に冗談として聞いた話)としても自分の母親に向かって………と空は必死で頭をフル回転させた。が、オーバーフローを引き起こしてしまい、目が回ってしまった。きっと両目が渦巻きになっていたに違いない。
 どうして良いのかわからず、……とりあえず朝食の準備を進めようとキッチンに戻った時に廊下の方から足音が聞こえてきた。足音は2人分。
 ドアが開いた。
「優、そんなに引っ張らなくてもいいんじゃない?」
「絶っ対ダメ。離したら逃げるでしょ?さぁ、早く早く!」
 娘によって強引に連れて来られたのは徹夜明けの春香菜だった。彼女は自分の手首を掴んでいる娘の手を解こうと必死だ。また、秋香菜は逃げられないよう必死だった。
「はい、座って」
 やっと手を離し、母の座る椅子を引く。だが、春香菜は座らずに溜め息を1つ吐くと、娘をじっと見た。まるでその光景は鏡に映る自分自身を見ているようだった。
「何、その溜め息は?まさか今日のこの瞬間まで放任主義だったんだからこれからもそうしようなんて言わないでね」
 真っ直ぐに見つめ返し、胸を張って堂々と言うと両者の間に沈黙が流れた。
 春香菜は笑った。始めは口だけで笑むだけだったが、どうやら耐えきれなくなったようで口に手を当てる。しかし、少しずつ声が溢れてきた。秋香菜と空の2人はなす術も無くただ様子を見守るしかない。
「私の、負けね」
 耳に掛かっていた髪を軽く払い、引かれた椅子へと腰を下ろした。
「それで?貴女は、この場所に強引に連れてこられた私に何を望むのかしら?」
 挑戦的とも言える口調で未だ尚も笑んでいる春香菜。目線は常に娘を捉えていた。受け止めた秋香菜は、どうも予期していた答えと違うものが返ってきたことに面食らっているようだ。
「た……考えてない。食事中、に考える………」
 予想していた文章を全て消し、辛うじて思いつく言葉を並べて即席の返答を作り出した。
 それだけ言うと自分も母の隣に座り、頬を膨らませていた。
 ピーという電子音が響き、コーヒーが沸いたことを知らせる。空は2人分のカップを取り出し、黒い液体を注ぐと2人の前に置いた。ミルクや砂糖などの不純物は必要無い。


「ごちそうさま」
 秋香菜に遅れること10分でようやく春香菜は食事を終えた。隣の娘はその間ずっと集中していたせいか一言も喋らなかった。いや、食事中もだ。
「お粗末様でした」
 向かいの席に座り、食事を共にしていた空は微笑みながら答えた。空も春香菜の数分前に食べ終わっていた。
「それで、優。一体どういう訳だったの?」
「………」
「まさか、決めてなかったということはありませんよね?」
 空が恐る恐る尋ねる。
「………」
 秋香菜は依然黙ったままだ。
「いいえ、空。この子の場合はよくあるのよ」
 春香菜は空の方へと向き直ってから溜め息混じりに目を伏せた。こめかみに指を押し当て、頭を数回振る。一瞬の沈黙のあと、彼女の笑い声は響き渡った。
「なっはっはっはっは!よーしっ!決めた!決めちゃいました〜♪」
 急に椅子から立ち上がったので、流石の春香菜も驚きを隠せない。空は怪訝そうに顔を歪める。
「ズバリ、これからは3人で特別な用事の無い限りは食事を一緒にとると決めました 〜!今!この瞬間からでーすっ!」
「……優、言ってる意味が率直すぎて――」
「うん、それだけで十分」
 嬉しさを、蛇口を思い切り全開にした時の如く、顔からこぼしつつ秋香菜は更に微笑んだ。だが、その笑顔は数秒で徐々に薄れていく。終いには俯いて、最初と正反対の悲しみの滲み出ている顔。
「……本当はね、ただお母さんと朝ご飯一緒に食べたかっただけなんだ」
「優……」
「でも、理由とか思いつかなくって……。わざと怒ったフリして……ずるいよね。本当に幼稚で……子供みたい」
 悲しさと恥ずかしさが入り混じった表情。彼女らしくない、と空は感じた。
 隣では春香菜がじっと見つめている。
「もっと知りたいから……お母さんのことを。今まで聞かされていたお母さんは『田中ゆきえ』っていう名前の今はいるはずのないお母さんだったから。……だから、これからはお互いに隠し事は無しね。ねぇ、いい?」
 顔を俯かせたままで尋ねる秋香菜。
 一度目元を擦ってから愛娘の頬に手を置き、静かに、ゆっくりと顔を上げるよう促した。顔を上げた時に真っ先に目に入ったのは母の優しい笑顔。
「私もよ。貴女のこともっと知りたいわ」
「お母さん………」
 目を潤ませて声を絞り出す。
「――という訳で、一昨日は何処まで出掛けていたの?」
「え?」
「誤魔化したって無駄よ。貴女が帰ってきた時、ちゃんとピピが吠えて教えてくれたんだから。それに映像も残っているのよ。夕方に家を出て、帰ってきたのは夜中。これはどういうこと?」
 優しい笑顔から一変して、ある意味違った笑顔で問い詰める姿がそこにはあった。
 目元を擦ったのは涙を拭ったのではなかったのか?
「え?……あ、あははははっ………」
 すっかり涙も乾き、とりあえず笑うしかない。
「その日は、確かホクトさんとデートだったんですよね?」
 にこやかな表情の空がさらりと答え、
「そおおぉぉぉぉらあぁぁぁぁぁっ!」
 その発言により顔を真っ赤にしながら秋香菜はキレた。その目つきはまるで犯罪者だ。このまま放っておけば、もしかしたら狂犬に変身するかもしれない。
「へぇ、なるほどね」
 春香菜は明後日の方を向いて頷く。
「な、何よ!?」
「別に、何でもないわ」
 ニヤニヤとあまり良い笑い方ではない。しれっとした態度をとる母にう〜っ、と犬のように唸る娘。平然としていられるところが、歳の差だろうか。
「あー、もう!行ってきますっ!」
 痺れを切らして椅子から慌てて立ち上がると、足音を激しく響かせながらリビングを出ていった。
「あ、秋香菜さん!……せっかくお弁当作ったのに………」
 呼びとめようとして半分ほど立ち上がった空。既に秋香菜が廊下を走り去っていく音(余りにも大きな足音)が遠退いていったので仕方なく再度座った。
「あとで届けてあげればいいじゃない。……ところで、空」
「はい?」
「片付けが終わったら私の部屋へ来てくれる?ちょっと、渡す物があるから」
「渡す物、ですか?」
 首を傾げる空。
「まぁ、そんなものよ」
 
 
 ドズンッ!
 あえて表現するならそんな音だ。
「何ですか、これ?」
 何処からともなく取り出された何十枚も積まれた『それ』を見ている。1枚1枚に上質な厚紙が使われているのは明白だった。問題は何処からこれほどの数が積まれている紙の山が出てきたのか、ということだ。
 もちろん、ソレの正体は空にわかるはずがない。きっと彼女の記憶の中には刻まれてない物だ。
「写真」
 机越しに椅子に座った春香菜は一言呟くと溜め息も漏れた。手には随分と古びたサインペンが握られていて、机上を一定のリズムで叩いていた。
 空は写真という物を当然知っている。
「何の写真ですか?」
「……お見合い」
 視線を逸らし、サインペンで頭をポリポリ掻く。
 1秒と間を置かずに空は顔を真っ赤に染めた。そして、叫ぶ。
「おっ、おおお見合いっ!?」
 どうやら、お見合いという言葉は知っているらしい。しかし、見合い写真という物は知らないのだろう。けれども『写真』と『お見合い』から展開させて、おおよその意味は予想がつくに違いない。
「私の研究仲間がね、どうしてもって」
 空の反応は十分許容範囲内だったようで、春香菜は未だ頭からサインペンを離さない。事実、全く驚いていないのは確かだ。むしろ、面白がっているに違いない。
「こ、困ります。そんなの………」
 俯いて消え入りそうな声を出す。
「世の中にはね、どんなに結婚したくてもできない人がいるのよ。貴女はこれだけ結婚できる機会があるんだから羨ましいくらいね」
「そんなぁ………」
「ふふ、落ち着いて。別に見るだけで良いのよ。見なくてもいいけどね。お見合いをするもしないも空の自由」
 思わず、純情な空に笑う春香菜。
「そうなんですか……。でも、それって失礼なんじゃないですか?」
「あのねぇ、空。貴女は生真面目なの?それとも天然?」
 怪訝そうな顔を向けて問われた空は眉を寄せる。
「あの、意味がよくわからないんですけど………」
「とにかく、写真を見て、気に入った人がいたら私に言って。まずはそれから」
 パソコンの電源を入れ、立ち上がるまで椅子に深く座る。その姿勢は会話の終了を表していた。
「……はい」
 
 
「はぁ………」
 一体これで何度目の溜め息を吐いたでしょう。
 自分でも5回までしか数えていなかったと思います。
ベッドに寝転がっている私の視界はほとんどが天井に支配され、隅には机の上に放置してある綺麗に積まれた写真の山が映っています。なんとなく近寄りがたい空気を放つ『それ』を開いて中の写真を見る――いえ、手に取ることさえ私にはできそうにありません。別に勇気がないという訳ではなく、意志とは逆に身体が拒絶してそうさせるのです。
 今こうして寝転がっているのはどうしていいのかわからなくなった自分を落ち着かせるためでしょう。辛うじて部屋まで運んできた写真の山を置き、ベッドへ倒れこんだのでした。そうしている内に時間はどれほど経ったのでしょうか。
「お見合い………」
 おもむろに言葉に出してみる。
 結婚、と先生は言っていた。
 ……結婚とは何だろう?
 今の私には無縁なもの。
 恋という行動があります。愛という言葉があります。
 結婚は恋と愛の延長線上にあるのでしょうか。それとも恋という道からいくつもの分かれ道があり、その中の1本に結婚という道が拓かれているのでしょうか。
 答えはわかりません。
 でも、……私は恋をしました。1人の男性を愛してしまったのです。
それは、まだ私が肉体を持っていない頃の話。他人が見ることによって存在し、遍在することのできる私の中にプログラムされていない感情が加えられ、次第に大きくなっていきました。その感情が恋。
原因はその彼です。恋をしたことのない私に彼が教えてくれました。
『恋は理屈じゃないんだ。意味を求めるようなことでもない。生きるとは、恋することだ』
 彼はそう言いました。
『人は何故生きているのか?それは、恋をするため』
 今もまだその考えは揺るがずに保たれています。
 生き物はこの世界に存在する理由――存在理由を必ず1つは持っているのです。薔薇は咲くため、カナリアは鳴くために。しかし、それは人から見た彼らの行動を分析した結果であり、尚且つ人の思い込みかも知れません。
 人に彼らの気持ちや思考はわかりません。理解するための術を持ち合わせていないのです。ですから、薔薇やカナリアの本当の存在理由は不明。逆に考えてみれば、彼らには人の気持ちや思考などを理解できません。
 本線から外れますが、世界があります。人には人の世界が、動物には動物の世界が。更に、人や動物、全ての生き物に1人1人の自分の生きる世界があるのです。よって、自分の思考が理解できても他人の思考が把握できることはない事実はこれより立証できると思われます。心を読み取れないのは世界が違うから、と。
 もしできたとしても、人は人の心しか感じ取れないでしょう。でもそれで良いのです。人は動植物の心を理解するより先に、同じ世界に住む同じ人を理解する必要があるのですから。自分の存在している理由を見出し、他人の存在理由として自分を確立させ、大切な人であれば、自らがその人の存在理由となることを望むでしょう。私はそれを望みました。お互いに愛するという存在理由を。愛して、愛されることを。
 私は彼を愛していました。だから、抱きしめてほしい、キスしてほしい、とできるはずのないことを望み、愛するが故に無理にでも彼と2人きりになりたかったのです。もちろん、今も………。
 でも、それは叶わぬ願い。
 私は愛しても彼は―――。


 いつの間にか眠っていたらしい。
 空は目を開けて、時計を見ると11時4分。部屋に射し込む日光の明るさから午前であるのは間違いない。
 秋香菜に渡しそびれた弁当を届けなければならない。何故なら彼女は空の作る弁当をその日のどんなイベントよりも楽しみとしているくらいだ。届けなければならない。
 幸い、今から家を出れば十分に昼食までには向こうに着くだろう。
「……ぅんっ………」
 ベッドから立ち上がり、部屋を出ようとしてドアノブを掴んだが、開けずに再び虚空へと自らの手を引き戻した。
 以前、田中家で暮らし始めたばかりの頃チャイナドレスのままで買い物に出掛けようとして、玄関で偶然春香菜に呼び止められた過去を思い出した。言うまでもなく、間一髪だった。もしも、この格好のままで外に出ていれば夜の世界の住人だと誤解をされかねない。色々な意味で危なかった。
 その日、春香菜は自分の服を何着か空に渡し、外出する時は普段着で行くことを誓約させた。空は『普段着はこれですけど……』とツッコんだが、あの元気な男ではないので当然春香菜は無視した。
 クローゼットの前まで行き、なんてことのないクリーム色のセーターとチェックのロングスカートに着替える。仕上げに無地の深い赤のショールを纏うと、鏡の前で髪を整えて部屋を出た。
 リビングのドアを開けると椅子に座って春香菜がコーヒーを飲んでいた。
「あら、もう全部目を通したの?」
 どうやら休憩中らしい。彼女がリビングで休息するのは、一段落ついた時や全て終わった時だけだ。今回の場合、前者の方が可能性が高い。
「いえ、まだ半分ほどしか………」
 嘘だ。見てない、と言えば春香菜に悪いと思ったからだ。帰ってきたら絶対に見ようと心に決める空だった。
「紙、入ってたでしょ?」
「え?」
「……入ってなかった?そうね、向こうからの手紙とか」
 カップを置いて、訊く。冗談めいた台詞からは考えられない顔をしていた。言葉が笑っているのに、本人が笑ってない。それも全く。
「あ、えっと……まぁ、そうですね。皆さん良い方ばかりで………」
 慌てて空ははぐらかした。自分では焦りを隠しているつもりのようだ。
「……そう」
 肘をテーブルに突き、頬に手を当てる。不思議に思わないはずはなかった。もはや、バレているのは明白と言える。
 1度キッチンへ入ると、前もって弁当と水筒を入れておいた紙袋を手に取り、中身を覗き込んで再確認する。しっかりと弁当と水筒が入っていた。
「それでは、秋香菜さんにお弁当を届けてきますね」
 キッチンを出て、春香菜の横まで歩むと軽く一礼した。
「気を付けてね」
 空が廊下へ出て行き、リビングのドアが1度閉まる。だが、すぐに開いて顔だけ覗かせた。
「あ、先生。お昼どうしますか?」
「大丈夫よ。自分で作るから。空は?」
「私の分も一緒に作ったんです。だから一緒に食べてきますね。では、行ってきますね」
 紙袋を少し持ち上げて、空は微笑む。
「行ってらっしゃい」
 
 
 車窓からの景色。
 異なった速さで見える、近くと遠くの風景。
 近いものは速く。遠いものは遅く。
 まるで時間の流れに差が生じているように思わせる。
 果たして、自分はどっちの時間に流されているのか?
 空は窓から流れる景色を見ていた。
あっという間に過ぎて行く風景が、なんとなく寂しい。車内は平日の昼ということもあって、混んではいない。むしろ空いていた。朝や夕方は通勤や通学などで混むらしい。
 田中家から鳩鳴館女子大学教養学部までは1時間かからない。電車の乗り換えも1回で楽だ。空が大学を訪れるのはこれで2回目になる。前回も同じく弁当を届けにきたのだ。秋香菜は初めて食べる空の弁当に感動し、感激し、感涙した。それ以来、週に1度は弁当を持って行く。もはや、習慣となりつつあった。春香菜はそんな娘の姿を見て、弁当ぐらい自分で作ったらどうかと言う。少しは料理をしろと間接的に伝えているのだが、本人は全く気付かない様子。これには、母親もなす術無し。空はというと、自分の作った弁当を喜んで食べてくれるのならこちらも喜んで作る、とのこと。
 目的の駅に着くと空は下車し、徒歩で大学へと向かう。その途中、道の脇に満開の桜が何本も何本も根付いていた。風によって枝が揺れ、時折花びらが空中を舞う。それは舞踊の如く、花びら1枚1枚に宿る感情や意志が直に伝わってくる感覚を覚えた。
 緩い坂道を登っていくと次第に近づく建物が視界に溢れ、自分が小人になってしまい、他の物全てが巨大に見えてくる。
 そんなことはなかった。空の横を学生が過ぎていく。校門をくぐり、建物の中へと消えていく者、逆に校門から出ていく者。彼女達は皆、空と大して変わらぬ身長だった。どうやら小人になった訳ではないようだ。
 空も建物の中へと入る。馴れていない場所のせいか、体は硬直し、緊張の色を隠せない。キョロキョロと周囲を見回す空。下手をすれば怪しい人に間違えられなくもない。だが、ここは女子大であって空は男ではないのだから、最悪でも現在地すらわからない方向音痴の迷っている女性としか思われないだろう。この場合、人がいないのが幸いか、それとも不幸なのか。
 とりあえず、歩いていれば何処かにいるだろうと決めつけ、今さっき見つけた階段を登っていく。建物自体は4階建てでかなり無駄に広い、と秋香菜から聞いたのを空は思い出した。こんなことなら連絡の1つ、彼女のPDA(携帯情報端末:Personal Digital Assistance)にいれておくべきだったと後悔しながらも、黙々と階段を登り続ける。
 が、何階から探そうかそれさえ考えていなかった。自ずと足取りも重くなり、視線も足元の辺りをさ迷う。階段の踊り場まで辿り着いた――まさにその瞬間だ。
 上る人も下る人も『コの字』に曲がらなければならない階段。カタカナのコで1つだけ短い縦の直線が丁度踊り場とする。そう、このような階段は死角ができやすい。
「うわっ!」「きゃっ!」
 死角から同時に飛び出したお互いは言うまでもなくぶつかった。幸い空は階段を上りきっていたので転落することはなく、踊り場で転んだ。
 バサァッと数十枚のB5サイズのプリントが1枚1枚、舞った。そして、床に乾いた音と共に広がる。無意識の内に離してしまった弁当の入っている紙袋は、幸運にも引っ繰り返らずにそのまま床をスライドして壁に軽く当たっただけで済んだ。
「すいません、大丈夫ですか?」
 若い男の声だった。若い、といっても20歳は過ぎているだろう。明らかに、大人と判別のできる声。体重差により空は軽く飛ばされ、したたかに腰を打っていた。
「ええ。そちらこ―――」
 顔を上げて返事をしようとし、途中で目を疑った。目線の先には当然、男の姿がある。
男も踊り場に座り込んでいた。長袖の白いシャツをズボンの外に出している。学生ではないのは明らかだ。ここは女子大なのだから。それよりも驚くべき事は、目の前の男が見覚えのある人物だったからだ。
「くっ、くら――!」
 叫ぼうとした口を自ら押さえた。落ち着きを取り戻したのだ。
「え?どうかしましたか?」
 人を疑うような表情ではなく、幼い子供に話しかけるように男は優しく尋ねながら頭をポリポリと掻く。
「い、いえ」
 良い言葉が浮かばなかった空は、微笑んでみた。僅かに頬が引きつっていたのは焦りからのものなのか。男は地面に落ちていた黒いフレームの眼鏡を拾い上げると、目が一瞬だけ見開いた。ようやく視点が定まったらしい。
「……あの」
「何ですか?」
 目を何度も擦りながらおずおずと切り出す男の表情は言いにくそうな、何やら迷っているように窺える。
「あー、いえ、その……綺麗な足ですね」
 急に視線が床の方へと落ちたのを見て、思わず空も視線を落とした。
 視線の先には、スカートが膝上まで捲れ、すらりとした白い美脚が露になっていた。
「え?きゃっ!」
 普段の調子を取り戻したのも束の間、短い悲鳴を上げてスカートを元に戻す。やっぱり、といった顔で男は外方を向く。同時に失敗した自分自身を苛んでいた。
「みみみ、見えました?」
 高鳴る胸の鼓動を感じながら顔を真っ赤にして空が訊く。それに男は躊躇いも無く、一言短く言った。
「いいえ。残念ながら」
 苦笑いするが、耐えられなくなりすぐに微笑みに変わってしまう。本当に残念がっているのかどうかは謎だが、その笑顔の裏に舌打ちする姿を想像するのはどうも難しい。少なくとも笑顔は本物に見えた。
 それにしても、そっくりだった。眼鏡を取ってしまえば『彼』だと見間違えてしまうだろう。口調や雰囲気だけが全く異なっているが、何も喋らなければ判別はつかないくらいに男と『彼』は似過ぎているのだ。
 すると男は腰を屈めて、床に散らばった無数のプリントを素早く拾い集めていく。その姿は、子供の散らかした玩具を片付ける父親を想像させた。
「すいません、手伝います」
 何だか申し訳ない気がして、空も膝を突き、裏返っている紙に手を伸ばした。自分が紙に辿り着くよりも早く、男の手が滑り込んだ。今更止められなくなった手が男の手と重なる。
「あ………」「あ………」
 同時に顔を上げてお互いに見合わせると、同時に声を出してしまった。
 男の手は温かく、空は自分の手が冷たいのだと悟った。軽く力を篭めるだけで折れてしまいそうな細い指で体温を感じ取る。その行為が熱を奪っているみたいで快く思えず、すぐに手を離した。
 知らず知らずの内に胸が高鳴っていた。顔も紅潮している。
「本当に、すいませんでした」
 素早く立ち上がって、体が2つに折れてしまうのではないかと思うほど深く礼をする。紙袋を手に取り、プリントを踏まないように気を付けながら階段を駆け上がった。
「ちょ―――」
 男が声を掛けようとするが、既に小さくなった後ろ姿しか見えなかったため、言葉を切る。誰も下りてこない階段に向かって、男が呟く。
「空………」
 
 
「ハァッ、ハァ……ハァ………」
 息を切らした私は、立ち止まって呼吸を整えようと必死でした。汗で服が濡れて貼り付き、背中には気持ちの悪い感触が伝わってきます。額にも軽く汗を掻いていました。
 この汗の原因は、何?
冷や汗?脂汗?
 ……わかりません。
 動揺していたのでしょうか?
 ……わかりません。
 あの男性が『彼』に似ていたから?
 それは動揺していたと認めた時と仮定した場合にだけ肯定できます。
 少ししか走っていないのに、どうしてこんなに胸が苦しいんでしょうか?
 そういえば、走る前から息苦しさを感じていた気がします。手と手が重なってしまった瞬間から。その前、他にもあります……スカートのせいでしょうか。どちらにしても、今もまだ鼓動は高鳴り続け、苦しみから解放されていません。
 もしかして、これは
「あれ〜、空。どうしたの?」
 前方から聞き慣れた明るい声が響いてきました。秋香菜さんです。
 ああ、やっと見つけた……。
 彼女は手をブンブン振り、駆け足で近寄ってきます。
「え?ど、どうしたの!?」
 私が息を切らしていることに驚き、心配そうに顔を覗き込んでくれました。
「ちょっと、走ったので………」
「そんなに急ぐ用事があったの?」
 顔に貼りつけられた心配はまだ剥がれていません。
「お弁当、忘れていったでしょう?」
 紙袋を強調するように上げると、彼女の顔が凍りつきました。
「あ………」
 表情と声の高低や掠れ具合から瞬時に私は吐き出された1文字から感じ取ります。『今朝持っていくのを忘れた』というよりも『お弁当の存在すら忘れていた』というような顔です。
「……もしかして、忘れてました?」
 お弁当のことすら………。
「ごごご、ゴメンっ!」
「す、すいません………」
 秋香菜さんは頭を下げました。物凄い勢いで。
 続いて土下座でもしてしまうのではないでしょうか。謝る態度が予想していたよりもあまりに下手に出ていたので、反射的に私自身が謝ってしまいました。……変ですね。
「何で空が謝るの?」
 不思議な顔をする秋香菜さん。
「……そうですね」
 照れ隠しに、口元に手を持っていくと私は笑いました。そうなると釣られて彼女も笑うしかありません。
「それで、お弁当なんだけどね………」
「お昼ご飯をもう食べてしまった、と。そうですか?」
 弾かれたように驚く彼女。
「正解!スゴイよ、空っ!」
 別に褒められることではありませんよ……。想像できる範囲内での出来事です。
「でも、ごめんね。あ、今日の夕飯はそれでいいよ」
「駄目です。痛んでしまいますよ」
 眉根を寄せて困りながら言い聞かせようとします。
「大丈夫だって。食べ物が痛がる訳ないでしょ?」
「……そういう問題ではありません」
 早口で言って私は、振り返った。
 背後から階段を駆け上がってくる気配を感じて、です。
「良かった……。まだ、いたんですね」
 気配の正体は、先刻の男性でした。
 息を切らして、肩を激しく上下させる。先程までの『彼』を見ているような不思議な感覚が身体に流れ、彼が向ける眼差しを真っ向から受けます。プリントの山はもう持っていませんでした。
「貴方は先刻の………」
「あ、先生」
 発言を遮る形となって秋香菜さんが呟いた。小さな声でありましたが、彼の小さな呼吸音しか聞こえなかったので十分に耳に届きました。
「先生?」
「空さん、ちょっといいですか?」
 秋香菜さんが頷くと同時に、彼が喋る。表情は先刻と変わって、微笑んでいた。
「どうして私の名前を?」
 確かに彼に名乗った覚えがありません。
 質問に対しての質問に、彼の表情が一瞬だけ曇った気がします。しかし、
「貴女と……話がしたいんですよ」
 次に口を開いた時に飛んできた言葉は、優しい調子の心の奥底からの気持ち。真っ直ぐな気持ちが『彼』を思い出させ、記憶が連なって爽やかな笑顔を浮かべる『彼』が脳裏に現れたのです。
「答えになってません」
 目の前の彼が『彼』と多重し、私は目眩を覚えました。
「その質問にはあとで答えます。ところで、僕の質問の答えはどうなんでしょう?」
 
 
 2人は大学の敷地内のほぼ中央に位置する場所。そこには天然芝の丸い小さな広場があり、コンクリートの道が芝生の円を外から囲む。
 今のところ会話は皆無だ。
 廊下からこの場所に歩いてくるまでに2人の間で交わされた会話は、1つも無かった。
 周辺には桜の木が植えられていて、どれも美しい花を咲かせていた。風が吹くと花びらが舞い、幻想的な雰囲気を漂わせる。
「そういえば、まだ貴方の名前を伺ってませんでしたよね?」
 沈黙を破ったのは空だった。2人は並行して歩いている。
「そうですか?」
「ええ」
 首を巡らせる。思いもしなかった発言に彼の声は僅かに上擦っていた。
「そうだなぁ……うん、じゃあこういうのはどうでしょう」
 1人頷く彼に、聞き返す間もなく再び言葉が続けられる。
「空さんの好きな名前で読んで下さい」
「え?」
「何でも良いですよ。五右衛門でも権兵衛でも」
 笑顔で軽々と言ってしまった。言葉には躊躇いが全く感じられない。
「どうして教えてくれないんですか?」
 躊躇いを隠しているのではないかと空は思った。正直、ふざけているのかとさえ感じられる言動。
 それとも、全てを受け入れてしまう優しさがあるというのだろうか。
「さぁ、どうしてでしょう」
 問い掛けではなく、自分でもわからないといった顔で肩を軽く竦めた。雲のように掴み所のない人だ。
 深く考える様子もなく、気軽に答える。
「そうですね……。私は貴方の名前がわかりません。これより、見た目から察するに20歳を超えているようなので、青年です。よって、青年さん」
 青年さんでどうでしょうかと提案でははなく、断定的に言った。
「……マジですか?」
 表情が凍りついている。ちょっとは軽はずみだったと後悔するには良い機会だ。
「はい」
「そ、そんな代名詞みたいなものじゃなくて、人の名前にしましょうよ」
 苦笑いが顔に浮かび上がらせると、青年さんは頭を掻いた。
「じゃあ、王子様で」
「……不可です。日本語わかりますよね?というか、僕の声は聞こえていますか?」
「それは酷いですよ」
 頬を膨らませ、王子様から視線を逸らした。
「す、すいません。でも――」
「でも、じゃありません。大体、貴方が本名を名乗らないことに原因があるんですよ」
「……そうですね」
 風が優しく吹き抜けた。2人を通過していく風は、お互いの髪と服を揺らす。空は風になびく髪を押さえ、視線を彼に戻す。彼の視線は空へと向いていた。お互いの目と目が見えない直線で繋がっている。
「では、『武』さんというのは?」
 前を向いて空が重々しく口を開いた。彼の目を見ながらこの名を言うことはできるはずがない。だから前に続く整備された道に目を移してから言ったのだ。
 空は『彼』を下の名で呼んだことは今までに1度だってない。ましてや、容姿が似ているというだけの理由で目の前の彼を『武』と呼びたくなかった……はずなのに、提案している。外見から人の意見を簡単に聞いてしまいそうな彼の本質を見破ったのではない。ただ、頼まれると断れないタイプであるだろうと勝手に推測していた。
 これは願望なのだろうか?空は自分に問う。
「タケシですか……。どんな字を書くんです?」
 前を向いて歩くこと集中している空を見て、彼もまた前を見た。
「あ、いえ偶然思いついたので………」
 答えはまだ出ていなかった。
「……そうですか。僕は構いませんよ。その名前で」
 道の脇に何処にでもあるような木造のシンプルなデザインのベンチが見え、丁度その前に来ると、
「座りましょうか」
 タケシは勧めた。空は無言で頷く。
 2人は低くなった視点から周囲の風景を見た。そこはまるで別世界。視界そのものが低く、下がっただけなのに同じものが別のものに見える。視点とはそういうものだ。
「ところで、今空さんが口にした偶然とは何だと思います?」
 前置きもなくタケシは問い掛けた。関係のない質問であるのは言うまでもない。
「偶然、ですか?」
 横に座る彼に向かって首だけ巡らせる。子供の無邪気な笑顔がすぐ横で輝いていた。
「そう、偶然です。特に因果関係もない予期していなかったことが起こるというもの」
「たまたまとか、そういった行き着いた状況の結果を表わす言葉ではないでしょうか?」
「はい、間違いではありません。他に、可能性を示すこともあります。では、可能性の場合を簡単に説明してみましょう」
 視線を青空に移した彼は、足を組んで膝に互い違いに指を組んだ両手を載せた。それがシャーロックホームズに比べれば格段ノーマルな考える時の独自の体勢らしい。だが、ホームズの物思いにふける姿勢と比べればどんな姿勢もノーマルに見えてしまうだろう。
「偶然は必然という言葉がこの世に無ければ存在しなかった。2つは対を成す関係というよりも、近いものにあたります。その理由として必然は偶然から生まれ、偶然は必然から生まれる。必然があって、偶然が成り立つ。だから偶然が確率となるのです。もっともこの世には『完全』という事物やありとあらゆる存在がありませんので、必然も必然では無くなりますがね」
 空は話が終わるのを見計らって微笑んだ。その笑顔によって、タケシは自分の世界から現実に引き戻され、空に顔を向けて苦笑いを浮かべる。
「っと、すいません。関係の無い話をしてしまったようで」
 伸びた髪。後頭部辺りをポリポリと掻いた。
「いえ、興味深かったですよ」
「お世辞でも嬉しいです」
「そんな……。お世辞なんかじゃありません」
 再び青空へと視線を戻すタケシ。
「僕は子供の頃から深く考えを廻らせることが好きでした。1つのことにどれだけの言葉を繋ぎ合わせることができるかな、って」
 眼鏡を外せば、『彼』の横顔が現れるだろう。そして、爽やかな笑顔を見せてくれるに違いない。1つの疑問が頭の隅に浮かんだ。
 本当に……彼は『彼』ではないのだろうか?
「じゃあ、1つ聞いていいですか?」
 空は試してみることにした。タケシの深い考えがどれほどのものなのか知ってみたかったし、どのような考えを抱くのか聞かせてほしかった。
「どうぞ」
 一呼吸置いてから風が止み、静かであるのを確認してゆっくりと吐き出した。
「恋とは何でしょう?」
 気付かない内に空は表情を硬くしていた。他人からは読み取れない緊張。それにタケシは今目線を完全に外している。耳だけを傾けて、空を捉えていた。
「恋、ですか………難しいですね」
 膝に載せていた両手の指を1度解いて、再び組み直す。
 空は言った直後、後悔した。タケシが『彼』のはずがない……と。しかし、彼女は確かめるのに最適な質問をしている。10年以上も前に、あの深い場所――LeMU内にある彼女の大好きなカルセル・デルフィーネの上で『彼』へと向けた質問と1字も違わぬ全く同じもの。知っているのなら同じ答えをするはず。
 矛盾している。心と自分の行動が正反対だ。知っている訳がない。
流れていく沈黙。空にとってそれは気持ちの良いものではない。
「恋。それは―――」
 タケシが口を開いた瞬間、不思議な音が自ら発している言葉を遮った。
 言い表すならば『ぐぅうううっ』だ。
「あ」
 2人は思わず顔を見合わせた。
「……すいません」
 苦笑いを浮かべながら謝るタケシ。空は……笑っていた。必死に笑いを堪えようと試みているように見える。肩を小刻みに震わせ、天使はまだ笑っている。
「そんなに、おかしいですか?」
 口元に当てていた手を下ろして、
「すいません」
 と一言だけ謝り、顔を見合わせると2人は同時に笑い出した。
 空は自分の横に置いてあった紙袋に手を突っ込んだ。
「どうぞ」
 紙袋から取り出したのは、ラップに包まれたおにぎりだった。秋香菜のために作ってきたのだから当然(?)普通のおにぎりではない。海苔と米の消費量が半端ではないのだ。空の顔よりも大きなそれは、巨大な存在よりも人の手によって作られた物であるかどうかすら疑わしい。まぁ、言わずとも空が作ったのは明白なのだが。
「い、良いんですか?」
 どう見ても紙袋の底面より大きなおにぎり。タヌキ型ロボットから不思議なポケットを盗んできて、4次元の技術を紙袋に応用したのでは?
大きさに戸惑いながらも食べようと試みる姿勢が見られる。声は震えていたが、受け取る際に差し出された手は震えていなかった。
「本当は田中さんに作ってきたんですけど、彼女どうやら昼食を済ませてしまったらしくて……。夕食に食べると言っていたんですが痛んでしまいますし」
「そういうことですか。じゃあ、遠慮なく頂きましょう」
 ラップを剥がし、米の山の頂に噛み付いた。
余談だが、おにぎりにはありとあらゆる物が入っている。タケシが食べたところには玉子焼きの半分が残っている。半分は口の中に消えた訳だ。ちなみに、この米の山は何処から噛み付いたとしても必ず何かが口内に入る。
「ありがとうございます」
 
 
「ご馳走様でした」
 タケシは満足そうな顔で両手を合わせた。
 丸められたラップとおかずが詰められていた弁当箱(既に空)が横に置いてある。底面ギリギリの大きさだった。
「はい、お粗末様です」
 同じく満足そうな表情の空が、自分も箸を置いた。
「美味しかったですよ」
「ありがとうございます」
 彼の笑顔と眼鏡の奥で細められた目。空は頬を僅かに紅潮させる。
「おっと、もうこんな時間か………」
 腕時計を見て、タケシは呟いた。
「あの………」
「はい、何ですか?」
「確か、私の質問には答えてなかったですよね?」
「え?」
 自分の言葉を思い出したタケシはハッとする。忘れていたらしい。
「どうして、貴方は私を知っているんですか?」
 忘れていたことに腹を立てる様子もなく、空はできるだけ穏やかに話し掛ける。
「ああ、それは……僕がLeMUに行ったことがあるからですよ」
 途中、もったいぶるように言葉を切ったがそれは躊躇いだった。
 LeMU――海中51メートルに眠る海洋テーマパーク。そこで2017年と2034年に事件が起きた。それはまだ空がRSDだった頃の話。
「僕が訪れたのは2017年の事件が起こる前、完成したばかりのLeMUの中で会った貴女は白いチャイナドレスに身を包み、まるで天使のようで、天国にいるような気持ちを与えてくれた。その時のことを覚えていたから」
 空を見上げながらうわ言のように語るタケシ。悲しさが目に宿り、しばらくして目を閉じた。見逃さなかった。
「そうですか……。覚えてくれて頂き、ありがとうございます」
「でも、空さん。……貴女はRSDだったはずだ」
 依然として無数の雲が浮かぶ空へ向けたままの目が、五感の一部としてではなく――要するに現在ではなく過去を見せているのか――閉じたままだった。
「………」
「どうやって肉体を?」
 過去から帰還し、瞼を押し上げたタケシが口を開いて一番に出した言葉は疑問。理解の範疇を超えた考えることのできないありえない事実に対する問いだ。
「それが……私自身よくわからないんです」
 先刻歩いてきた道に目を向けて、俯きながら小さな声で返答する空は、正直そのことに触れたくない。願うことなら奇跡という一言で全てを済ませたかった。
「そうですか……。深くは追求しません。だって、人間の茜ヶ崎空に会えたんだからそれだけで僕は良いですよ。手作りのお弁当も食べられた訳ですし」
 タケシは笑った。偽りでない笑顔。彼に裏などあるはずない。
「じゃあ、そろそろ私は帰りますね」
 立ち上がり、紙袋を手に取ると来た道を引き返そうとした。そう、彼ともこれでお別れだ。もう会うこともないだろう。……また弁当を届けにくれば会うこともあるだろうが。
 しかし、彼女から「また会えますか?」とは言えない。言えば………。
「さよなら」
 一言で十分だった。微笑んで礼をすることはない。
一歩だけ足を進めた瞬間だ。
「空さん」
 立ち上がったタケシが呼び止めた。空は振り返る。
「あの……僕は料理が下手なんです」
 照れ隠しにタケシは自分の頭を掻いた。視線も何処か定まっていない。不必要にさ迷い、決心がつかない様子だ。
 彼の口から出てくるだろう次の言葉を推測し、心の中で空は叫んでいた。ダメ、と。心が拒絶している。
「だから、また美味しいお弁当を食べさせて頂けませんか?」
 視線が定まり、真剣な顔で空を見る。もう頭を掻いてはいなかった。
 風が吹いた。2人の桜と髪と服を揺らして、通り過ぎていく。同時に草木の香りが空間に漂い、彩るが如く風に身を任せた花弁がその中を舞う。
 通り過ぎたのを確認して、空の口から出た言葉は少しだけ掠れていた。
「はい、良いですよ」
 顔は嬉しそうに微笑んでいた気がする
 
 
 空は自室にいた。時刻は午後7時46分。
 何をする様子もなく、電気も点けてない部屋のベッドの上で仰向けになり天井を眺めているだけ。無表情で機械的にも思える行動。この場合では、ただ1つの限られた行動を実行するところが、だ。
 頭の中では夕食を終えたばかりの田中家のリビングにおいての3人の雑談を思い出していた。そんなに時間も経過していないので記憶は鮮明であった。

「そうそう、空。そういえば先生と何話してたの?」
 他愛のない会話の頃合いを見計らって打ち切った秋香菜が、瞬時に話題を変えた。直前までの会話の記憶が全て削除されたように彼女の頭は切り替わっていた。それはリモコンのスイッチさながらだ。
「先生?」
 食後のコーヒーを飲んでいた春香菜がカップから口を離して訊く。
「ああ、そっか。お母さんは知らないよね。最近になって大学に来た助教授の人なんだけど、それがさぁ、若くて結構カッコ良いんだよ〜。だから、人気も高くてさ〜」
 キッチンで洗い物をしていた空は、タケシが助教授であることを知らなかった。学生でないのはわかっていたが、まさか関係者とは思わなかった。だが、外部の人間だとも思えなかった。
「へぇ……」
 相槌を打った春香菜は、空を見た。秋香菜も視線がそちらへ流れる。
「な、何ですか……?」
 それに気付くと、慌てて尋ねた。2人は笑っている。といっても、2人の笑いはそれぞれ違った。春香菜は軽く微笑む程度であったが、秋香菜はニヤニヤといやらしい笑み。
「べっつに〜。何でもないですよ〜」
「………」
 沈黙して皿を洗う空。
「それで、先生とはどこまでいったの?」
 秋香菜の問いに思わず皿を落としそうになった。
「そっ、そんなんじゃありませんっ!」
 顔を赤くして、空が答える。それは2人が望んでいた初々しい反応だった。
「私は……ただ、倉成さんに似ていたからお話してみただけなんです………」
「倉成?」
「優、その先生は似てるの?」
 すぐに春香菜が訊いた。首を傾げる秋香菜。
「う〜ん、どうだかなぁ?私は先生の方がカッコ良いと思うけど。それに、言葉遣いも性格も正反対に近いし。似てないと思うよ」
「……そう」
 心の中に秘めて考えていた疑問に対して、まるで何かがその一言によって結論が出たことを示しているように思えた。結論を導き出し、思考に終止符を打った。
「そんなことありません!本当に、似てたんです!」
「わ、わかったって。そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない………」
 秋香菜は戸惑いを隠せずに、ただ驚く。
 普段から大人しい彼女が急に怒鳴った。それに驚いたのは、春香菜も同じだった。ただ、顔に出さなかっただけだ。
「すいません………」
 知らない内に声を荒げていた空は、やっと自分を取り戻して謝った。
 水道の蛇口を時計回りに閉め、水の流れが完全に止まった。
「お風呂は沸かしておきましたので、沸いたら入って頂いて結構ですから。お2人が入り終わりましたら声を掛けて下さい。私は部屋にいますので」
 無理矢理微笑むとリビングを後にした。

 ドアのノックが記憶の中より私を現実へと引き戻しました。
「空?お風呂空いたわよ」
 先生の声。
「……はい」
 返事のタイミングが1秒遅れました。秒針の刻む1歩が、現実世界の感覚に身を包み込むのに要した時間。
「ちょっと、いい?」
 ドアが開くと廊下の電球の光が暗闇に射し込んできます。
 静かにドアを開けた彼女はバスローブ姿で手にはバスタオルを抱え、髪は濡れており、潤いを宿している。彼女が部屋の中へ1歩1歩、足を踏み込む度に甘い匂いが部屋の中に流れ込み、私は上半身を起こし、ベッドの縁に腰掛けました。
「引き戻すようで悪いんだけど………」
 先生は私の前に立ち塞がりますが、行く手を阻んでいる訳ではありません。
彼女は一言言っておかなければならないのです。頭が良いからきっと気付いたんでしょう。
「あの倉成に似た助教授さんのこと」
「………」
 無言で床を見ている私。答える気がしませんでした。口を開けば思っている言葉と同時に何かが溢れ出しそうで。
「貴女、その人が好きなの?」
「……すいません」
 謝った。当然、見合い写真のこと。結局帰ってきても1枚も見ていません。
「別に怒っているんじゃないわ。ただ、そうだとしたら言っておかなければならないことがあるの」
 優しい先生は言葉を頭の中で整理しているに違いありません。私に伝えるために。
「貴女は、まだ倉成が好きなの?……それとも助教授さんが好きなの?」
「………」
「倉成の方はわかってる……彼にはもう愛するべき人がいる。だから、倉成に似ている助教授さんを―――」
「やめてくださいっ!」
 両耳に手を当てて、大声で叫んでいました。
 それは、わかっている。わかっているんです!
「私にもわからないんです!」
 けれど、わからない。
「……先生、これは恋なんですかっ!?私は彼に恋をしているんですか?倉成さんよりも彼を強く想っている?愛している?……わかりません!でもやっぱり倉成さんが好きで……けど、小町さんがいるから――だから、どんなことをしても愛せないから、彼を倉成さんの代わりとして愛しているのでしょうか?だとしたら、私は酷いことをしているのですよね?先生、そうですよね!?」
 私は立ち上がって、先生のバスローブを掴み、叫び続けます。
 両目から1筋ずつ、涙が流れていました。音もなく、止まることもなく、ただひたすら溢れ、床へと落ちていく雫。同時に、感情が、全ての気持ちが流れ出ていきます。
 ……全てが流れたら最後には何が残るのですか?

 パンドラの箱。
 ゼウスがパンドラに与え、人間界に持たせてよこしたのは、あらゆる災いが封じ込められていたと伝えられている箱。これを開いたため不幸が飛び出したが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという。
 
 なら、ずっと開けっ放しで永遠に蓋を閉めなければ、希望は残らなかった?私の涙が溢れ出す不幸だとしたら蓋は一体何でしょうか?そして、このまま何も残らない。
「空………」
 掴んだまま、膝から力が抜けて体が支えられなくなり、床に膝から落ちました。先生に縋る私は、無意識に手に白くなるほど力を込めて泣き続けました。嗚咽が部屋中に響き渡っています。
「わからないんですよぉ………!教えて下さい………」
天使は、泣いていた………。
 

歪むはずのない笑顔

歪み、流れる愛

それは東と西のどちらへ向かう道標?

何もわからない

わからない





 あとがき(前編ver)

ショージです。
前編はこれで終了となります。
読破ありがとうございます。
〜From Now Onward〜に続くクリア後の『203X年シリーズ』です(今命名しました)。
シリアスすぎてホイホイと読めるようなものではありません。(きっぱり)根気強い方でないと途中放棄してしまうでしょう。おそらく。
それにしても空の喋り方って堅苦しい……。心の中でも口調は同じなんだろうかと迷いましたが『口調が変われば人が変わってしまう』というのは、Ever17を1通り(空編だけでも可)プレイした方ならゲーム中でもその光景をきっと御覧頂けただろうと思います。
……ちなみに僕自身はその時、何も考えられませんでした。
それよりも……ヤバイです。空を泣かせてしまいました。それ以前に、始まって15行目から脱衣させてるし……。多分、悪い事ばかりしています。それに後編の最初のシーンも、ね。

ここで1つ。
先生(タケシ)が倉成武に似ているのか、と春香菜が尋ねた場面がありますが、秋香菜は「似ていない」と答えます。しかし、秋香菜の頭の中の『倉成武』とは『2034年の倉成武』であり、『桑古木涼権』のことです。
実際、タケシは武に瓜二つという設定になっています。相違点は眼鏡だけ。
よって、空の言う『倉成武』と秋香菜の言う『倉成武』は違う人物像だったため、この時彼女は「似ていない」と答えたのです。2034年のその頃は、本物の倉成武は冬眠中だったのですから。
明らかに『倉成武』と『桑古木涼権』は別人です。いくらなんでも一卵性双生児か、整形でもしない限り、流石に顔までは一緒にできませんから。もしも、整形までしたなら17年後の計画はそこまで桑古木を苦しめたことになります。
まぁ、武は尊敬する人物だったから整形してでも(ココを)助けるためなら構わないなんて思ったかもしれません。そうなると、ある意味、凄いというか危険です。

それでは、後編で再び会いましょう。
ではでは〜♪



2002



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