人は機械に似ている。
 機械といってもパーソナルコンピュータに、だ。
 一瞬の脳裏を過ぎった個人的な考えが一時的な結論を導き出したわけだけれども、人それぞれ賛否は分かれるだろう。
けれどこれだけは―――とても他人に話すような内容じゃないことは、明白だ。それに自分自身、本当にそうか?などと考えていたりする。きっと駄目だ。
 昔から、頭の中ではそんなことばかりを不意に引っ掛かった事物―――大抵はつまらない、または大それたことではない―――に対して思考を展開させていく癖があるらしい。 
というより、これも同じく明らかなことだ。
 人は記憶できる容量を限られている。
 鮮明に残っている記憶とは保護されたメールと同じだ。人の場合は覚えがなくても何処かで自動的にロックを掛けているのだろう。
 それとは反対に勝手に消えていく記憶は、保護せずに容量を溢れていく受送信メールと似ている。
 しかし、今比較してきたものには矛盾が生じてしまう。
メールの保護などといった操作者によって行われることを機械は独断でできない。
そう、パソコンという機会は人間という操作者が存在しない限り動かない。だが人間は1人で行動することができる。
 では、具体的に人と機械は何処が違うのか。
 僕達人間は、自分達と機械を簡単に判別できる。
 その根拠は何だろう。ただ外見で判断したのか、それとも感情が無いからだろうか。
機械と言っても幅は広く、大きく分けると『人間に扱われて働きをする物』と『自分から働く物』とまである。
扱われる機械は更に人に扱われやすくなり、便利さを追求していく。
こちらは人が最低限の運動を果たさなければ機能を完全に発揮できない。
そして、これらは決して無くなってはならない。
何故ならこれからどんどん便利になっていく世の中で人間が多少の不便を理解しなくてはならないことを自覚していくためには欠かせないものだから。
次に自動的に動く機械に対してだが、日々進歩しつつある技術は今では外見からでは判別できない機械を造り出しているくらいだ。それらはプログラムによってまるで自らが考えて行動したように見せ、最終的にはまるで感情も持ち合わせているように錯覚させる。
 人に幻を見せるのだ。
そして、機械に感情が生まれさえすれば、人間と何ら変わりない存在となってしまう。
 それが人と機械の違いなのだろう。
 こうなると、近い将来には人類が『人』を造り出すのはありえないことではないと思えてくる。それも『思い通りに動く人の形をした機械人形』と『自分が機械であると言わない限り、外見では判断のつかない人型機械』との2つになるだろう。
 2つの違いは、プログラムという機械的な意思を人間的な、本人の思考としたか、そうでないかの違い。
 ………自分でも何が言いたいのか、全く分からない。
 まあ、所詮、思いつきというものはこの程度なのだろう。


Where is Heaven?
“Another Story”

                              ショージ

後編 Contract half note



過去の真実
現在
彼は歩を進める
彼女を振り向かせるために
天使は連れられて何を見るのか

 今、僕の隣では助手席のシートに身を任せて空が眠っている。
眼球を横に僅かに動かすだけで天使の寝顔が視界に捉えられた。
全くの無防備。
 手を伸ばせば届く彼女を今は見ていることだけしかできない。
 けれど頭の中である言葉を思い出した。田中家に寄り、空を迎えに行った際、春香菜さんに言われた言葉。そして、それは誰よりも1番自分がわかっている。
 不安定な空。
 これ以上、彼女のバランスを崩すわけにはいかない。
 しかし、空は寝ている。何も危害を加えなければ見ることくらいは許されるだろう。
だから可能な限りこの寝顔を見ていたかった。


「着きましたよ」
 優しいその声に空は瞼をゆっくりと持ち上げた。
 始めのうちは視界がぼやけていたが、徐々に鮮明となり、数メートル先には砂浜と大海原が広がっているのが見える。
 水面が陽光を方向様々に反射し、光に満ちた海は所々が白く見えた。
 今まで数時間徹して運転していた彼にドアを開けられ、空は車を降りる。
「綺麗でしょう?」
 海に目を向けて彼が言った。
「ええ、そうですね」
 潮風が気持ち良い。流れる髪を反射的に押さえ、落ち着ける。
 上空では鳥が優雅に舞っていた。
「運転ご苦労様です。やっぱり、疲れましたか?」
 彼女が労いの言葉を掛けると、彼の口から出掛かっていた欠伸は噛み殺され、日の目を見ることはなくなった。
「いえ、そんなことはないですよ。というより、僕の方こそほとんど無理に誘ってしまって………」
「大丈夫ですよ。それに、綺麗な海も見れましたから」
 空は微笑んだ。
 しかし、彼はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。そして耐え切れなくなり、背中を見せると容赦なく飛び出してきた欠伸に手をやる。
「ふふっ、無理しなくても良いんですよ?」
 それに気づいて、空の方が笑ってしまった。
「……すいません」
苦笑いを浮かべ、頭を掻く。
そこで彼女は自分達の後ろに建つ1軒の屋敷を発見した。
「あちらの建物が?」
 視線で建物の方向を指し示すと彼はそれを辿って、視線を流した。
「そう、僕の―――父の家です」
建物は屋敷と称するのに相応しく、概観は洋風の3階建て。まさに豪邸だ。
 全体には赤レンガを使用しているようだ。煙突も2本見える。
 この豪邸は左右対称だった。煙突も玄関を中心に定めて、中心から等距離に突き出している。窓も同じ数だ。
「さて、どうやら迎えが来たみたいです」
 眺めていた屋敷から黒い上着を着た、いかにも執事という雰囲気を感じさせる老人が駆け寄ってきた。
特徴は、未だに多く残る髪だが全て白く染まっていること。そして、外見から推測できる年齢よりも意外に若く見えそうな顔立ちだった。皺も少なく、顔色も良い。
「あ……貴方様は、もしや………」
 目の前まで来ると震える声で喋り出す。
「……お久し振りです」
 軽く会釈をし、控えめに挨拶をした。
辺りには何やら訳有りの空気が漂っている。
 そして老人はやはり、といったように2回頷き、驚きと同時に喜んでもいた。
「お元気そうでなによりです。失礼ですが、その……お戻りになられるおつもりですか?」
「すいませんけど………」
 真剣な表情で申し訳なさそうに答える。
「……そう、ですか」
 老人は落胆をして、残念だといわんばかりの悲しさが顔から溢れていた。
「ご迷惑をおかけしています。僕が戻ってくれば1番良いんでしょうけど」
 その様子を見て、すぐに自分が悪いと間接的に告げた。
「いえ、すみません。私などが口出しする問題ではありませんでした。これは旦那様と貴方様の問題ですから」
 それに気付いた老人は否定しながら、謝罪する。
「確かにそうなんですよね」
 自分に言い聞かせ、1回頷いた。
 老人はそこで初めて空に目を移す。これは実に彼らしくないことだ。
 執事として十分に優秀な老人は、自分よりも他人を優先して考える。しかし、今回の場合はどうだろうか。空のことを尋ねるのが遅い。
 だがこれは、今までの会話がよほどの重要度を隠していることを意味しているのだ。少なくとも、そうとも思える。
「あの……失礼ですが、そちらの方は?」
 やっと、本来ならば優先して言うべき言葉を口にした。
「あ、彼女は―――」
「初めまして、茜ヶ崎空といいます」
 軽く一礼する空に老人は目を見開き、再び驚いている。
 だがその驚きは長く続かず、すぐさま表情から消え失せた。もしくは老人が隠したのだろう。
「こちらこそ、初めまして。久此木(くしき)と申します。あちらの屋敷で雇われ、執事として働かせて頂いております」
 久此木と丁寧に名乗った老人は礼をする。
「あ、はい。よろしくお願いします」
 空は少々慌てつつ、深く礼を返した。
 久此木老人は彼女の対応を見て、微笑んだ。
「では、ご案内いたします」


 1歩ずつお屋敷に近づく度に建物全体が大きくなっていくような錯覚に陥りました。
 私はこういった洋風の古い建造物を今初めて目の当たりにしています。本などでしか見たことはありませんが、直にこの目で見て現代の家などとは全く違った印象を受けました。
 稚拙な感想しか言えませんが、とても趣のある素晴らしいものだと思います。
「実は……久此木さんの言葉から察しはつくと思いますが、僕はしばらく家に帰ってなかったんです」
久此木さんを先頭に、私と彼は平行して後ろに続いていくと、彼は小声で話しかけてきました。
「そうなんですか。まさか家出とかじゃないですよね?」
「…………」
冗談染みた質問をぶつけると意外な反応が返ってきます。
「え、もしかして当たり……?」
 呟きに似た声が漏れ、彼は軽く頷きました。
「そうです。……僕をこんな身体にしたことが許せなかったから、20の時から家へは1度も帰ってません」
「お父様にも?」
「ええ、だいぶ会ってないです」
 私には無表情で言ったように見えました。けれど、彼の中では複雑な思いが交錯しているのでしょう。
表情は身体の中の思いの衝突に左右されます。それは結果が出ていないということを表しているのです。
 彼の中で闘争が繰り広げられている中、お屋敷の正面玄関に辿り着きました。
 久此木さんが両開きのドアを引き開け、
「さぁ、どうぞ。お入りくださいませ」
 笑顔で屋敷へと招き入れる姿を見せてくれたので私は反射的に頭を下げてしまいます。
 今度は私の予想外の行動に彼が吹き出していました。
「……そんなにおかしいですか?」
 子供みたいに拗ねて上目遣いに尋ねると正気に戻った彼は慌てて口を押さえます。
「あ、いや、そんなにかしこまらなくても………」
 わざとっぽくそんな彼を無視して、内装に目を移しました。
 まず目についたのは、玄関から直進して直面する半曲線を描いて2階へと伸びている2つの階段。どちらの階段を上っても最後には同じ場所に辿り着きます。
 深い赤色の絨毯が敷き詰められた床は暖かそうに見えました。
 ふと、視界の隅に人影が映り、そちらに視線を流してみると人影の正体がはっきりと捉えられました。
「坊ちゃん!」
 よく通る大きな声が目線の先から真っ向に向かってきました。声の主は丁度私の見ていた人です。
 恰幅の良い年配の女性が近付いてきます。
 彼女の服装は、屋敷にはほぼ付き物と呼べるメイドそのものでした。
 その彼女が一直線に彼に抱きついたのです。正直驚きました。
「ああっ、夢ではないでしょうか!……無事にお帰りになられて私、心底安心いたしました!こんなにも立派になられて………っ!」
 傍目から見て、嬉しさのあまり、知らず知らずのうちに渾身の力を籠められた両腕によって彼は首を絞められています。
「く、苦しいんですけど、ホントに。あのっ、お、お願いですから、落ち着いてください」
「こっこれは、申し訳ありませんっ!」
 必死の制止が彼女の耳に届き、慌てて腕から開放しました。
「大体、立派になったと言われても……僕はあの頃と全く外見は変わってませんがね」
「……すみません、軽率でした」
「いえ、良いんです」
 ここにきてやっと私に視線が向けられ、発見されました。やはり、彼女も少しだけ目を見開き、驚いているようにも見えます。どうしてでしょうか?
 私は軽く会釈をして、次の言葉を待ちます。
「あら?久此木さん、お客様?」
「ええ、……あ、こちらはお屋敷でメイド長を勤めています深篠(みしの)さんです」
 対面した私達と深篠メイド長をお互いに紹介するため、身体を90度にした久此木さんは私にそう紹介しました。
「初めまして、茜ヶ崎空と申します」
 またも条件反射の如く、私は名前を申し上げて深く礼をしてしまった。先程の後悔が再び蘇ってきます。
泡は浮かび上がり、消えますが後悔の念は消滅せずに次々とその数を増やしました。それが引き金となって顔が上気していく私。
そんな私の様子を察してか、深篠さんは優しい声で返答をしてくれます。
「これはこれはご丁寧に。こちらこそ、初めまして」
 完全に台詞をなくしてしまった久此木さんも微笑んでいました。
「では、深篠さん。茜ヶ崎様を一度お部屋の方にご案内して頂けませんか?」
「わかりました。では、こちらへ」
 深篠さんに先導され、私は数歩の間隔を空けて後ろをついていきます。
 勿論、別れ際に2人には軽い挨拶を忘れません。
「じゃあ、また後で」
 彼が片手を上げ、私を見送っています。
 私も歩きながら軽く手を持ち上げました。
 彼と久此木さんの遠退いていく会話を聞きながら階段を上がらずに入り口から向かって右に折れ曲がり、廊下を進んでいきます。
 廊下の途中には大きな風景画や女性の人物画が見事な額縁に入れられて飾られ、更には槍を持った騎士の甲冑までも立てられていました。
「ところでいつ頃、挙式なされるんですか?」
「え?」
 深篠さんは日本語で意味の分からない質問を投げかけてきました。
「あら、もうお済でしたか」
 自分で勝手に納得されても困ります。
「すいません、何をおっしゃっているかよくわからないんですが」
「坊ちゃんとご結婚なさっているんじゃないんですか?」
 一瞬の空白が私の思考に生じ、私達の間にはしばしの沈黙が訪れます。
「ち、ちちち違いますっ!」
 咽に突っ掛かった言葉がもつれながら転がって出てくると私の視界は歪み始め、まるで渦巻きみたいにぐるぐると回っていました。
「あらあら、そんなに照れなくてもいいじゃありませんか」
「ですから、彼とはそういった仲ではありません!」
 私がきっぱりと断言すると、
「本当に……そうなんですか?」
 首を巡らせて、きょとんとした感じで深篠さんは問います。
「本当です!」
 最後までムキになってしまい、自分らしくありません。深篠さんは「あらあら、残念ですね」と冗談めいた口振りで言っていましたが、適当に相槌を打っていました。
 しばらく歩いていると1つのドアの前で立ち止まりました。
「こちらになります」
 鍵を開けて私に手渡してからドアを押し開けます。
 お屋敷なので外観からして田中家の自分の部屋より広いことは明白で、洋風の上品な雰囲気が部屋全体を整っていることと合わせてより広く錯覚させていました。
「綺麗なお部屋ですね」
 キョロキョロと落ち着きない視線を泳がせながら感嘆の声を漏らします。
「ではこのあと、旦那様のお部屋にご案内しますので準備ができましたら廊下に出てきてください」
 そう言われてしまうとどうもゆっくりできないのは性分なのでしょうか。
「では、ごゆっくり」
 そう言い残して、深篠メイド長は部屋を出て行きました。
 しばらく彼女の出て行ったドアに視線を固定し、数秒の後、沈黙の中で大きな溜息を吐くとベッドに倒れこみました。
 シーツの完璧な張り具合によって生み出されるふかふかの感触が堪りません。
「はふぅ………」
 目を閉じ、思わず声を出すくらいでした。
 けれどそれは、感触による湧き上がりだけではなく、疲労感から招かれたものでもあるに違いありません。
 確かに、私は無理をしています。これは事実です。
 そうなると、やはり自分でそう受け止めたとしても他人からは簡単にはわからないように笑顔を見せ、普段通りに自分を偽るのです。
 でも、周囲の人達は何故か私の考えなどお見通しで、逆に悲しそうな表情を向けて正反対の反応を示します。
 どんなに微笑んでも悲しさの度合いが増すばかりで、私より先に相手の方が参ってしまうほどでした。
 彼は、気づいているでしょう。わざと気づかない振りをして私に負担をかけまいとしているのです。
 そんなことよりも今は、彼の言っていたことを知りたいという衝動が身体の内面で徐々に大きくなっていました。重なり合って、他の考えを打ち消すが如く。
荷物をベッドのすぐ横に置き、私が廊下へと出ると数メートル先の壁際に深篠さんが待ち構えています。


 空は無理をしている。
 それは明らかなことだった。
 あの状態からたった数日で完全に回復できるはずがない。
 こんな状態で彼女に昔話をするのはどうかと一瞬迷った。
 いや、この状態だからこそ、空に打ち明けるのではないかと考えてみた。それに、辛い過去を見せるのではなく、こんなことがあったという程度の生易しいものだ。
彼女に自分の知らなかった過去を教えるだけ。それで彼女は何を得、そして僕自身は何を得るのか。自分でもわからない。
 僕は廊下を久しぶりに進みながら1つのドアの前に立った。
 この部屋にも入るのは久しぶりだ。しかし全く躊躇わずにノックを2回繰り返し、
「失礼します、父さん」
 ドアを開けた。
 ここからも海原が一望できる。というより、屋敷の海側の部屋は全て眺めることは可能だけれど。それでも昔は、屋敷の最上階中心に位置するこの部屋が最高の眺めを見せてくれると考えていた。
 今思うとそれは子供の根拠のない、そして尽きることのない純粋な欲望だったのかもしれないなどと考える。
「―――か?」
 窓際でロッキングチェアーに深く腰掛けた男―――父さんはこちらを見ずに僕の名前を呼んだ。
 実年齢はすぐに浮かび上がってこなかったけれど、外見は僕と同じく若々しい。
 45。
それが、白髪が混じり、少ない皺が印象的で知的な雰囲気を漂わせている目の前の父親の肉体年齢だ。
父さんもキュレイのキャリアで、2011年のあの日に僕と同じくキュレイの抗体を射ち込んでいた。
けれど、母さんは間に合わなかった。
「はい、お久しぶりです」
 窓の外を見つめる真っ直ぐな視線と平行して、海を見つめる。
「相変わらずここから見る海は綺麗ですね」
 海面が日光を浴びて光り輝いていた。宝石のように煌く海が幼い頃の記憶を蘇らせる。
 美しいものしか知らなかった子供の頃。懐かしみの感情が彷彿として浮かび上がった。
「そうだな」
 冷淡にも思える返答も懐かしい。
 相変わらず首も視線もそのままで、口だけを動かす。
「大学の助教授をしているようだな。……元気でやっていたか?」
「それなりには」
 苦笑をしてみせるが当然こちらを見てはくれない。
「それと、客人を連れてきたそうじゃないか。美人さんだと聞いたが」
「その通りです」
 興味を示しているらしく口調に笑いが籠められているのを感じ取った。
「結婚したのか?」
「……残念ながら」
 頭を掻いて呟いた。
「そうか、それは残念だ」
 全く残念そうには思えない抑揚のない声。
「父さんこそ、お元気そうで何よりです」
「いや、そうでもない」
「え?」
 それは突然の出来事で、
「…………すまない」
 僕は状況を理解するのに数秒を要した。
 父さんが倒れるように、床に膝を突き、頭を床に近づける。
「やめてください……っ!」
 自らの抑制を振り切って、口から怒りの感情が具現化されて表れた。
顔を伏せる自分の父をこれほど憎く思ったことはない。
「お願いですから、顔をあげてください」
 腰を落として肩に手を掛ける。
「すまない」
「だからっ……!」
「すまない」
 次に装填され、不完全に吐き出された怒号を遮って、頭を下げたままの姿勢を保ち続けた。肩を掴む手に力が入る。
「卑怯ですよ……僕が謝られると弱いのは父さんが1番良く知っているはずです」
「本当に―――……」
 いい加減にしてほしかった。
 だから、父さんの願いを叶えてみせる。
「これで、気が済みましたか?」
慣れてないため、上手く殴れなかった。拳に対して今も尚、強く残る反動が殴ったということを僕自身に物語っている。
 僕に殴られた頬を反射的に押さえ、やっと顔を上げてくれた。
「思い切り手加減して、優しく殴りましたから………」
「………ああ」
 ここにきて初めて目を合わせた。
 僕は、今日この屋敷に来る前に色々と考えた。
 父さんがT.B(ティーフブラウ)に侵されていた僕に抗体を注射してまで生きさせた理由。それが求めていた疑問だった。
 正直、許すはずなかった。いや、許せるはずがない。
 けれど今日、謝罪する父さんを見て、責め立てることを忘れてしまっていた。
「ありがとう」
 その感謝の気持ちがもっともこめられた言葉で憎しみも怒りも消え失せてしまった。
 だから、もう良い。
 20年間の負の感情はこんなもので消えてしまうほど生易しいものだったなんて思いもしなかった。
 起き上がらせて、先程と同じく椅子に腰掛けさせる。
「……ところで、今日は何をしに来たんだか教えてくれても良いんじゃないか?」
「そうですね。実は―――」
ドアがノックされ、
「どうぞ」
 僕が返事をすると一呼吸の間を置き、開かれた。
「失礼します。茜ヶ崎様をお連れしました」
 まず深篠さんが、続いて彼女が入室する。
「……茜ヶ崎?」
 疑問の声を上げたのは父さんだ。
「初めまして、茜ヶ崎空と申します」
 花のように美しく、礼儀正しい口調で話し、本日何度目かの整った礼をする。
 自己紹介を済ませた彼女に父さんは目を見開き、見ていた。
 口からは懐かしい言葉が漏れる。
「宙(そら)………」
「え?」
 驚くのも無理はないだろう。
「いや……何でもない。それより、君が客人だったとはな」
 空にとっては意味深な言葉を向ける。僕にはその意味が理解できた。
「どういうことですか?」
「すいません、父さん。彼女に教えてあげたいんですよ」
 このままでは混乱するばかりの空をとりあえず落ち着かせるために、彼女を外して父さんに向き直る。
「……そうか」
 一応、納得した様子だけれど彼女が何故ここにいるのか説明しなくてはならないですね。
「あの……?」
 今度は空に身体を向けた。
「紹介します。こちらが僕の父さん―――貴女を作った開発者の1人です」



3/20/2006

「………ふぅ」
 息をつくと同時に、視界の隅に入った手が机の上にカップを置いた。
「お疲れ様です」
 今日はもう誰もいなかったはずなのに、急に手が現れて内心驚いていたが、彼女だとわかると納得できた。いや、できるようになっていた。
 宙(そら)。それが彼女の名前だ。
「ん……ありがとう」
 湯気の立ち上る熱いコーヒーを手に取り口に運ぶ。黒い液体がじわじわと襲ってきていた眠気を追い払い、意識が自然と覚醒した。
「帰ったんじゃなかったのか?」
「はい、そうですよ」
 宙は1度家に戻ったはずだ。現在の時刻は9時を過ぎている。そして彼女が退社したのは5時くらいだったはず。
「また来たのか?」
ほとんどの人は誤解して気を悪くする問い掛けに、宙は笑顔で肯定した。照れているようにも思えるのは目の錯覚だろう。
「息子に夕飯を作ってくれたのか。ありがとう」
 俺は何を思ったか20歳の時に結婚し、今15歳の息子がいる。彼女とは……再婚だ。今思うと正しかったのかよくわからない。
 中々宙に気を許そうとしない我が息子には困っている。いつの間にか打ち解けてくれることを願っているが、上手くいくかはわからない。
「他人事みたいに言わないでください。私と貴方は、夫婦じゃないですか」
 夫婦という単語に躊躇いがあったが、照れなのだろう。俺はそう感じ取った。
「そうだな。でも、礼は言っても構わないだろう?」
「はい、嬉しいですよ」
 嬉しそうにしている彼女を見ているとこちらまで何だか幸せな気分で満たされてくる。何とも理解し難い。
「随分と無理なさるんですね。もう、ノルマは終わっているんでしょう?」
「……終わってない」
「じゃあ、もう少しで?」
 宙は意外そうな声を上げた。それは俺の仕事においての能力を知っているから。常人の3倍以上は働く自分を。
「もう少しどころか、半分も終わってない」
「らしくないですね。どこか身体の具合でも悪いんですか?」
 そう言って額に手を当ててくる。宙の手をやんわりと退け、溜め息を吐いた。
「それならまだ良いんだがな。要するに、普通のノルマとは違うということだ」
「どういうことでしょうか?」
 まだわからないようなので決定的な言葉で教えてやることにする。
「通常の5倍くらいある」
 宙の仕事の量は聞かされていたので、それと比較する方法もあったが、それを言ってしまうと彼女は遠まわしに傷つくかもしれない。言ってしまえば、彼女の10倍ある。
だから開発者全員の割り振られたノルマから平均値を割り出し、自分のノルマを比較した。
「ええっ!どうしてですか!?」
 口元に手をやり、驚いている。
「これは、『当て付けに対するお礼』とか言ってたな………」
 言ってしまえば、俺は意識していなかったがその分宙があまりにも意識しすぎているせいだ。
 1年前から本格的に始動し始めた計画は、個人にある一定のノルマを与えられていた。しかし、どうやら俺だけは別らしい。
 容姿端麗、頭脳明晰である職場で人気者の宙と結婚した俺は、1ヶ月経った今でも相変わらず周囲から燃やされる(俺が)ような眼差しで見られている。
24歳と35歳という犯罪にも近い策略的な何かを感じさせる結婚。それも再婚―――バツイチの男と、ということもあって殺されるんじゃないかと心配だ。実際、殺気も感じたことはある。闇討ちなんかで人生を終わりたくない。彼女の結婚が明らかになって退社した奴もいるとかいないとか。
宙が仕事を辞めなかったことには感謝している。もしも彼女が現れなくなったとしたら開発者達が何十人いなくなっていたことか。
「酷いじゃないですか。私が―――」
「良い」
 宙の言葉を遮って、一言で途中放棄させる。コーヒーを一口飲み、間を空け、沈黙の中で切り出した。
「俺は、『空』を他人に作らせたくはない」
 我ながらクサイ台詞だと思う。顔に血が上るのを感じていた。次々にやってくる後悔の念。これで彼女に笑われでもしたら多少は傷つく。
「え……っ」
「君がマザーとなっているわけだから、本心は他人にあまり任せたくない気分なんだ」
 俺達は、LeMUの案内役を勤めさせるAIを開発しようとしていた。
 その容姿や性格を決めるべく、秘密裏に会議が行われ、何らかの策略があってのためかAIの基本(外見や性格)となる人物(要するに母体)を比較対照としやすいように身近なところから選ぶ、と決定した。そうして宙が持ち上がり、本人もあっさり承諾してマザーとなった。
本人は「妹ができるみたいで嬉しいじゃないですか」と呑気に言う。
外見や性格までもそのままトレースしたかのように『空』は製作されていった。
開発者連中が言うに、1番の問題である服装は様々な派(メイド派やナース派など他にマイナーなものもあったような気がする)が激戦を繰り返し、僅かな差でチャイナ派が勝ったようだ。
その時チャイナ派の有志達は歓声を上げ、じきに叫び出し、仲間同士で抱き合ったりしてお互いを称えあったのは言うまでもない。負けた派は呆然とその場に立ち尽くしたり、悔し涙を流したり、壁に頭を叩きつける者までいた。ここに彼らの仕事への熱意が感じられる……のか?
「そうですか……。ありがとうございます」
 笑われはしたものの、優しい笑いだった。少しだけ安堵の色を外には見えないように浮かべる。
 そこで宙は思い出したように手元の紙袋を差し出した。
「お夜食持ってきたんですけど、食べますよね?」
 受け取ろうとして手を伸ばすと『ぐぅ〜っ』と何かが鳴る音が耳に届いた。
 一瞬自分の腹の虫かと思い、腹部に目を落とすが、そうは感じなかったのでとりあえず宙を見てみる。当然だがここには俺と彼女以外はいない。
 いつからか、目を移した時には顔を真っ赤にしながら宙は苦笑いを浮かべていた。
「あ……、あははははっ………」
 とりあえず笑うしかないのだろう。女性は腹が鳴ると恥ずかしいものなんだろうか。人間としては健康な証拠であるのに。
「夕飯、食べたんじゃなかったのか?」
 てっきり、一緒に済ませているのだと思っていた。
「いえ、実はまだ………」
 要するに、彼女は息子の夕飯と夜食を作るためだけに帰ったのだ。言い方は悪くなるだろうが何とも、まあ、ご苦労なことだろう。だが感謝している。
「あの、ご一緒してもいいですか?」
「勿論だ」
 夜食は、きっちりと2人分用意してあった。


こんな言い方もおかしいが宙とは偏った恋愛の末、結婚した。
まだ彼女が入ってきた頃、10年前に心臓病で妻を失っていた俺は彼女のことなど全く意識してなかった。それどころか「そんな奴いたのか?」ぐらいの認識だったに違いない。
 でも、彼女は構ってきた。誰よりも早く来て、誰よりも遅く帰る俺に対抗するように。
「おはようございます」
 爽やかな笑顔でこちらを見ていた。
「……おはよう」
欠伸を噛み殺して返事をする。
 彼女とこうして挨拶を交わすのは何度目になるだろうか。最近、いつもは開発室に1番に来る俺よりも彼女の方が早い。
「お早いんですね」
「君の方が早いだろう?」
 近付いて話しかけてきた彼女を冷たくあしらうように投げ掛けた。
「あ、そうですね」
 少しだけ眉を寄せ、困った笑いを向けてきた。その表情は子供のような顔で何とも微笑ましい。
 最近になって気付く。彼女の笑顔に魅了されているのだと。
こうしていつの間にか俺達は親睦を深め合っていたのだろう。これについては自覚がないので何とも言えない。
別に、2人だけで何処にも出掛けることなど無かった。食堂で2人並んで食べたことくらいはあったが、必要無かったのだ。
けれど、2人でよく話していた。研究のことや世の中のこと、そして自分のことを。
切り出されたのは正式に出会ってから1年ほど過ぎたある朝のこと。普段通り、宙の方が早く来ていた。そして自然と話をしている時だ。
「あの……私、好きな人ができたんですけど………」
 いきなり話題を変えられて、少し焦ったが彼女の質問の内容に対しては全く驚かなかった。
「おめでとう」
「……えっ、それだけですか?」
 目を瞬かせて、声を上げる。そんな疑問よりも俺にとっては今まで話していたヤンバルクイナの話は何処へ行ったかの方が重要だった。
「ああ、他に何かあるかな?」
 彼女が誰を好きになろうと勝手だったし、自由だと思う。
「普通、『どんな人?』とか『誰?』とか具体的なことを訊きませんか?」
「普通とは何だろうな」
 ほぼ意味のない質問をしてみせる。
「そんなことはどうでも良いんですよ」
「普通とは、社会の常識に囚われた人間が勝手にその基準を割り出し、勝手に定めたもの」
 自分の認識をぶつけてみたが、彼女はどうやら真剣だったらしい。
「もうっ」
 頬を軽く膨らませ、外方を向いてしまった。
「……訊いてほしいのか?」
「え、いや……そういうわけでは………あ、でもぉ」
 顔を真っ赤にした宙は何故か焦っている。原因は不明だ。突然の切り返しに頭がついていかない、とは頭の回転が速い彼女の場合は考え難い。
「そうか。じゃあ、そのままで良いじゃないか。だが、あまり周囲に言わない方が良い。君のファンがそいつを殺しかねないからな」
 発言1つで順調に進んでいる計画を険悪な雰囲気を漂わせることによって、悪影響を及ぼすことを明白だと婉曲的に伝えた。
「あの、いるんですか?」
 彼女に自覚がないのはおかしいと思ったが、持ち前の天然さで気付かないのも自然と納得できた。
「いるだろう。君のファン」
「いえ、そうじゃなくて……好きな人………」
 俯き、小さな声で尋ねてくる宙。
「この状況から考えると、俺?」
返答の代わりに頷かれて、俺は目立った躊躇いも見せずに短的に答える。
「いや、いないよ」
「それは死んだ奥さんに悪いからですか?」
 彼女らしくない答えが返ってきた。発せられた言葉には違和感がある。
「それもあるかもしれない」
 机の上に置いてある煙草の箱から1本取り出し、口に銜える。だが火は点けない。俺は煙草を吸わないからだ。ただ銜えるだけ。コンセントレーションのためでもある。
「かも?」
「人は自分の心すら正確に理解できない」
 椅子の背にある程度凭れ掛かり、手をだらんとみっともなく形で垂らすと身体が楽になる。そのままの体勢で深呼吸をした。
「私は他人の心の中は全く感じ取れません。けど、自分の心の中は全て理解できています」
 断言する宙を横目で捉えながら聞き返す。それは思い込みじゃないのか?とは訊かなかった。出会った頃の自分だったら間を置かずに言っただろう。
「そうか、じゃあ君は自分の心をどんなふうに理解しているんだ?」
 すぐに回答はやってこなかった。数秒間の沈黙があったと思う。視界から彼女を外し、天井を見据えていた時だ。
「………貴方のことが好き、と」
「……は?」
 横目で捉えるのではなく、今度は身体を起こし、見た。
「私は、貴方のことを愛しています」
 頬を赤く染めて、宙は断言する。
 数秒間何を言われたのか理解できなかった。俺は狼狽の色を隠せずに表面上に露わにしてしまう。
「おっ、おいおい」
「本気なんです!」
 気合を入れて言われずとも、その真っ直ぐな視線を向けられているだけで感じ取れる。決意が本物であるということも、想いが生半可なものではないことも。今なら彼女の心をほとんど理解できた。
「……3つ、質問させてくれ」
 銜えていた煙草を指の間に挟み、親指でフィルターを中心軸に定め、グリグリと円を描く。自分の思い込みではこれを癖だと処理している。
「……どうぞ」
 重苦しい何かを感じ取ったように、宙の声は普段よりも落ち着いていた。
「君は俺が離婚した男だとわかって言っているのか?」
「はい。その話は聞きました」
 確かに話したが、現実として受け止めているのかどうかが不安だった。いつもとは違うその声の重さに惑わされて、誤認してしまわぬように注意しながら一応の確認はした。
「じゃあ次に、場合によっては俺を愛することで俺と共に死んだ妻に恨まれてしまうだろう。構わないのか?」
 何てバカなことを尋ねているのだろう。死んでしまったものに恨まれたところで、一体何になるというのか。
「はい」
 それでも彼女は、俺をバカにすることなく返事をした。
「最後の質問だ。俺に愛されなくても君は俺を愛せるのか?」
「……はい」
 最低の質問だと思う。まるで中途半端に自分が愛していないことを露呈しているようにも思えてしまう発言。
 だから、しっかり言っておくことにする。
「ふぅ、ハッキリ言おう。今俺は君の事を愛していない。同時に愛せるかどうかもわからない。それで―――」
「可能性はゼロですか?」
 視線を移すと、相変わらずの直線的な眼差しが俺を突き刺した。表情は澄んでいる。
「いや、いかなる物事において成り立つ可能性というものはゼロじゃない。それにゼロということは有り得ない」
 それを聞いて、宙は微笑んだ。やっと普段の彼女が降臨したようだ。
「じゃあ、これからで良いです。私を好きになってくれるのは。ゆっくりで構いません」
「……そうか。なら、最後に1つだけ情けない願いを聞いてほしい」
「はい、喜んで」
 煙草を口に戻し、できるだけ明るく願い事を唱える。
「……殺されそうになったら助けてくれ」
「……はい?」


「―――さん?聞こえてますか?」
 意識が浮かび上がり、聴覚で宙の声を捕まえる。
「……ああ。大丈夫だ」
 頭を軽く横に数回振り、現実へと帰還を果たした。
「どうしたんですか?」
「うん?少しだけ過去を回顧していたんだ」
 心配そうに問いかける宙に、大丈夫だと間接的に伝えながら彼女の淹れてくれたコーヒーに再び口をつける。苦いという味覚が現実を更に引き起こしてくれた。
「もしかして、私達のことですか?」
「さあ」
「あーっ、教えてくださいよ!」
 まるで子供が自分の通りにいかないがため、駄々をこねる姿だ。
「さてと、食事も済んだことだし、宙は家に戻るといい」
 カップを机の上に置き、
「また今日も泊り込みですか?」
 心底残念そうな気持ちが言葉には隠れていた。最近、やっと宙の心が見えてきた気がする。これは愛するが故、なのだろうか。それ以前に俺は彼女を愛しているのだろうか。
「そうなるな」
「会われないんですか?」
「ああ、結果的にそうなる」
 その場に沈黙が訪れ、徐々に空間を占拠していく。宙の沈黙は怒っている時のサインでもあることに、やはり最近気がついた。だが『これは怒っているのか?』とわからない時の方が断然に多い。
「……わかった。来週の日曜日にでもアイツを連れて3人で食事にでも行こう」
「本当ですか!?」
 この喜び方を見ると、今の沈黙が怒っていたからの沈黙とは信じられない。やはり思い込みだった、と思えば全ては片付くのだが、そうやって一言で処理してしまうのもどうだろう。
「本当だ。アイツが行こうとしなかったら君が説得してくれ。俺じゃ無理だからな」
 息子は再婚に未だ納得をしてくれない。きっと食事に誘ってもOKは出ない。そこは彼女に頑張ってもらおう。
「わかりました。楽しみにしてますね」
 やはり笑顔で宙は答える。
「そうだな、日本狼の現存数くらい心に取り留めておく」
「……絶滅してますよ?」
「冗談だ。訂正する。現在の日本の人口に置き換えてくれ」
「確率、物凄い上がりましたね」
 口元には手を当てて、込み上げる可笑しさをそうやって少しずつ排出しているらしい。
「頼もしいことこの上ないだろう?さあ、もう帰って寝るといい」
「そうですね………あ、そうでした」
 宙は椅子から腰を浮かせ、手を俺の膝に突いた。そちらに目を移していたせいで隙が生じる。次に視線を彼女に移した時には、
「……っ!」
 目の前にいて、唇が触れ合っていた。
 一瞬、世界が揺れた。自分が何をしているのかわからなくなる。
「……ふふっ、お休みなさい」
 部屋を軽やかに跳ねながら出て行く。スキップの効果音が聞こえてきそうだ。
 普段は天使なのに、今は小悪魔に見える。ああ、あれが小悪魔の微笑みなのだろう。
 宙とキスなんてしたことはない。これが、初めてのキスとなった。
 曖昧だった来週の約束をしっかりと記憶して、再度仕事に取り掛かる。
彼女を―――『空』を完成させるために。


 窓際の小さなテーブルの上には、写真立てが置いてあります。
 写真に写っているのは、彼と彼のお父様と、私によく似た……いえ、これは似ているなんてレベルではありません。まさに私そのものがそこにはいました。
「大体、わかってもらえたと思うが……どうかな?」
 1通り、話し終えたらしく彼のお父様は姿勢を正すべく、座り直しました。
 目が少しだけ潤んでいます。それは悲しみの過去を振り返った証拠。例え、今振り返った過去に辛い記憶がなかったとしても、奥様を失った時の悲痛までもが蘇ってきてしまったのかもしれません。
「正直……何だか釈然としません」
「そうだろうな」
素直に自分の気持ちを述べました。どういうわけか、気の利いた言葉が浮かばなかったのです。
「私はこれを君に話したところで結果的には何も変わらないと思うが、まあ、それは私の知ったことではない」
「そうですね。私もそう思います」
そこで視線が持ち上げられ、私を正面から見据えました。
もしかして、私と宙さんとを重ねているのではないでしょうか。
「しかし、君には宙という母親がいる。この世に『生み出された』存在なんだ。それだけは覚えていて欲しい」
 作られた、ではなく、生み出された存在。
 それは機械的なものとしてではなく、私がまるで人としてこの世に存在しているのだと訴えかけているのでしょう。
 私は幸せです。
「今日は、泊まっていくといい。部屋もそのつもりで貸したようなものだ」
 ふいっと視線を海に流し、淡々と言った。心の底に感情を秘めている物言い。
 外は日が暮れ、夕日が水平線に半分ほど呑み込まれていた。日差しが部屋にも差し込んでいて、眩しい。
「ありがとうございます」
 頭を軽く落とし、礼をします。
「あの……1つだけお願いがあるんですけど」
「遠慮なく言ってくれ」
 私は興味がありました。
「その……写真をお貸ししていただけないでしょうか」
「ああ、いいとも」


 夜空と呼ばれている世界共通の闇の中に満月が美しく輝き、その周囲には散りばめられた星々が月には劣るものの1点ずつ光を放っている。
 月光は、昼間の太陽の生み出す陽光よりも母性的な優しい雰囲気をもたらしていた。その光を見ていれば大抵の人は落ち着くであろう。
 雲が所々浮かんでいるため、時々月は雲に遮られ、一時的に闇が更に深さを増す。星々はそれを補っているようにも思えた。
 星の海の下、月光を身体に受けてその姿を明瞭とし、空は海岸を歩いている。
「…………」
 浮かぶ感情は辛さや哀しみなどの入り混じったもの。夜闇の如く深い。
 彼女の手には先程借りた1枚の写真があった。
 空には、わからないのだ。
 彼がこの場所に連れてきた理由が。
 それを理解しようとしても、結局導き出される解答は無い。
 ここを訪れて、彼に何の得があるというのだろうか。
―――わかりません………。
 そして、自分の気持ちは今何処にあるのだろうか。
 この間、彼を拒絶した時は空の頭の中には倉成武のことが確かに存在していた。けれど今はどうなのか、それは彼女自身にもわかっていない。
 言ってしまえば、空は想いの在り処が掴めていないのだ。
―――どうすれば、いいの……?
 今もまだ倉成武のことを想い続けているのか?
 今はもう既に、彼へと想いを向けているのか?
 意識が完全に、思考へと注がれていた。そのため、身体に行き渡る神経が緩んでいたのかもしれない。
「あっ………!」
 だから、柔らかい海風にでさえ、彼女の指から写真をさらうことは容易だった。
 そして風は皮肉にも写真を海へと向かわせる。
―――駄目っ!行かないで!
 空の心の叫びは届かず、海面に落下していく。
 空は迷わず、靴だけを脱ぎ捨て、夜の海へと足を踏み入れた。水温は僅かに冷たかったが、気になるほどでもない。
 足に重みを感じながらも必死に歩を進めていく。暗闇を全く恐れずに。
だが、それは写真にしか意識が集中していないだけなのだろう。実際、焦りが空の頭を埋め尽くし、集中を乱しているのだ。再び写真を手にすれば落ち着きを取り戻し、冷静になったところで新たに恐怖が植えつけられるに違いない。
 そこに時折吹く強風が現れ、写真を乗せてしまった。更に暗闇の中へと誘っていく。
 既に腰の辺りまで海を進んできていた空。
 写真がやっと着水し、彼女はその位置を瞬時に記憶した。
 進むにつれ、足が地面から離れていく。だんだんと足が浮いていくその感覚に少しずつ湧き上がってくる恐怖感。そして、今頃になって水の冷たさが身体から体温を奪っていく。
 その時だ。
―――あ、足がっ……!
 魚が釣り上げられたのと似た、引き上げられる感触。足が攣ってしまった。
それでも記憶した場所まで必死に泳ごうと試みる。しかし中々上手くいかず、力が足に伝動しない。思うように機能しない身体に苛立ちすら覚える。
自分の力では辿り着けない、と片隅で思いかけていた。
その思考を打ち消して両手と片足とで視線により定めた地点を目指す。その間も波は写真を動かし、見失わないように月光を頼りにして目を凝らしていた。
遂に、深い蒼色の水面は肩まで空を呑み込んでいる。
―――もう、ちょっと………!
 どれだけの時間が経過したのだろうか。やっとの思いで写真を掴み取る。柔らかくなってしまった紙の触り心地に緊張感と更なる焦りが起きた。
 掴み取った瞬間、同時に彼女の身の一部では安心感が芽生え、安堵の感情が通り過ぎると次は恐怖が訪れていた。
 あの時の深海での事故が自動的に頭の中で再生され、恐怖が倍増する。
―――早く……戻らなきゃ………。
 方向転換をし、陸の方へと向き直る。そのまま潮の流れに乗って砂浜へ向かおうと試みた。
しかし、どういうわけか陸から自分が離れていく。
―――あ、あれ?
 海面から覗かせている空の顔は驚愕の色で彩られていた。
 沖へ沖へと流されていく体験をすれば誰でも驚くはずだ。磁石で引き寄せられるように流されていく。
 これは離岸流という現象。
 海水は波によって沖から海岸に打ち寄せられます。海岸に打ち寄せられ、行き場を失ってしまった溜まった水が今度は沖に戻ろうとする。
 大きな波と大きな波の間にある小さい波の部分は海面が低くなっているため、そこに向かって生まれた沖へ戻ろうとする強い流れを離岸流と呼ぶ。
 離岸流は流れが強い。毎秒2メートルとも言われ、水泳選手でも正面から向かっていくのは困難だと噂されている。だから、逆らって泳ぐことは不可能である。
―――う、うそ……っ?
 対処法としては浜辺に向かって平行に泳ぎ、離岸流の流れから逃れることなのだが、空はその対処法を知らない。
 その時だ。不運が重なった。
 そう、月が消えたのだ。
 厚い雲が月を隠し、月光を遮った。夜の海は不気味で自分1人だけがそこに存在している。孤独が生まれ、光を受けていた神秘的な夜の海とは異なった、全てを取り込んでしまう恐怖感を人に持たせる別の顔。夜の海には裏表があった。
 焦燥、恐怖、孤独、冷感。そして何より疲労が空を蝕み、しっかりと固まっていた意識を闇の中へ融解させ始めている。
 闇が孤独を生み、孤独が恐怖を生み、恐怖が焦りを生む。
―――あ、うっ……もう………。
 浜辺から大分遠ざかっていた。
 片足を精一杯伸ばしてみるが、地面には辿り着かない。底なし沼というものは無いけれど、底が果てしなく遠いのは確実だった。
―――誰か、助け……て……………。
消え行く意識の中で、空は助けを求めた。
彼女に顔は完全に沈み、空に手を伸ばす。


「……んっ」
 あれ?
 私の視界に1度だけ見たことのある天井が入りました。
 ここは、与えられた私の部屋………?
 ベッド?
上半身を起こし、状況を把握するため周囲を見回しているとドアが比較的静かに開かれ、深篠さんが入ってきます。
「ああ、良かった!」
 彼女は驚きと安心に満ちた表情で叫ぶと倒れこむように私に抱きつき、抱きしめました。心なしか、少しやつれたように見えます。
「く、苦しい、です………!」
 圧迫感に目がぐるぐると回り、きっと渦巻き状になっていることでしょう。
「あ!す、すみません!!私としたことが、つい………」
 照れ笑いを浮かべて、謝っていますが腕には未だに残る痛みが。しかし、完全に目は覚めました。
 窓の外へ視線を移すと、外の日差しから推測するに午前中くらいでしょうか?
「あの、私はどのくらい寝ていましたか?」
「そうですね、約1日半くらいです。流石にあの時間に起こされて、私も驚きました」
 すっと手を伸ばし、襟元を手に取ると整えながら深篠さんは優しく言いました。私はそこで初めて自分の服装がバスローブであったことに気付きます。
「……すいません」
 色々な意味を込めてお礼を言いました。
「いえいえ、私はただ茜ヶ崎様を介抱しただけです。そんなことよりも助けてくれた人にお礼を言うべきではありませんか?」
「え、あの……私を助けてくれたのは誰なんですか?」
 尋ねると浅い笑いと共に、
「私と久此木さんと旦那様ではないことは確かですね」
 ゆっくりとした口調で言葉を私に向けます。
「え……」
 わかっていながらも質問をしました。それは確認の意味だったのかもしれません。断言され、私は一瞬思い直してみました。
 その様子を見ていた深篠さんはベッドの縁へと腰掛けます。
「茜ヶ崎様は坊ちゃんのことを好きではないのですか?」
 彼女は楽しそうに言いました。決して馬鹿にしているのではないのでしょう。迷っている私の心を読んだのでしょうか?
「私は、わからないんです……!自分の気持ちが、一体何処にあるのかわからないんです!」
 俯いて、重ねていた手を強く握り締める。
 きっと、深篠さんなら教えてくれると思っていました。私の心を読めたのなら心の在り処がわかったはずですから。
 でも、彼女は微笑み、強く握り締めた私の手を大きな手で優しく包み込みました。
 その手はガサガサに荒れ、1本1本が太く、男性的な雰囲気を感じます。けれど私は、人に尽くすためのこの手は優しさを表しているのだと思います。
「少しだけ、昔話を聞く気はありませんか?」
「……え?」
 顔を上げれば、視界に映る聖母の姿。
「あれは私が、茜ヶ崎様くらいの歳の頃ですね………」
 子供に絵本を聞かせる母親が浮かび上がり、頭の中のイメージがそのまま現実に起き上がりました。
「私はある人に恋をしていました。でも、その人は既に結婚していて2人の子供までいたのですが、それでも私は彼のことが諦めきれなかったんです。そしてある時、私を好きになってくれた人が現れました。けれど私はその人を拒み、あの人を追い続けました」
「そんな………」
 何処かで聞いたことのある関係だと知りながらも、この話は現実的なものとして受け止めます。
「結果、目が覚めた頃に好きになってくれた人と会おうとしても何処にいるのかわからず、好きでもなかった別の男性と結びついてしまった、というわけです……はい、昔話はこれで終わりです」
 話の内容とは正反対に、深篠さんは楽しそうに話していました。
「…………」
「今の旦那……事故でこの世を去りましたけどね。でも、結婚してからはそれなりに幸せだったと思っているんですよ?」
「……どうしてですか?」
「あんな人にでも良いところはありました。好きになれましたから」
 表情が変わり、苦笑いを見せます。彼女の眼は水気を帯び、潤んでいました。
「今更になって後悔しています。『愛してくれる彼をどうして選ばなかったんだろう?』と。ゼロからでも良かったかもしれないのに」
「ゼロ?」
「何も知らない人をこれから好きになっていけば良かったのかもしれません。ただ、私はそれほどまでにあの人のことを愛していたんです」
 涙が一筋流れ、頬を伝い、最後は顎から下へと落ちていきます。
「深篠さん………」
「私にはどちらが正しかったなんてわかりません。けれど、大切なことは後悔しないことだと思います。茜ヶ崎様はどうか幸せになってくださいね」
 後悔しない。それは正しい選択をすれば訪れないものなのでしょうか?
 それ以前に、正しいということが私にはわかるのでしょうか?
 正しい。それが真実とイコールで結ばれるのであれば………。
「はい」


 自然と持ち上がった瞼。
 覚醒し、明らかになっていく世界。
「ん………っ」
 自然と声が漏れた。
 声は耳に迎え入れられ、頭が自分の声を認識する。脳はその声を少しだけ寝ぼけている声、と識別した。
 腕を持ち上げ、視界へと招き入れる。だが、時計をしていない。起きたばかりのため、手首の感触がなかった。いや、普段の時計の重さは確かにあった。
 しかし、その重みが手首だけではないことを知る。身体の至る所が疲労感から重い。特に今言った手首など。最も酷いのは左足で、捻挫していた。
 だがこの怪我は『今は』捻挫であり、昨日は骨折していたに違いない。
 幸か不幸か、これも特異な身体のお陰なのだ。小説などでよく使われている複雑な心境とは今の気持ちを表すのだろう。
上半身を起こす。両目を指で擦り、未だ僅かに晴れない靄のかかった視界を明瞭なものにしようとした。
誰か、いる。
「あ、すいません。起こしちゃいましたか?」
 真横から届いた声に首を巡らせ、捉える。見覚えのある服装。
「あれ、深篠さん……?」
 寝惚けている頭でも色で間違いなく、彼女の着ているメイド服だということは判別できた。どうやら机の上の整理でもしてくれているらしい。
「机の整理は自分でやるからいい―――………」
 ようやく、目が覚めた。
深篠さんとは違う異なった身体の線。白く、華奢で、出るトコは出ているという見事な曲線を持った女性の身体。
「そ、空!?」
 身体の重みが一瞬吹き飛んだ。驚きが身体を跳ね上げる。
「おはようございます」
 ウエイトレスのような特徴的な制服に、フリルの付いたエプロンが追加され、頭の上にはヘッドドレスが飾れている。深い青と純白は彼女に良く似合う。
メイドとなった空は微笑み、朝の挨拶を向ける。魅力的な笑顔は健在だった。どうやら主従関係要素は足されていないようだ。何故なら彼女が「ご主人様」と付け加えていないから。
「そ、そんなにジロジロ見ないでくださいよぉ………」
「あっ、ゴメン」
 事実、見とれていた。元々、LeMUの案内役を務めていた空だ。接客業の服装が似合わないわけがない。否、彼女ならどんな服も似合うだろう。
「わっ私は深篠さんがどうしてもって言うから仕方なく………」
 顔を赤らめ、弁解を始める空。
「大丈夫、よく似合ってるよ」
「………。あの、本当にわかってますか?」
 恥ずかしがりながらも怪訝そうに尋ねる。
「いや、全然」
 笑って首を横に振ると、空の顔が一変した。どうも冗談はわからないらしい。
「……昼食の用意を手伝ってきます」
彼女の発言によって、やっと時間の流れを掴むことができた。
仏頂面にも見える空の意外な表情に新鮮さを感じながら負けじとこちらも真剣な顔を作り上げる。
そして、去りかける細い腕を掴んだ。
「え?」
 真剣な表情に対して空は怯えとも取れる戸惑いを表す。
「その……1つだけ訊きたいことが………」
「な、何ですか?」
「空」
 明らかに緊張している彼女の名前を呼ぶ。
 そのまま一直線に見据える。腕を捕まえた手にも自然と力が入った。
「……はい」
 自分の疑問をぶつけた。
「もしかして、その下ってガーターベルト?」
「…………はい?」


「深篠さん、服無かったんですか?」
 部屋を出て、彼は深篠メイド長を廊下で見つけた。
「ご存知の通り、アレだけしか」
 珍しく無表情で答える彼女を彼も久々に見た。
「それは嘘ですね。宙―――いえ、母さんの服があるはずです」
ふっと優しく笑って指摘すると、素直に深篠は頭を下げる。
「……申し訳ありません。確かに、奥様のお洋服があります。旦那様から捨てないよう、きつく言われておりますので」
「父さん、か」
「はい。……あの時間でしたし、私の判断で奥様の服を拝借するのはどうかと……それに―――」
 そこで1度言葉を切る。普段の大きな声ではなく、風邪を引いた時のように小さな声。遠慮と躊躇いが感じられた。
「それに?」
「メイド長たる者が、私情を挟み込んで申し訳ないのですが……茜ヶ崎様を見ていると、私の娘に思えてしまいまして………」
深篠は泣いていた。
「……娘さん、生きていれば丁度彼女くらいですからね」
 メイド長の娘は5年ほど前に病気のためこの世を去っている。その子は生まれながらに心臓が悪かった。
交通事故で夫を失い、女手1つで娘を育てていた彼女を彼の父親がメイド長として雇ったのだ。何年か経つと母子共にメイドとしてこの屋敷に仕えていた。
「やっぱり、私もまだまだですね……。メイド長失格です」
 これ以上は流すまいと涙を拭い続ける彼女は、そんな自分を笑う。
「いえ、そんなことはないですよ」


ドアを2回一定の間隔で叩く音が響く。
「失礼します」
ロッキングチェアーに座り直し、読んでいた本にしおりを挟んでから机の上に置いた。そして眼鏡も軽く持ち上げる。
「……君、か」
 入ってきたのは空だった。メイドの姿をしていることには流石に驚いた。
「写真のことは、本当に申し訳ありませんでした」
 深々と頭を下げる姿が視界の中で過去の幻影と重なる。動作や仕草はほとんど変わらない。宙はメイドの格好などしなかったが。
彼女と宙は外見上全く判別できない。2人が並列すれば、非現実的な解釈では分身しているのではないかと錯覚し、現実的な解釈では双子という結論を導き出す者が多いだろう。
「良いんだ。君が気にすることはない」
 事情を聞いたところによれば別に彼女が海に写真を捨てたわけではない。
「でも………」
 辛い顔をした空は自分を責めていることは確実だ。これ以上、あまり深く考えてほしくない。
「それより、やはり君には接客業が向いているな」
「あ、いえ………」
「しかし、こちらの返事も待たずに部屋の中に入るものではないと思うが」
「す、すいませんっ!」
 再度頭を下げる。それも今度は物凄い勢いで。
「……同じだな。君は、宙によく似ている」
 生前の彼女の姿を思い出し、謝り方さえ似ていた。
「だって、私のお母さんじゃないですか」
 意外だった。
 まさか空からその言葉が出てくるとは思いもよらなかった。
「ああ、そうだな。だが2人揃って同じ過ちを繰り返し、そして謝り方まで一緒とは凄いことだ」
「あぅ」
 痛いところを突かれた空は俯いてしまう。
「こちらへ来てくれないか?」
「あ、はい」
 すぐ横まで歩いてきた。宙がいなくなってからもう永遠に叶わないと思っていた願いがやっと叶うことになる。
「手を……貸してくれ」
 差し出された手を両手で包むように挟み込んだ。柔らかい感触が時間の逆流を促進させ、空と宙を重ね合わせていく。
 目を閉じた。
「……俺は彼女を守りきれなかった」
 あの日、宙を見つけた時には手遅れの状態だった。
 彼女は笑顔でただ一言、『空を……よろしく、お願いします』とだけ残してこの世を去った。
 失って、初めて気付いた宙の存在の尊さ。気付けば生まれていた愛情。
 以前愛した人。そして次に愛した人。
俺は、生涯を通して2人の大切な人を守れなかった。
「…………」
 彼女は黙っている。しかし、目を開ければ宙が映るかもしれない。それだけで時間を越えることが可能なのだ。
「せめて、君だけは幸せに生きてほしい」
 空の手を握り締める。
 少しだけ、このままで。
 何処からか引き起こされる記憶。


「どうですか?」
 準備が整った宙が照れ笑いを浮かべて、訊いてきた。
 今彼女は純白のウエディングドレスに身を包んでいる。地面まで伸びる長いドレスは走るのには邪魔であることこの上ない。まず、走らないと思うがとりあえずそんなことを考えていた。
式は挙げなくても良い。けれど、2人が共にいた証を残したい。
それが宙の願い。
 だから、写真という形で未来に残すことにした。
「似合うよ」
 俺は気の利いた返事などできるはずもなく、着飾らない率直な意見を口にする。それは宙もわかっているはずだ。しかし、今日は一言で許されるわけはない。
「もしかして、それだけですかぁ?」
 つまらなそうに、子供のように、再び尋ねる。
 綺麗だと思った。
 目に映る何よりも宙が最も美しい。そして、その事実は今だけではなかった。
「それ以外に何て言えば良いのかわからない。一言で事足りると思うんだがね」
 片手をズボンのポケットに突っ込んだまま、余っている手で髪を掻き揚げる。軽く、溜め息を漏らした。
「もうっ!……えっと、あなたも素敵ですよ」
 怒ったかと思えば、すぐに微笑みを取り戻していた。そして、俺の何年振りかの正装を甘く評価してくれる。
「うん?……そういえば、こんな服を着ていたな」
 わざとらしく自分で身体の隅々を見渡していると、
「何ですか、それ。新しいジョークですか?」
 口に手を当てて、彼女は笑っていた。
「いや……、君があまりにも綺麗だったからそれ以外の全てを忘れてしまったということだ。一種の記憶喪失だろう」
 最近どうもクサイ台詞が増えてきたと思う。良いことなのかはわからない。けれど、宙が喜んでくれているのは明白でいて、確実なことには変わりない。
 当然だが、言った後に後悔することもしばしばある。それを気にしないでくれるのは彼女の優しさでもあるのだ。
「ふふっ、ありがとうございます」
 微笑む宙。今回はウケているのだろうか。普段も優しく受け止めてくれるせいか、読みきれない反応に俺は戸惑う。
「……まあ、良い」
 ウケているのかなど、そんな小さいことはこの際捨ててしまえばいい。要するに俺は彼女の笑顔が見たいだけなのだから。
「どうかしたんですか?」
 楽しそうな顔をして、顔を覗き込んできた。答える代わりに首を横に振る。
 心配ない、と。
「……I don’t forget forever this moment that is with you.(俺は君といるこの瞬間を永遠に忘れない)」
 そっと手を取る。
「Well, it’s also me.(そうですね。私もです)」
 手に、力が入った。


 眠っていた意識が目覚め、自分に掛けられた毛布に気付いた。
 それをゆっくりと退け、立ち上がる。
 今の彼には、窓から見える美しい夕日などどうでも良いことだった。代わりに優先するものがあったから。
彼は、自室の机の引き出しに手を掛け、1番奥に置いてある紙袋を取り出した。更にその中から手帳ほどの大きさをしたアルバムを手に取る。彼女との想い出が具現化されたもの。
ページを捲り、お目当ての写真を見つける。
 その写真は空が駄目にしてしまったものと同じあの写真。
「大切な物は、できれば同じものをもう1つ用意しておくものだ」
 そう言って苦笑いを浮かべた。


 電気を消している。
 暗闇の中で左右に開け放った窓の近くに椅子を置き、深く腰掛けていた。
 月と星が光を与えてくれている。
 再び、窓から冷たい空気が流れ込む。
 潮の匂いを乗せた夜風は身体に側面から衝突を繰り返している。心地良い風に心を許し、シャツのボタンを普段より1つ余計に外す。そうして生まれた空間に風も喜んで飛び込んでくる。
耳に届く気持ちいい潮騒。
潮風に触発されて蘇る舌に覚えのある塩辛い海の味。
 潮の香り。
 今なら目で風が見えそうだ。
 コンコン。
 もう聞き慣れたノック音。
「はい、どうぞ」
 音の後、すぐには返事しない。2秒間黙った後にドアの向こうの空へ言葉を放った。
 空と深篠さんとではノックの間隔や当たり具合などが全く違う。そして、それが見極められるようにまでなっていた。
「……今、わざと間を置きませんでした?」
 ドアを開けて入ってきた空の目は疑いの光を帯びていたのは暗闇の中でもわかった。
「いや、そんなことはないよ」
 どうにか冷静を保って切り返すと、それが解けてしまわないうちに身体を海に向ける。
「大学の方は大丈夫なんですか?」
結局空はあれから3日間、屋敷でメイドとして働いた。
彼女は深篠メイド長の元で、食事・洗濯・掃除などの与えられた仕事を完璧にこなしていった。
 働き振りは眼を見張るものがあり、深篠さんにいたっては「仕事が減って楽には楽ですけど………」と苦笑してしまうほどだ。
すっかりメイド姿が板についてきた空は僕の横にまで歩み寄り、心配そうに尋ねてくれた。優しい心遣いに苦笑いで頼りなく答える。
「何とか」
「本当ですか?」
 更に深く追求をされ、僕のことでこれ以上は心配させたくない。
「連絡も入れてありますし、それに僕なんていなくても何とかなりますよ」
 今度は上手く笑顔が出てきた。薄暗い闇の中でお互いの目が合う。
「それなら良いんですけど………」
 軽い溜め息を吐くと彼女は窓の外へ目を移し、風を浴びた。
 溜め息が耳に残ったがそれを放棄して空の顔を見つめる。月明かりを浴びていないのにも拘らず白い彼女の顔は、闇の中でも浮かび上がるくらいに美しい。思わず見とれた。
 気付かれないうちに視線を逸らす。
「あの、貴方にどうしても訊きたいことがあるんですけど」
 同様に外を眺めていると空が話を振ってきた。思いがけないことだった。
「何?」
 すぐには返答が訪れず、沈黙が徐々に広がって部屋を支配していく。何とも表現し難い奇妙な感覚だ。そして、聞き返してしまった自分には相手が話し始めるのを待つしかない。
 だが、これで空を見つめる理由ができた。
「どうして……私をここに連れてきたんですか?」
 見ることに専念していた僕はこの質問にロックが解除される。
いつかは必ず聞かれると思った質問。
「はっきり言わせてもらいますけど、私には意図が掴めません」
 僕を見ずに、悲しく断言する。いつもは優しい声がこんな言葉を放つと、逆に重みが感じられた。
 今の空に誤魔化したところで意味はないだろう。いや、誤魔化すつもりは毛頭ない。
 だから正直に答える。
「別に……意図なんて無いよ」
「じゃあ、どうして……?」
 帰ってくる反応は予想とは違った。
 空がやっとこの話題の中で視線をくれた。けれど、眉根は寄せられて答えが出ずに困っている様子。
 今度は僕が俯いて、視線を外す。
「空が、悲しそうだったから」
「え?」
「僕のせいで随分辛い思いをさせてしまった。それに、色々と教えておきたいことがあったから……それじゃ駄目かな?」
「……私は、貴方を好きになってはいません………」
 わかっていても何とも痛い一言だ。できれば聞きたくなかった。
「それでも良いよ」
 思いがけない言葉を自分の聴覚も捉えてしまう。一体何を考えているのかと、他人事のように心配になる。
「……どうして?どうして貴方はそんなに……この間とは違うんですか?別人みたいに」
 空の今にも泣き出しそうな声が耳に残り、心を締め付けた。
 別人、か。
 ここにきて、椅子から立ち上がる。月光を受けていた身体が空を包む闇に取り込まれ、闇を共有した。
 僕の見下ろす視線。
 空の見上げる視線。
再度、重なる。
「はっきり言うよ。僕は君が好きだ」
 微笑んで言い切った。
 何かを言おうと口を開きかけた彼女を言葉で抑え込む。
「でも、これからで良い。僕のことを好きになってくれるのはこれからで良い」
 意外な反応が現れた。空は驚いている。
「強引過ぎたんだ。相手の気持ちも考えず、ただ自分の感情ばかりを優先して。だから待つことにした。空が僕のことを好きになってくれるのを」
 言葉とは裏腹に、身体が動いてしまった。
 1歩踏み出して、空を抱き締める。


「振り向かせることが、大切じゃないってわかったんだ」
 耳元で囁かれ、身体が奥から熱くなってきます。
 矛盾している言葉が今はそれほど気になりませんでした。
「ズルイですよ……こんな体勢で、そんなこと言われて………」
 苦し紛れに漏れた声。顔が赤くなっていくのを自分でも感じられます。
「別人になったわけじゃない。必死に感情を抑えていたんだ。制御するのに苦労したよ……でも、空に嫌われるのは御免だったから」
 堪えていたのでしょう。彼の言葉が長い間溜め込まれていたものだと感じ取れました。
 何もわかりません。
わからないのだったらわからないままでも良いのですか?
新しく何かを見つければ良い?
「―――良いんですか?」
「え?」
 彼の服を握る手に力を込めます。
「本当に……これからで、良いんですか?」
 何かに痞えていたせいか、声が中々出てきませんでした。それを振り切って声を絞り出します。
「……ああ、良いよ。君が愛し始めてくれるのなら……いや、そうでなくても僕が………」
 私を抱く手に力が注がれました。
これは、新しい恋なのでしょうか。
目の前にいるのは、愛してくれる彼。
私はゼロから歩み始めるのです。


 朝食を食べ終えてから空の荷物を車に運び込むと簡単に挨拶を済ませ、3人に見送られながら屋敷を後にした。
 深篠さんは予想通り泣いた。僕との別れと、娘のように思っていた空が行ってしまうが故だ。
 久此木さんは「お気をつけて」とただ一言。
 父さんは……何も言わなかった。たった1度目を合わせただけ。けれどそれだけで事足りたと思う。
「………ぅんっ」
 空が声を漏らす。それを聞いて僕はスピードを落とした。
 例によって、隣では天使が寝息をたてている。やはり寝顔が魅力的で何度も何度も何度も何度も横目で窺った。
 交通事故の原因で2番目に多いのは前方不注意によるものらしい。
 寝顔が原因で事故を起こしたなんて、彼女の寝顔は何と罪なのだろう、などと冗談を考えてみる。
 これから、何回彼女の寝顔を見られるのだろうか。それ以前に空は僕を愛してくれるのだろうか。
 眼鏡を指で軽く持ち上げた。切り替える時には最適な行動。
 けど、待つと決めたのだから待ってみせる。
 この想いが消える前に………来てくれることを願う。
「あ、そういえば―――」
 思い出した言葉を言うために前置きを用意した。
「僕の本当の名前、まだ教えてませんでしたね………」
 彼はもうタケシではない。
 ゆっくりと口を空の耳元に持っていく。まるで、耳にキスをするように。
 空を起こさないように、そっと囁く。
「――――――」
 それはこの世を意味し、はっきりとした明らかなものだった。


END




あとがき


 未熟ですね。
 切り替えの多い点や無駄に説明のあるところ。
 切り替えは自分の書きたい視点を割り当てたので、旦那様が増えたので細かくなってしまったわけです。読みにくい思いをさせてしまい、すいませんでした。
 内容の矛盾なども気になります。おかしい点などありましたら言ってください。
 
意外な人物が出てきましたね。
その1『久此木さん』
いや、執事を書いてみたかったんです(爆)

その2『深篠メイド長』
こういう年配のメイドさんがいてもいいかなぁ、なんて。

その3『旦那様(笑)』
とにかく35にしては若々しく見え、且つ渋い。
20という若さで結婚し、現在は35の中年でありながら10年前に妻に先立たれ、24の宙と結婚してしまった時々クサイ台詞を吐く人。作者の趣味の表れかもしれません。かなり、入ってますね(爆)

その4『宙さん』
 イメージ的には空そのままです。やはり24歳。

そして、武似の彼の名前を考えてなかったわけではありません。
実は『あの人』の名前を使わせていただこうかと思いましたが、ここまできてしまったら使わず、読み手も空も僕も(ォィ)知らないままで突っ走るのも手かな、と思いました。
 しかし名前を設定していないと彼の父親も含んだ場合は第三者視点で書くのは困難になってきますね〜。本当に(多分)苦労。

 遂にきましたよ。念願の!メイド空っ!(叫)
 さんざん出しますとか言っておいて中々出てこないから、ね。自分もちょっと心配だった(ぇ
 イメージは明さんのメイド空です。
 あのメイド服ならお屋敷にもピッタリですし。
 あ、勿論帰る際にメイド服は深篠さんに返しましたよ。もう拝めませんね(泣)

 実はおまけもありますので、そちらにこのSSの自分的な感想は書かせていただきます。
 ではでは。




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