〜Where is Heaven?〜
                              ショージ

後編  ~The true interlude~



偶然の運命に奏でられた前奏曲から続く間奏曲
 一筋の道を辿り
天使は終幕へと導かれる
己が隠した真実を見つけ出すだろう
 目の前には煙。
「…………」
 いいえ、煙ではなく湯気。
 湯気は天井を目指してひたすら立ち上り続けています。
 消えていく自分を知らないで……その姿は一心不乱、もしくは身の程知らず、とでも言い表せるのでしょうか。
 先を知らない彼らに、先を知る頭脳が備えつけられている訳はありません。けれど、私達が知らないだけであって、本当は意志が存在している――なんてこともるかもしれません。何故なら、私達人間は湯気のことなんて日常生活の中において1分以上も考える機会が無いのですから。よって、知らないだけなのかもしれません。所詮、人は人のことしか知る必要が無い、という結論。
 浴槽の中で組んでいた足を解くと伸ばして、縁に載せていた頭を起こし、体を少しだけ沈め、口を水中に入れました。プクプクと吐き出した気泡が浮かび上がり、水面に達すると次々に割れていきます。泳いでいた長い髪の毛をそっと捕まえて、両脇へと退けると水面に波紋が広がって行きました。
「……ぷはっ」
 吸い込んでいた酸素を限界まで吐き切ると口を水中から引き上げました。
 呼吸を繰り返し、息を整えてから浴槽を出ます。
 髪の毛からポタポタと落ちていく水滴と体を伝って床を目指す水滴。
 髪から直接地面を目指す前者。後者は、額・鼻・頬・顎から流れ落ち、胸・肩・腕へと受け止められ、腹部を通って太股・脹脛を通過していき、足へと……最後には必ず床へと辿り着くのです。世界中のこの世に生を受けた生物が、死という終着駅へと向かっていくように……そう、全てが帰結するために。
「……あ」
 大きな鏡に生まれたままの姿の私が映っています。
 映っている私は泣いていました。嗚咽を漏らしながら涙を流して、顔をクシャクシャに歪めている。
 どうして泣いているの?
 私は答えてくれません。私も先刻泣いていました。
 泣く。
どうして人は泣くのでしょうか?
私の考えは、こうです。
 まず1つ目は、悲しさを表に表わすため。
 泣くとは涙を流す、という意味です。悲しさや切なさから自然と連動して、涙が溢れるのは自分の意思とは無関係ですが、また意図的に泣くこともできる人もいます。しかし、とりあえず『意図的に泣ける人』の場合は少し横に置いておき、まずは、表に表わすことの理由を考えてみましょう。
 表――人に見せて何をするのでしょうか?
 そうだと仮定して考えられるのは、何かを訴えているということです。外見から心の中を晒していて、自分はこんなにも不幸なんだ、と。泣くという行動をとれば、人は泣いている人を自然と見るでしょう。
 要するに人を引き付け、同時に心を惹き付ける行動。
 さて、置いておいた『意図的に泣ける人』は、人を惹き付けることを狙い、意識して涙を流しているのでしょう。他にも理由はありそうです。
 もう1つ。2つ目は、涙と一緒に辛い出来事や過去の思い出、それに記憶などを外へと流して、忘れようとするため。
 別に私の個人的な思い込みです。理由も何もありません。ただ……そう感じたから。
 しかし、忘れようとするだけで忘れることは不可能です。
 思い出や記憶は元々頭の中に強く刻みつけられています。記憶の方は思い出に勝り、より鮮明さを長い間保っているのです。まるで……冷凍マグロのように。氷漬けにされて、一層長い年月を保存されて生きていく魚生は、少しずつ解凍されて食べられてしまう。
 記憶は冷凍マグロ。思い出は生マグロ。
 一方は固く、また一方は柔らかい感触の残った物。それが記憶と思い出の違いでしょう。
厳しさと優しさ。
 
 
 ドアノブをゆっくり回し、ドアを押し開く。
「ふぅ………」
 壁のスイッチを押し、電気を点ける。部屋中が光に満ちた。いつもならどんな時でも言うはずの掛け声を今は言わなかった。そんな気分じゃない、と無表情が語っていた。
 ドアを閉めて、空は巻いていたバスタオルを自然な動作で落とす。今、彼女を包み隠すものは何も無い。
 春香菜は言っていた。
『貴女、その人が好きなの?』
 その言葉がナイフとなって胸に突き刺さり、依然として深く、貫通さえしていないが心の奥底までを貫き続けている。ナイフを抜いてしまえば、傷から何かが噴き出してしまいそうで怖かった。傷跡は深く残るだろう。だが、逆流だけは逃れたい。
 彼女の言葉が冷たく思えた。しかし、いつかは自分で問わなければならないのだ。早い内に気付かせてもらって正解だった。やはり、彼女は頭が良い。
 傷が自身を中心に激痛を体中に走らせる。苦しかった。答えは、まだ見つかっていない。
 寝間着に着替え終わった空はベッドに潜り込み、浅い眠りに身を任せる。
 
 
 会いたかった。
「こんにちは」
 廊下歩いていた彼を見つけるや否や、後ろ姿に声を掛けていました。
「あ、空さん。お久し振りです」
 振り返り、片手を上げて笑顔で答えてくれた彼は、私の元へと小走りにやって来ます。
 その姿を『彼』と錯覚してしまう私。
「お昼、もうお済みですか?」
 呼び掛けた時に悟られないよう、立ち止まって紙袋を後ろに隠しています。子供のように、ただ純粋に彼を驚かせようとして。それが無理だとわかっていても思わずやってしまうのです。
「いいえ。まだですけど」
 私が次に何と言いたいのか彼にはわかったようで、微かに笑んでいました。浅はかな子供の思考を見透かした大人のように。決してその純粋な心に傷を負わせないように。笑みの中に期待が混じっているのならどんなに喜ばしいことでしょう。
「お弁当、いかがですか?」
 堪え切れなくなった気持ちを紙袋と共に差し出しました。きっと、顔は無邪気な子供の表情だったに違いありません。
「喜んでいただきます」
 受け取ると、
「外に行きませんか?」
 促す彼。
「行きましょう」
 来た道を引き返し、階段を下りていきます。
「田中さんのは良いんですか?」
「大丈夫ですよ。もう専用のお弁当を届けましたから」
「あの巨大なおにぎりですか?」
 おにぎりを思い出しながら踊り場を曲がり、彼は尋ねました。きっと秋香菜さんが食べているところを想像しているのでしょう。
「いえ、いつもおにぎりじゃ、つまらないと言われて。だから今日は巨大なサンドイッチにしました。でもこの袋じゃ入らないんですよ」
「え……っと、そのサンドイッチってどうやって作るんですか?」
ポンポンと紙袋を軽く叩く私におずおずと尋ねました。やっぱり、気になるんでしょうか?簡単なんですけど………。
足が1階の床に辿り着いたところで説明を始めました。
「えっと、食パンをまず1斤買ってきて………」
「1斤っ!?」
「普通は、こうパン1枚が正方形になるように切りますよね。だけどこれを真横に長〜く切るんですよ。真っ二つに横長く2枚に切り分けて、様々な中身を挟みます。以上ですけど、質問ありましたらどうぞ」
 要するに直方体が2つ出きる訳です。間にレタス、キュウリ、ハム、トマト、更にソーセージ、ゆで卵、ツナ、卵焼き、唐揚げ、タコさんウインナー、梅干し、昆布、のりたま、ハンバーグ、エビフライ、コロッケ、メンチ、ハムカツ、スパゲッティ、焼きソバ、焼肉、キムチ、お好み焼き、もんじゃ、すき焼き、マグロのタツタ揚げ、仕上げにマヨネーズと和風ドレッシングを。他にもまだまだ語り尽くせないほどの食材が入っていますが、それは置いておきましょう。
「どうやって食べるんですか……?」
 呆気にとられ、その一言を口にするのがやっとのようです。深くツッコミたい気持ちは良くわかります。
「そのまま、でしょうか?」
 首を傾げて想像すると、巨大サンドイッチを頬張る秋香菜さんが容易に思い浮かんだので考えられない光景ではありませんでした。
「凄いですね……。もしかしてその紙袋の中にも巨大なサンドイッチが入ってるんですか?」
 紙袋に視線を移しました。目には隠しきれない心配が映っています。流石に四次元ナントカではないですから………。
「ふふっ、違いますよ。サンドイッチですけど巨大ではありません。この間、食べ終わった後苦しそうでしたから今回は普通にしました」
「そうですか……。あ、別に無理していたわけではないんですけど」
 溜め息を短く吐き、すぐにそれを訂正しました。私は笑いながら尋ねます。
「今安心してませんでしたか?」
「まぁ……ちょっとだけ」
 苦笑いをして、頭を掻く彼が何だか微笑ましくて堪りませんでした。
 
 
「今日は、私が質問したいんですけどよろしいですか?」
 この前と同じベンチに腰掛けた2人は、春の暖かな陽気の中に包まれていた。
 空が口の中のものを飲み下し、手に持っていた残りのサンドイッチを下ろす。
「どうぞ」
 巨大ではないと言われていたサンドイッチだったが、基準が異なるらしく確かに断面が正方形ではあるものの、厚かった。立方体に近い。タケシはもう用意された分を何とかして食べ終え、几帳面にラップを畳んでいる。
 言葉を慎重に選びながら話す空とは正反対にタケシの方はカウンターの如く、返答した。別に悪びれた様子もなく、視線を移す。
「私をLeMUで見たんですよね?もし、よろしければその時のお話をして頂けませんか?」
 笑い掛けながら和やかな雰囲気で会話を進行しようとした空は、タケシの顔が一瞬だけ緊張する――些細な変化を見逃してしまった。
「どうして、です?」
 引きつった声が耳に届いた時、やっと様子がおかしいことに気付く。
「こんなことを言うのは失礼かもしれませんけど、……私は貴方を全く覚えていないんです。貴方は私を知っているのに、私が貴方を知らないのでは失礼だと思いますし、もしかしたら何か覚えているかもしれません」
 気付いたことを悟らせないよう、普段通りの口調で話そうと必死だった。
「………」
「どうかしましたか?」
 目を固く閉ざしたタケシに隠しきれなくなった不安を差し出す。もはや隠しても無駄だというのは明白。自分の言葉で引き出されたことならこれ以上悪化する前に、自分がどうにかしなければと、空は思っていた。
 風が吹いた。時折吹く強風。
「―――なら」
 地下深くから絞り出された声が掻き消される。目を開いた。
「え?」
「空さんなら、話してもいいかな………」
 折角、畳んだラップを少しずつ握り潰す。クシャクシャと軽い音が、まるで場の空気の緊迫感を表わしているようだった。空は息を呑んだ。
「僕が空さんと初めて出会ったのは――2006年。まだLeMUが開業する前の話です」
 LeMUがオープンしたのは2007年4月。その時はまだ試験段階時であり、当時の記憶は全く無かった。道理で知らないはずだと内心で安堵した。
「田中陽一先生をご存知ですか?」
「もちろんです」
 話し始めてから過去を辿る彼の顔は寂しさを宿していた。それが徐々に増しつつある。
「僕の両親は田中先生と知り合いでした。LeMUの開発スタッフの一員だったんですよ。そして、空さん。両親は貴女の開発にも携わっていました」
「私の………」
 タケシは顔を空に向けて、軽く頷く。確認の意味かどうかはわからない。
「貴女が実用されたのは2011年4月2日。実際、随分前に完成していたんですけど実用段階までもっていくのにかなりの年月を要した訳です」
 一呼吸、間を空けて過去を回顧する。だが、無い。
「2006年、僕は15歳でした。今思えば……初恋だったのかもしれません」
「え?」
 唐突に向けられた言葉には意外な言葉が混じっていた。この話題には不適切だと思えるくらい、意外だった。思考よりも早く、空は彼の顔を凝視した。
「まだまだ子供だった僕は、貴女に恋をしたんです。こんなにも綺麗な人がこの世界にいたなんて思ってもみなかったですから」
 しかし、視線に対して全く気付かないようで話を進める。
「そ、そんなこと……」
 頬が赤く染まっていくのを自覚した。1点に流していた視線を外し、俯く。
「当時は少しでも多くのデータを必要としていたので、人との接し方について教えるためにテストという名目を濫用して偽り、2人でLeMUの中を歩き回ったり、話し合ったりしました。その度に貴女は優しく笑ってくれて、それが何よりも嬉しかった。だからもっと喜ばせたいと思うくらいでしたよ」
 小学校の時の同級生が偶然出会って、幼い日の頃を語り合う。そんな光景が連想できる言い方だった。古い過去を掘り返すタケシ。その表情には僅かながら陰りが見えた。
「こうして何回も何回もLeMUを訪れました。でも、2011年2月のある日、感染してしまったんです」
「何にですか?」
 問い掛ける前に推測はしていた。LeMUでの感染といえば、思い出の中に眠るのは2つしか思いつかない。
「T.B(Tief Blau)」
「ティーフブラウ……!」
 推測は当たっていた。いや、外れるはずがない。
「その日、偶然ウイルスが漏洩して職員達は何十人か死にました。けど、この事実はライプリヒ製薬によって隠蔽されたんです」
 淡々と話し続けるタケシ。普段の優しい笑顔の欠片さえ見当たらない。
「待って下さい!」
 空が急に叫んだ。
「なんです?」
「その前に答えて下さい。貴方は2006年で15歳だったと言いましたよね?だったら、どうして今、こうして若々しい姿なんですか?」
 2006年で15歳。2011年で20歳。そして、この年の2月にT.Bに感染。
 もしそれが事実ならば―――だとすれば、今は…………。
 空気が止まった。無が広がり、有は流されている。再び風が流れ出し、有はやってくる。
「キュレイ、というウイルスを知ってますか?」
 聞いた途端、身体が1回小さく震え、頭が殴られた直後のように脳も揺れた。その方法があったと自覚させられる。
「感染した者は体中の細胞が全て入れ替わったあと、歳をとらないという力を持つウイルスです」
 知っていた。
「T.Bに感染した僕はキュレイウイルスから作られた抗体を注射されたんです。……父親によって、ね」
「え………」
「お陰で僕は一命を取り留めました。そして、5年の歳月が過ぎ、不老不死の体を手に入れた。望んでもいない身体を」
 両膝の間で指を互い違いに組み合わせ、瞳は足元を泳いでいる。その指には微力だが力が入っていた。心の中に埋もれていた何かが、指に集められていく。
「不老不死の体という最高の実験体となった僕をライプリヒが見逃すはずがなかった」
 空は反応に困っていた。何に対してどういった言葉を返していいのかわからなかった。それでも一応、頭の中を廻るがどれも相応しくないと決めつけてしまう。
「確か、少し前に新聞でもそのように取り上げていたと思いますけど………」
 摘出した曖昧な記憶として仮面を被せる。
「そうです。実際は10年以上も昔から続けられていたんです。今はもう実験体となっていた人達は開放されています。いえ、彼らにとっては『やっと』でしょう。でも、僕はもっと前に解放されていました。同年代くらいの青年が『生きたいんだったら、生きている限り生きろ』と言って逃がしてくれたんです」
 力が解放されていく様子が肉眼で捉えられた。ゆっくりと力みが抜けていく。
「そうですか。それは―――」
「でも!……僕は父親を許さない」
 突然、叫んだ。遮られた言葉が空中を漂う中、その続きが喉の奥へと引っ込んだ。
「何年も部屋に閉じ込められて、実験の繰り返し。生きているというよりも生かされていると言うのが相応しい。わかりますか?ライプリヒの職員は、キャリアを実験用のマウスとしか考えていないんですよ。……だから、死ぬよりも辛い選択を勝手に選んだ父親が憎くて仕方がなかった」
 深い。憎しみが心の底から泡のように浮かび上がる。水面にはポコポコと連続して到達した無数の気泡が顔を出した直後に割れていった。だが、憎しみの気泡は巨大で中々割れる様子はない。
「お母様は?」
「僕と同じ日、T.Bに感染して死にました」
 あっさりとした言葉。それは切り捨てられた過去を再び拾って、また捨てるといった動作を思い浮かばせる。まるで台詞を棒読みした三流役者。いや、それ以下だ。
 タケシの組まれた両手にそっと手を重ねた。冷たい彼の手に体温を奪われる――否、空が自ら与えているのだ。
「……すいません」
 優しい風に乗った桜の花弁が色鮮やかに舞い落ちる中で彼はそこでやっと顔を上げ、空の微笑みを真っ直ぐに見た。直後、彼の表情は和らいだ気がする。
「いえ、言うのが遅れてしまったこちらが悪いんですよ。お気になさらず」
 すっかり馴染んだ笑顔が蘇った。不思議なくらいに懐かしく、けれど記憶の中には存在しない。なら、どうして懐かしいと感じたのか。
「死んだ方が良かったと何度も何度も考えました。でも……空さんに会えたから」
「……え?」
「初恋の女性と再会できるなんて、まさに運命の巡り合わせだと思いませんか?」
 ゆっくりと手を引き戻す。
「そうですね………」
 
 
「空、ところで話って何?」
 場所はリビング。椅子に座った秋香菜が思い出したように尋ねた。もちろん空に、だ。彼女はキッチンに入って、せっせと作業に勤しんでいた。
 春香菜は外出している。どうやら桑古木に呼ばれたらしい。

部屋で丁度、空がコーヒーを運んできた時だ。
作業中の春香菜の机の上に置いてあるPDA(携帯情報端末:Personal Digital Assistance)が鳴った。シンプルな着信音が響き渡る。空はビクッと驚くが、カップは既に置いてあったので零さずに済んだ。自然と視線がそれに集中した。
だが春香菜は平然と手を伸ばし、PDAを取り、通話ボタンを押す。
「はい、もしもし。涼?一体どうしたの……え?へぇ、そうなの……ふふっ、良かったじゃない。………今から?……特に何も………いいけど……場所は?……うん、わかった。じゃあ、何時に……って、あれ?ちょっと、涼?涼!?」
 電話の主は桑古木涼権。春香菜のパートナーとなり、2034年、LeMUにおいて事件を起こした青年だ。
「全く……少しは落ち着きなさいって………。こういうところまで似せなくても良かったんだけどなぁ」
 PDAを元の位置に戻して、ポリポリと頭をサインペンで掻き、溜め息を吐く。
「何です?」
 空が横から訊いてみた。
「よくわからないのよ。『すぐ来てくれ!』って」
「あ、先生もデートですか?」
 口元に手を当て、微笑む。
「……それ以上言ったら怒るわよ」
 やはり、狂犬の親も狂犬だった。隠されていた本性を今確かに垣間見た気がする。一瞬だったため、錯覚だったという可能性も全否定はできない。それは置いといて、
「すいません……」
 とりあえず謝った。体が2つに折れてしまうほどに。
 再び溜め息。
「彼はね、私なんかそういった対象として見ていないわよ。彼には1人しか見えてないの」
「先生?」
 椅子から立ち上がり、背中を見せる。眼鏡を取り、白衣の胸ポケットに入れる動作が窺えた。背中には僅かな衝撃によって今にも溢れ出しそうな寂しさが宿っていた。
「結局、私は見てもらってなかった。誰にも、ね」
 
という訳だ。そのため、家の中は2人だけ。
「あっ!わかった〜♪先生のことでしょ?」
 的中。鋭い。
「色々と聞きたいことがあるんでしょ?一応、私の知ってることなら全部教えてあげても良いよ?あ、でも昨日までの長い長い経過を全部洗い浚い吐いてもらうけど。まぁ交換条件ってやつで―――」
 カタッと秋香菜の前に巨大な皿を置く。当然何かがそれには載っている訳で、
「っ!!!?」
 絶句するほどの反応から察するにとんでもないものだというのは十分に理解できるだろう。
「『floating island(フローティング・アイランド)』。夢とロマン仕立てです」
 正体は何層にも重なったクレープ。間には生クリームがたっぷりと挟まれていて、高さは15センチほど。頂上にはココアパウダーと抹茶が振られており、大地を連想させる黒と緑のコンストラストが美しい。仕上げとして、粉々に砕かれた数種類の板チョコ(ミルク・ホワイト・イチゴ・抹茶)を散らしてあった。
 だが、異常な点が1つ。それは巨大だということ。直径が約50センチある。秋香菜のためだけの特別メニューであるのは言うまでもない。
「この前、おいしいって言って頂いた『浮島』です。彩りを加えてみました」
 某ファーストフード店で「スマイルください」とふざけた客(主に小中学生)に言われた時、嫌な顔ひとつせずに笑い返す店員のように微笑んだ。これが全国の客商売から欲しがられる笑顔だろうか。それとも欲せられているのは精神か。
 そんなことは全く気にも留めず、にゅっ!という奇怪な音と共に二刀流のスキルを発動し、ナイフとフォークを取り出す。
「いっただきま―――」
 皿の上に全神経を集中させ、ターゲットをロックオンするとナイフの入射場所と角度、更にフォークの持つ位置を的確に定め、ただ獣の如く猛然と襲い掛かった。
しかし、次の瞬間に『浮島』は空中に浮かび上がる。
「質問に答えてもらえますよね?」
「ぶぅー、ひどいよ空ってばあ!ちょーだいよぉ〜」
 駄々っ子と化した秋香菜は両手を皿に向かって伸ばし、バタバタと振る。
「約束して下さい。質問に答える、と」
 素早い動きで皿を掴み上げた空は微笑んでいたが、それには不似合いな強い口調で言い放つ。有無を言わせぬ力が恐怖するほど秘められていた。
「わ、わかったよぉ………」
 逃げ道を失った犯人が両手を上げるように、降参した。このまま本当の浮島を眺めているのは生き地獄を味わっているのと同じだからだ。
 浮島をテーブルの上へと下降させ、『待て』をかけられた彼女の前に差し出し、ゆっくりと向かいの椅子に腰掛けた。自然と顔は真剣そのものへと変わっていた。
「単刀直入に訊きます。秋香菜さんはホクトさんと、その……お付き合いなさっているんですよね?」
「ぶっ!……んなっ、何言い出すのよ!?」
 危うく口の中のモノを物凄い速さで吐き出しそうになったが、寸でのところで止めることに成功。危うく空は危険に晒されるところだったが、当の本人は気づいていない様子だ。
「だ、大丈夫ですか?」
 引き起こされる事態を予期していなかったらしく、困惑の広がりが大きい。
「大丈夫なわけあるかーっ!!」
 すいませんと一言言い、すぐに席を立ち、急いでキッチンへと戻っていった。コーヒーを淹れてくれるらしい。
「……で、どうしてそんなわかりきっていること訊くの?」
 しばらくして落ち着くとナイフとフォークを持ち直し、少しずつ食べながら空の背中に向かって尋ねてみる。声に反応して、動きが止まった。身体が凍りついたように動かない。しかし、それは一瞬であり、人間としての動きを取り戻した。
「ということは、ホクトさんのことが好きなんですよね?」
 今朝も使った秋香菜のマイカップを食器乾燥機から取り出そうとしているが、カップが下の方にあるため、中々順調にいかない。上の物を慎重に1枚1枚退けていた。
「えっ、まぁそりゃあ……ね」
 曖昧な返事。期待していた解答ではなかったので、正直空は彼女の性格に似合わない返答に戸惑っていた。
 ようやくカップを救出し、電源を入れたコーヒーメーカーの横に置くとテーブルに戻っていく。
「2人は愛し合っているんですよね?」
「ちょっと待った」
 秋香菜は会話を一時静止させた。ビデオを静止させるよりも困難であり、空間に広がるまでに要した時間はテレビへと伝達するよりも遥かに遅い。しかし一瞬だった。
「一体、どうしたの?今日の空、なんだか変」
 ゆっくりと絵本を語り聞かせる母のように言った。優しい彼女の姿を見る度、空は自分が迷惑をかけているのだと思ってしまう。自分は頼られるためにいるのだと思っているからだ。RSDではない今の自身が人間だと思い込めていない、甘えるということを知らない人間。人を支える立場にいると思っているせいで支えられる時に異常なほど自らに対しての嫌悪感を抱く。情けない、と。
 だから、今回も前例に従って早々と話を切り上げることに決定した。
「そうですね……変かもしれません。では全部肯定したとして、質問を続けます。これが最後の質問です」
 微かに笑みを浮かべ、秋香菜を見つめる。当然だが普段のような笑顔ではない。
「では、ホクトさんのどこを好きになったんですか?どうして好きなんですか?」
 ホクトとは倉成武の息子である。そう、彼には将来を誓い合った相手がいるのだ。質問と同時に空は自問していた。『ホクト』というところを『倉成武』に変換して。
 完全に混乱していた。自分はどちらが好きなのか、と。だから理由を見つけようとした。何処かに眠る答え――理由から結論を導き出そうとして、秋香菜に尋ねたのだ。
「『自分の中にある答えという真実は時間が経つうちに、自然と問題という言葉や闇という虚偽の中に隠れ、隠され、また自ら隠してしまっている。だが、どの答えにしても見つけ出すのは己にしか不可能だ』」
「え?」
 目を閉じた秋香菜が唐突に喋り始めたため、空は驚いた。
「昨日お母さんの部屋で偶然開いたページに書いてあった言葉。著者は確か、橘ナントカだった気がする」
 相変わらず、困惑してハテナマークを4つも空中に泳がせている空を見て、秋香菜は口元だけで笑った。その笑い顔は春香菜に似ていた。
「今度はこっちから質問するね。そうだな〜、……じゃあ空はどうして生きているの?」
「それは………」
 答えられるはずがなかった。永遠の問題である。
 そもそもどうして人が存在し、地球が存在し、宇宙が存在するのか?
疑問で埋め尽くされる世界。誰もこの答えを知らない。歴史など当てにならない。書物など偽りの文であるかもしれない。科学などでは言い表すことのできないものがある。『ここ』が何故在るのかという疑問だ。
唯一、知っている人がいたとしたらその人は神だ。例外として考えるのならば、えらく長生きをしている爺さんか婆さんだろう。
「わからないでしょ?」
 頷く空。
「答えなんて、理由なんて必要ないよ。あとからだって見つけられるし、必ず何処かに隠れているものだから。私も告白されてからそう考えたんだ」
 思い出を掘り返すと彼女なりの考えが底にあった。きっと長い時間をかけて出したのだろう。その為か、強い何かを感じた。
「………秋香菜さん」
 空は、
「はい?」
 微笑んだ。
「ありがとうございました」
「いえいえ」
 
 
 沈黙だ。
 そればかりが流れ続けていた。
「ドォーン♪」
「うわっ!またやられた」
 綺麗に片付いている部屋の膝ほどまでの高さがある机。その机を両側から挟む向かい合った黒いソファーに座って、卓上では激しい戦いが繰り広げられていた。場所は大学のタケシの部屋。今日は日曜日だが彼は毎日、正月やお盆も含めて大学に来ている。
「大丈夫ですよ。もう次はわかりませんから」
 目の前にはトランプが不規則に並べられ、全てが裏返しになっている。一般的にこのトランプを用いるゲームを神経衰弱と呼ぶ。だが、不思議なもので呼び方は地方によってそれぞれ違うものがあるらしい。タケシは『神経衰弱』と言っていたが、空は『ピロピロピンポンドォーン』と言った。空曰く、『めくりんちょ』という名もあるらしい。
「本当はわかってるんじゃないですか?」
 ニコニコと笑っている自分を見て不満気に呟く意外な彼の一面に、空は口元に手をやりながら笑う。
「そんなことないですよ。第一、面白くないじゃないですか」
「そうですけど………」
 納得しかけていたタケシは後頭部を掻く。だが、そこで否定するような接続助詞を付け加えたのが拙かった。
「あ、もしかして私は嘘を平気で言うズルイ女だと思っているんですね?ひどいっ!」
「お、思ってませんよ!そんな人じゃないのは十分理解しています!」
 演技のかかった声で言ったにも拘らず、タケシの慌てぶりは尋常でなかった。両手を突き出してぶんぶんと振るというアクションは見せなかったものの、えらく力の入った声で否定してくれる。なんとなく、嬉しかった。
「冗談ですよ。ごめんなさい、本気にするなんて思ってなかったんです」
 眉根を僅かに寄せて、微笑みを浮かべた空は言った。
「え、……冗談?」
 2文字を聞いた途端、糸の切れた操り人形ように全身の力が抜けた。ソファーに沈み込む。顔を手で覆った。
「どうも、いけないな………」
 おもむろに呟く。
「すいません」
「いえ、違いますよ。いけないのは僕の方です」
 手を剥がし、空に向かってどうぞと手で促した。まだ空の番は続いているのだ。頷くといった肯定の意を示すことなく、トランプの1枚を捲った。
「どうしてですか?」
 視線はトランプに向けたままで問う。
 ダイヤの4が姿を現し、1枚だけが集団の中で孤立していた。まるで仲間外れ。
「人を疑うことに慣れてなくて………。大体、人はどうして他人に優しくすると思いますか?」
 もう1枚、ペアになるはずのカードを捲るがクラブの2だった。2枚の表になったカードを元に戻す。
「『どうして』とは間違いだと思います。自分から優しく試みる行動が優しさではなく、他人のために行った行為が結果的に優しさとなるのではないでしょうか?自分で決め付けるのは不成立の優しさであって、他人に認められることにより初めて自分の優しさとしての行為が成立するのではないでしょうか?」
 自分の番になり、隅の方にあるカードを捲りながら納得する。ダイヤの2だ。
「なるほど。でも人によって考え方は違いますよ。何かの利益を得るために優しくする人はごまんといますからね。まぁ、それは置いといて……。とりあえず僕が聞きたいのは優しさの成立ではなく、どうして優しくするのかですよ。理由です」
 タケシはつい先程姿を見せたクラブの2へと手を持っていき、空に見せた。やはりクラブの2。ペアになった2枚を自分の隣に置いた。これで3ペアになるが、空は既に7ペアだった。
「利益を得るためというのも確かに当てはまります。けど、あまり考えたくありません」
「そうですか………。僕の答えは簡単。裏切られないため、ですよ」
 空は虚を衝かれてうろたえた。タケシの目は虚ろで、ただ広げられたトランプだけを見つめていた。
「人として裏切りという行為が最も人を傷つける。だから裏切られないように優しく接するんですよ」
「そんなの、うわべだけの愛と一緒じゃないですか」
 口調を僅かに荒げて言う。許せなかったのだ。しかし、言った後に気付いた。
「優しさは愛じゃありませんよ。そんなに大層なものじゃない。誰にだって振り撒くことができる感情です」
 氷のように冷ややかな返事。断言する口調は過去の出来事からきているのだろう。父親に与えられた必要の無い不死身の体が、彼の心を傷つけ、今もまだ傷跡を残している。癒されるはずなどなく、進みゆく時がより深みを増していく傾向にすらあった。時が経過すれば不死身という自分を再確認せざるを得ないのだから。
「人を過信してしまうんですよ。だから裏切られた時が、辛い」
 空は口を挟む隙が無かった。入り込めない。
「僕は全ての人に優しく接してきた。今思い返せば、全部が偽りの優しさだったようなきがしてなりません。先刻言っていた優しさは他人に認められて初めて成立する、ですけど偽りの優しさでも認められれば、成立してしまいます。行為を実行した本人が否認しない限り」
 信じていた父に裏切られた彼。
 そこでタケシは顔を上げる。虚ろだった目には生気が戻っていた。
「空さん、貴女は僕を裏切りませんよね?」
 真っ直ぐに向けられる視線。金縛りにあったみたいに体がピクリとも動かず、言葉が出てこなかった。目を逸らすこともできなかった。それはまるで避けられない運命のように。
「貴女に裏切られなければ、この世の全てに裏切られたって構わない」
「…………」
 タケシはカードへと視線を落とした。眼差しは真剣。
「約束、覚えてますよね?」
「え―――?」
「このゲームの約束ですよ。勝った方が負けた方に何でも言うことを1つだけ聞かせることができるって約束だったでしょう?」
 裏返しになったトランプの中、ほぼ中央に位置する1枚に手を伸ばす。
「大丈夫ですよ。しっかりと覚えてます」
 返事を耳で捉えながらタケシは再びカードを表に戻す。カードの本来の姿が表かどうかはわからない。そもそも、絵柄のある方が表なのかさえ知らない。
 スペードのキング。
「もしも、僕が勝ったら―――」
 1度手を膝まで引き戻し、視線を泳がせながら呟き始める。その発言は耳に辛うじて届く程度だったが、空はしっかりと聞き取れた。別に聴覚が優れているということではない。頭の何処かで彼の発言を予想していた。それがぴったりと一致し、鮮明に聞き取れたと思い込んだ。
 タケシは笑った。
「――いえ、まだ勝つと決まったわけじゃありませんね。終わるまでに考えておきますよ」
 そう言いながら捲ったカードはハートのキングだった。
 
 
 空は曇っていました。太陽が雲の隙間から輝いていましたが、厚い雲が明るさをあまり感じさせてくれません。
桜はもう終わりを迎えていました。まだ花を咲かせている木は点々とありますがほとんどは既に散り、緑の葉を見せ始めています。また落ちた花弁も鮮やかに道を彩っていました。
 私は足早に道を歩き、それを後ろから追いかけてくる彼。目もくれず、スタスタと歩き続けます。
「まだ怒ってるんですか?」
 困り果てた彼が、少々呆れた口振りで訊いてきました。
「そんなことありません!」
 未だに苛立ちを抑えられていない私はついつい声を大きくしてしまい、余計に彼を疲れさせてしまうのです。
「やっぱり怒ってる………」
「だから怒ってなんていませんよ」
 やっと落ち着いた口調を取り戻し、感覚も戻りつつあります。この調子を保っていけば普段の自分に戻るのはそう時間のかかることではないでしょう。
「何度も言いますけど、僕は透視能力なんてありませんよ」
 溜め息が聞こえました。
「何度もって、まだ4回目です」
 視界に見慣れたベンチが映り、辿り着くと座って息を整えます。肩が上下させて呼吸を繰り返し、徐々に落ち着いてところで不意に肩が叩かれました。
「はい?」
 叩く人なんて1人しかいないのに………。
「む………?」
 プニッとな。
けれど既に時遅く、振り向いてしまった私の頬には何かが突立てられました。
「あ、引っ掛かりましたね?」
 微笑む彼。予想的中です。
「古い手ですね………」
 頬に突き立てられたのは1本の人差し指でした。
「それは引っ掛かった人が言う台詞じゃないですよ」
 丁度背後、肩に手だけを置き、中腰の姿勢で笑いながら言いました。いつもの大人の笑顔です。走ったのか、息が弾んでいました。
「はぁ〜、疲れましたよ。ホント」
 回り込んで隣に腰掛けると笑顔を崩さないまま、話し掛けてくる彼は息を吐き、何とか呼吸を整えているようです。
「空さんが来てくれるとその日が充実しますね」
 それは皮肉なのでしょうか?すこしだけムッときましたが、良い意味として捉えておきましょう。
「そんなことないですよ」
 謙遜のつもりで私は答えました。
「毎日、貴女がいてくれたら良いのに………」
「え?」
「ピロピロピンポンドォーン、僕が勝ちましたよね?」
 トランプの総数はジョーカーを除いて52枚。26ペアあります。スコアは15ペア対11ペアで彼の勝ちでした。
「……はい」
 彼は眼鏡を取り、シャツの胸ポケットへ畳んで仕舞い込むと真剣な眼差しで私を見据えました。顔が『彼』にそっくりなのは言うまでもありません。
「ずっと僕の側にいて欲しい。いや、いてください」
 いつかは言われるだろうと思っていたその言葉が耳の中に響いた時、私は妙に落ち着いていられました。別に自惚れてなんていません。期待してもいませんでした。
「そんな………」
 俯き、返す言葉を考えます。
「何でも、でしょう?」
「物事には常識というのがあるじゃないですか。それを超えています」
 私は何とか反論できました。
「そうですね。じゃあ、取り消します」
 安堵した私は考えが甘かったようです。
「先刻の約束とか、何もなしで。空さん――いや、空、これからずっといくれませんか?」
 俯いている私の顔が少しずつ、顎に当てられた彼の手によって持ち上げられていきます。真剣な表情で話す時よりもその顔が近くに寄っていました。澄んだ双眸。その中に思わず呑み込まれそうになり、意識を取り留めようと必死でした。一瞬でも気を許してしまえばどうなるかわかりません。
「あ…………」
 流石にその行動には心臓が激しく鼓動を打ち、私は目を合わせることが不可能な状態に陥ります。思考能力が低下し、言葉を返すことも儘ならなくなりました。
 顎にあったはずの手はいつの間にか頬へと移動し、温もりが伝わってきます。温かいその手を払う気にはなれませんでした。それよりも指1本動かせないのです。
 彼の顔が更に近付いてきます。目を細め、距離をゼロにするために。
 唇は震えていました。歯はカチカチと音を奏でています。
 意識が遠くなっていく。ハッキリとしていた感覚が失せていき、瞼が段々と重くなっていく。
 怖い。
怖い?何故、恐怖するのだろう………。それに理由を追及している?愛しているのなら受け入れるはずの行為を。彼を求めてはいない?じゃあ、私は…………。
 脳裏に、『彼』の爽やかな笑顔が浮かび上がった。
 彼は―――『彼』じゃない!
「っ!」
 パシンという軽くて鋭い音の後に彼は顔をしかめた。
 覚醒して、平手打ちを頬に打ち付けていました。赤くなった肌が生々しく、自分の行為を肯定しています。事実として受け止めなければなりません。
「やめて………やめてください!」
 そう、私は………。
 腰を持ち上げ、駆け出します。彼の方を1度も振り返らずに走り続けました。
「空っ!」
 叫びに近い大声が届きましたが、構わず走り続けます。まるで脱兎の如く。
「待ってる!僕は………ずっとここで待ってる!だから――――」
 距離が広がると声は次第に尻窄まりのように小さくなっていきます。最後は聞き取れなくなりました。でも何かを伝えようとしています。
「――――――っ!」
 
 
「本当によく降るわね………」
「え?」
 空は訊き返す。
「雨よ」
 春香菜は窓から見える外の様子を指差して、そう告げた。
「そうですね。昨日のうちに洗濯物を済ませておいて正解でした」
 珍しく天気予報が外れ、晴れるはずの今日は生憎の土砂降りの雨だった。
 2時間前から降り続いているこの雨。正確に言うと月曜日の朝7時から降っている。
「空………。何かあったの?顔色があまり優れないようだけど」
 ディスプレイから視線を外し、空の顔を見ていた。
「そうですか?特に何もありませんけど」
 微笑んだ。もちろん、無理矢理。
 胸の奥に何かが引っ掛かっている。思い当たるのは当然昨日のこと以外にあるはずがない。
「秋香菜さん大丈夫でしょうか………」
 彼女は今日傘を持って行かなかった。途中で苦労するだろう。
「大丈夫だと思うけど」
 素っ気無く返事する春香菜。相変わらず部屋にはキーボードを叩く音が響き渡っている。だが、時々途切れ空白が生じる。彼女も娘のことは色々言うが心配なのだ。
「私、行きましょうか?」
「あ、助教授さんにお弁当持っていくの?じゃ、優のことついでにお願いするわね」
 タイミングを逃すことなく言う。キーボードの音はもう途中で止まなかった。
「……はい」
 
 
 気になった。そして、あの言葉が引っ掛かっているものの正体だ。
『ずっとここで待ってる!』
 
 
……いた。何度も座って話したあの場所。
 体中が雨に濡れ、服は体に張り付いている。両膝の間に祈るように組んだ手があり、その上にうな垂れている頭が載っていた。
 近づくと彼は隣に1人分だけ座れるスペースを空けているのがハッキリと見え、無意識のうちに空は差していた傘と秋香菜の傘までも落としていた。雨は体を蝕むように濡らしていく。気が付いた時には駆け出していた。
「どうして………?」
 1メートルとない2人の距離。例え、土砂降りの雨の中でも空の発した言葉は確実に耳へと届いたはずだ。タケシは顔を上げた。表情が驚きへと変わる。
「……空?」
 出てきた言葉も辛うじて言葉になったという感じだ。
「とにかく、こちらへ」
 引き上げ、立たせる。手を引いて雨宿りできる場所を探しているとタケシは逆に空の手を引いた。彼の方がここの地理には詳しいに決まっている。手に僅かな力を入れて握っているタケシは引っ張るように彼女を導く。
「来ないんじゃないかって、思ってました」
 握る手とは裏腹に声は弱々しく、頼りないものだった。
「そのつもりでした。それに私は秋香菜さんに傘を届けに来ただけです」
 先刻まで持っていた2本の傘を拾い上げ、雨を完全に遮断できる1号棟と2号棟を繋ぐ通路まで辿り着き、安堵の息を吐く。
 雨は激しい音を響かせて上から下へと地面に叩きつけられていた。音は止まない。タケシの頬には柔らかいふわっとした布が当てられた。
 空はハンカチを取り出して、タケシの顔を流れる水滴を拭き始める。拭かれている間、何も会話が無いのは辛いと思い口を開きかけた。
「一体、いつからあんなところにいたんですか?」
 しかし、空の方が1歩踏み出すのが早かったようだ。質問に答えることに専念する。
「ずっとですよ。言ったじゃないですか。ずっと……待ってるって」
「………」
「それより、どうして自分から拭かないんですか?」
「さぁ、どうしてでしょうか」
 質問に答えず、手も休めず、首を傾げるだけ。
「これが優しさですか?」
 唐突に気が付いた彼は尋ねた。言葉は自問するものでもあった。
「本当の優しさというものは、見返りを期待しない自然と出てくる行為なんですよ。自発的に何もしようとしなくても勝手に溢れ出て来るもの」
 
 
 僕はこんなことをする人間じゃなかった。
 でも……彼女のためなら何でもできた。雨に降られても、風を引いたとしても。それに、裏切られるのはもう嫌だ。
 一目惚れだった。まだ子供だった頃に出会った女性が再び現れた。あの時の姿のままで。
有り得ない現実と理想であった夢が重なり、心の中に欲望が芽生える。欲望なんて誰にだってあるが、僕の中のものはそんな比じゃなかった。
人生において彼女以外の女性を好きになったことは一度もない。周りの人が魅力的ではなかったと言えば嘘になる。ただ彼女を超える美しい人はいなかったのだ。初恋の女性が手に届かないことを含めて、高過ぎた。愛することが許されなかった立場と同時に愛することのできない人であったため、あっさりと終わってしまった初恋。それが今になってもう一度恵まれた好機として再び現れたのだから、どんなことをしても彼女を………。
「……そうですか」
 納得しながら僕は目が覚めたような不思議な感覚に襲われた。眩暈がいて思わずよろめく。踏み止まると、やっと手を止めた空が心配そうに話し掛けてくる。
「大丈夫ですか?」
 空の髪は雨に濡れ、潤っている。今日は4月にしては驚くほど暖かかったせいか彼女の服装は薄いシャツだった。だから雨で下着が透けていたがあえて見ていない振りをした。
「ちょっと、クラクラする……かな」
 額にひんやりとした柔らかい肉感が現れ、意識が少し戻ってきた気がする。空の手だ。
「熱があるみたいですね………」
 鼻腔に優しい良い匂いが侵入してきた。熱なのか匂いなのか原因はわからないが視界が揺れている。膝に込めている力が緩んできた。このままだと意識を失ってしまう。失ったら最後、もう一生空には会えないと思った。
 思い出した。僕は大切なことを忘れていた。
「保健室とかは何処にありますか?」
 どうでもいいよ、そんなこと………。
 僕は空を抱き締めた。
「っ!」
 この間は受け入れてもらえなかった約束。
「ピロピロピンポンドォーンの約束、使いますよ。少しだけ……このままでいさせてください………お願いします」
 またぶたれるかと思った。それでも構わない。嫌われたっていい。どんな目で見られようとも………。だって、僕は
「空が―――好きなんだ。誰よりも愛している」
 腰に回した手をきつく自分の方に押し付ける。顔の横に彼女の顔があるはずだ。どんな表情をしているのだろう?きっと見損なっているに違いない。
 呼吸をする度に鼻からも空気を取り入れる。香りを鼻一杯に吸い込んだ。キスしたかった。
「愛してる」
 もう一度その言葉を放った。
「……………」
 空は何も言わずに手はだらりと垂れ、抱擁を返してくれなかった。その時点で既に彼女の意思を問うまでもない。
 空を解放した。顔を見たくなくて、後ろを向き誰も通らない通路の先を見据える。濡れたシャツが気持ち悪い。
 愛しているのあとからずっと長い時間、沈黙が流れている。喋る言葉が見つからない。押していけばいいのか引けばいいのか判断がつかなくなっている。本当に風邪を引いたらしい。
「何か、喋ってくださいよ………」
 沈黙に耐え切れなくなって促した。
「私は……、貴方に恋などしてなかった。貴方を彼と重ねていただけ」
 悲しくなる声で空は断言した。『私』という切り出しが掠れ、聞き取りにくかった。その後に続く言葉は正直辛い。
「……気付いてましたよ。だって、空は僕のことを貴方としか呼んだことがないから――だから違うと思った。僕をそんな対象として見ていないんじゃないかってね。もし、本当に好きな人だったらその人を名前で呼ぶんじゃないですか?」
 強がっている自分。子供みたいで自ら嘲笑ってしまった。
「いいえ、本当に好きな人は恥ずかしくて、名前では呼べないものです」
「僕はそうなんですか?」
 こんな質問をする自分をバカだと思った。答えはわかりきっているのに。
「もちろん、例外はありますよ」
 僕の発言を予想していたようで、予め用意されていた言葉に聞こえた。
「彼って、誰ですか?」
 今最も聞きたいことだった。
「私がまだRSDだった時にLeMUで知り合った人です」
空は微笑んでいる。その笑顔が僕には仮面に見えた。本当の表情はその下に隠されている。どうして彼女は隠すのか?答えは1つしかない。
「彼はどうなんですか?」
「…………」
 様子から全てを悟った。振り返って空を見る。
「振り向いてくれない男を好きになってどうするんです?こんなにも貴女のことを必要とし、愛してくれる男が目の前にいるのに」
 熱があったとしても、どれだけ惨めかわかった。離れていく空を見たくないがために、どんなことをしても引き止めたい気持ちが言葉に変わって次々と胸の奥から湧き上がり、口から出てくる。
 そんな自分を笑った。笑みは見下した笑いではない。天使のような微笑だ。いや、彼女は天使なのだ。海底にあった天国から地上へと浮かび上がってきた人の姿をした天使。
「振り向いてくれないから……振り向かせたいから……だからこんなに、好きなんですよ」
 額に張り付いた髪から流れた雨粒なのか、涙だったのか僕には区別なんてつかなかった。
「僕はわかっていたつもりです。空の気持ちを。僕を好きでなくても僕は空が誰よりも好きなんだ!」
 一生のお願い、というものが行使できるとしたら即刻使っているだろう。
「いいじゃないですか、貴方は私が好き……私は彼が好き。それでいいじゃ―――」
 
 
「人の気持ちは変わります」
 彼は静かに言い放ちました。
私はやはり『彼』が好きだった。ただ彼と『彼』を重ねていただけ………。叶わぬ恋が『彼』への愛情が、未練を叶えるためにほんの少し移っただけの感情。もう1人の『彼』としてではなく、『彼』本人だと思って会っていました。けれど、キスの時に気付いたんです。同じ人間は存在しない、と。だから私は彼に恋をしていた訳ではないのです。
本当に好きなのは――愛しているのは『彼』でした。あの爽やかな笑顔に魅せられています。
 彼は本当に誰よりも私を愛してくれる。それは明白な事実でした。言葉からでも感じ取ることが十分に可能な溢れんばかりの愛情。不可視である感情が見えてしまうほどです。結果的に余計な期待をさせてしまったようで、申し訳ないことをしました。1人の人間に柔らかいナイフで古傷を思い出させたのですから。
人間は自分にとって都合の良いことばかりを選択し、人生という道を歩んでいきます。それに傷つくことを恐れ、平気で相手を傷つける。でも、自分の感情を1番に考えることができなくなればその人はもう人間ではありません。指示通りに動く、感情など存在しない機械です。しかし、そこから人間に戻ることは不可能ではないでしょう。心を取り戻せれば。
「そうですね、人の気持ちは変わる。けど、私の気持ちは一生変わりません」
 悲しさを秘めた瞳が一直線に私を捉えています。断言し終えてからも2つの目は依然として向けられていました。心の中を覗き込み、決心を試しているのでしょう。
 フッと彼は目を閉じ、口の端を吊り上げて笑みと
「もし、彼が空を捨てた時、僕は喜んで貴女を受け入れます。いつでもいい………だから来てください」
 再度、瞼を押し上げた際には悲しみが流れました。目元を拭い、目線を逸らす彼。
 すいません………。
「残念ですけど、それは一生ありません。私と彼に残された時間は永いので」
 微笑んで言いました。
「それと、貴方のお父様のことですが………」
 明日にでも言おうと思っていた場違いな話題。彼とはもう2度と会わないと心に決めたから今それを切り出しました。
「調べてみたほうがよろしいのではないでしょうか?私には、お父様が貴方を不幸にするためだけにキュレイを注射したのではないと思います」
「………」
「真実は……必ず何処かに隠れています」
 彼は言葉を返してくれませんでした。
 ちなみに私は答えを自ら隠していたのでしょう。
 傘を広げて、私は弱まった雨の中を歩み出しました。傘の領域から足を踏み出さないように慎重に、足を1歩1歩進めていく。
「さようなら」
 雨は流れるものと共に一筋、頬を伝って地面へと落ちていきました。
 
 
 そして、この後に空が彼の元を訪れることは1度もなかった。

真実を見出した天使
         たとえ望んでいた2文字が待っていなくても
 時間は永い
決して終幕を迎えないこの歌を
彼女は歌う
愛する者のために

『例えば、そう。あなたが好きになった人が、年下でも、年上でも、身分が違っても、あなたのことを嫌いだったとしても、相手に他に好きな人がいても、相手は過去に失った人をずっと想い続けているとしても、愛せない相手だとしても――あなたと相手が存在しているというだけでいい。感情を抑えてしまったら、負けだ。理由なんていらない。ただ好きになった人を愛すればいい』

橘文彦『全てについて』





あとがき(後編ver)

ども〜♪
 まあ、こんな感じになりました。
自分的にはつぐみ・空編みたいなグッドエンドです。わかりきった展開でしたね………。ハッキリ言うと後味悪いです………。これだったら夢みたいな武×空のラブラブ(死語?)同棲生活を書いた方が良かったかな〜、なんて思っていますがここまできたらこれはこれで1つの終わり方かと。って、何を言ってるんだか自分でもわからなくなってきました。
それしにしても長い!長過ぎた!自分で読み返すのも辛いです(オイ)。だから一通り直したつもりですが、修正する箇所はものすごくあると思います。
 とりあえず空の一途な想いを書きたかったんですよ。
 最初から『茜ヶ崎空は倉成武のことを愛してる!』ということを設定として決め付け、書きました。それで『同じ容姿の男が現れて、しかも男は空が初恋の人で今でもその想いを引き摺っており、大好きだ!』というのを加え、結果的には『苦悩するが、本当に倉成武を地球上の誰よりも何よりも愛している!』となった訳です。
 
 出てきた料理は空想上(?)の物です。作っていただいて結構ですが、お腹を壊しても自分は一切の責任を負いませんのでご注意を(爆笑)。

というわけで、ここまで読んで頂いた貴方(貴女)に感謝いたします。
視点の切り替えが多かったですが、そこいら辺は見逃しください。まだまだ未熟者なので(苦笑)。

ではでは〜♪





2002




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