Apocrypha 作 とおか |
2035年夏 A・poc・ry・pha [しばしば単数扱い] 1 [the 〜] 聖書外典(がいてん), 外典,アポクリファ 典拠を疑った新教徒が旧約聖書から除いた14編 2 典拠[真偽]の疑わしい文書. ギリシャ語「隠された,秘密の」の意 研究社 新英和・和英中辞典より抜粋 硬い音を響かせながら、キーボードを叩く。CUIの黒い画面に白い文字を追加していき、画面に表示された文字列があらかじめ設定された合言葉(コマンド)になったところで、エンターキーを叩いた。 少し待っては、オプションパラメータをセットした、新たなコマンドを実行する。 彼女がエンターキーを叩く度に、彼女の愛機であるデスクトップコンピューターは1秒間に気が遠くなるほどの演算を行って、画面に情報を出力する。 何回か返された文字列を読むと、一流のハッカーは負けを悟った。 倉成沙羅。高校生。世界レベルの能力を持つハッカー。性格はやや強情。高飛車。と、そんな形容詞が当てはまる彼女は額の粘い汗を肩にかけていたタオルで拭った。 完全なる敗北だった。友人とデータの互換性を保つために大衆向けのこの世界で最も普及したオペレーティングシステムと、アップデートされて間もないソフトを組み合わせたのがそもそもの間違いだったのか。快適な操作のため大量の設定ファイルを手動で書き換えたのが問題だったのか。 原因はわからないが、少なくとも彼女のメインシステムはその能力を新型コンピューターウィルスに完膚なきまでに叩き潰された。彼女のプライドも。 泣きたかった。早く風呂に入って寝てしまいたかった。 だが、そうするわけにはいかない。彼女はバックアップマシンを立ち上げ、自らソースコードレベルのチューニングを施した世界最強と言って間違いないであろう、オペレーティングシステムにroot権限でログインした。 外で、夜の蝉が鳴いていた。 「ウィルスにやられたぁ〜?」 素っ頓狂な声をあげたのは、沙羅の友人で同じハッキング同好会に属する少女。 ここ、ハッキング同好会の部室は蒸している。勿論エアコンは大量のマシンから放出される熱量に対処すべくフル稼働していたが、水冷クーラーや部員が持ち込むペットボトル飲料などが湿度の増加を招き、なにより人口密度1平方メートル当たり二人の狭い感覚がそうさせていた。暗い部屋の床には情報スパゲッティなる灰色のコードがトラップの如き量で這っており、その中を猛スピードで情報が流れている。それを足で切断した場合どんな被害を齎すか、それに対する緊張感も半端ではなかった。 「そうなの。全く――」 自己嫌悪が沙羅を襲う。 「バックアップは?」 「とってたけど――」 「とってたけど?」 そういう問題じゃないの、と言おうとしてやめた。ハッキングとは名ばかりでBasicを少し使えるくらいの彼女に今の自分の心情などわかっては貰えないだろう。そんな事を考えるくらい沙羅はナイーヴになっていた。 「アホが。調子に乗るからそんな事になるんだ」 と、今一番聴きたくない声が聞こえた。 平戸亮。同学年でハッキング同好会に所属する男。沙羅とは犬猿の仲。沙羅に悪態をつくのは日常会話であったが、問題はその正当性ではなくより酷い言葉を選ぶ彼の習性にあった。これが口先だけの薄馬鹿野郎ならまだしも相当なプログラミングテクニックと数学的思考を持つ人間だから始末が悪い。 ハッカーと呼ばれる人間にも得手不得手はあり、オールマイティーなものなどいない。ネットワーク関係をその主軸とする沙羅に対し、平戸は物理シュミレーションやMPEG変換などの特殊なプログラムが得意であった。両者も相手のスキルが高いということだけを理解しており、その実質的な評価は誰にも下すことができない。 元々身長と体重を戦わせるようなものだ――とは平戸の弁であるが、正にその通りだった。 「己の能力を過信したり、少しでも楽な方へ逃げようとするからそんなことになる」 続ける平戸。 反論はできない。データの互換性の問題など問題に値しない。データを解析し、それを読み込めるようにしてしまえばいいのだ。それを面倒だと思い結果を呼び寄せたのは間違いなく自分の責任だった。 円滑なファイル共有関係を――などと言った瞬間平戸の罠にまんまとかかり「それがお前の専門だろう」とツッコミを入れられてしまう。ここは耐えがたきを耐えるしかなかった。 が、沙羅の脳髄にも予測出来ないことはある。 「いっつも沙羅に難癖ばっかりつけて。あんたなんか人の苦労も知らないでLinuxをバリバリ改造したOS積んでるじゃない。そのせいでファイルサーバに上げるファイルにどれだけ気を使ってるかわかってるの?」 と、友人の彼女が言った。彼女としては正論なのだろうが、沙羅にとっては迷惑この上ない。 「シリコングラフィックスのワークステーションを有効活用するにはIRIXやLinuxといった目的に特化して利用できるOSが不可欠なんだ。あんたがつかってるような玩具じゃ話にならないんだよ。テキストファイルはベタもしくはtexのソースファイル、htmlのどれか、画像はJPEG等の一般的な形式でアップロードする。プログラムはJAVAで組むかソ−スファイルを添付して各々の環境でコンパイルする。あんたが俺に楽させようと思って毎回ファイル形式を変換してくれるには感謝してるが、そんなことしている暇があるなら自分のスキルを取得しろ」 このように正当なことは正当なのだが聴く相手の気持ちを考えず現実を貫くように言うのがこの男の救い難い欠点だった。 結果彼女はぶーたれてしまった。 平戸がここにいる理由は沙羅の知るかぎり2つある。1つは平戸自身が高速な回線を使用するために来ていると語っており、もう一つはここが女子高だった頃に在籍していた田中優美清秋花菜が彼を拘束しておくよう命じているからだ。優秋の目的はわからないが、戦略家の彼女がなにも考えずに自分にストレスを与えるはずはないと沙羅は思っていた。 食卓の上に載った冷やしトマトを箸で挟んで口の中にいれる。冷蔵庫で長時間冷却されたそれは火照った脳髄を冷やしてくれるようだった。 「沙羅、今日は珍しく僕のクラスに来なかったね」 「それは珍しいな」 ホクトと武の会話に気づいて返事をする。 「うん。ちょっとね」 気取られないような返事をするつもりだったのだが出てきたのはいかにもな科白だった。 「どうかしたのか?」 と、武。 「心配ないでござるよ」 いつもの自分を呼び出して答えた。 「あのテロリスト捕まったみたいね」 強烈な早食いで武が用意した夕食を平らげたつぐみがソファで新聞を読みながら言う。 「なんの?」 「ほら、去年の終わり頃に核ミサイルの発射コードを入手して大騒ぎになった事件」 「ああ、それか」 沙羅の意識からはつぐみの声もホクトの声も武の声も、フレームを通して見た下らないドラマの一場面の場繋ぎ的な会話にしか聞こえず、右の耳から左の耳に通り過ぎて行くようだった。 世界で恐らく最初にクラッカーというものを白日のもとに晒したクリフォード・ストールは、これほど思い悩んだだろうか。 彼の書いた本ではクラッカーを追跡するため政府機関と共同で逆探知を行ったとあるが――政府機関などに顔を覚えられるわけにいか無かったし、なにより沙羅のプライドが許さない。 沙羅の頭ではいかにして「敵」を捕らえるか。それだけが渦を巻いていた。 「今日さ、会社のコンピューターがウィルスにやられて大変だったんだよ」 その武の科白を聞いた瞬間、沙羅の意識は現実に復帰する。 「どんな?」 咄嗟に言葉が出た。 「ハードディスクがお釈迦になって大変。バックアップがなかったらまずかったな」 そう言って味噌汁を啜る武。 「沙羅のは大丈夫なの?」 心配そうなホクトの声。 「この免許皆伝の拙者が守っている限り安全でござる」 沙羅は白手袋をした手でゆっくりとドアノブを捻って、引いた。 正確には、引こうとした。 引こうとしたその瞬間沙羅の肩が叩かれた。 恐る恐る後ろを振り向く。そこには、平戸がいた。 「なにやってる」 沙羅は先ほどの同様を悟られぬよう、自信を持って答える。 「ここに入ろうとしてたの」 「家宅侵入は犯罪だぞ」 沙羅のマシンが被害を受けてから3日目。持ち前のスキルで彼女はウィルスを送りつけた相手の居場所――この雑居ビルに探し当てていた。武に続き優春のマシンも被害を受けたのに新型ウィルスの被害情報は全く入って来ない。それは間違いなく相手が自分たちを狙っていることを示していた。 そんなことを平戸に伝えると、平戸はズボンのポケットから小さな工具をとりだし、鮮やかに開錠して見せた。 「なに?その道具」 「ピッカー」 答えて道具を仕舞い、扉を開く。 「どうぞ」 静かに踏み込んであたりを見まわす。赤外線視力のある沙羅には人がいないことはすぐに確認できた。無論、警備会社の警報装置は解除した。赤子の手を捻るようだった。 部屋には巨大なラックが一つと、机と椅子、ディスプレイ。ラックにはサーバーらしきケースが積まれていてアクセスランプが時折瞬く。ディスプレイは一定の文字列をスクロールし続けていた。 沙羅は机に近づき、キーボードに向かった。 「おっと待った」 平戸の声が暗い部屋に響く。 「なによ」 沙羅は不機嫌に答える。平戸に道を開いてもらうとは。自分も落ちぶれたようだ。 「そいつは恐らくパスワードを間違ったり、電源を落としたりするとデータを自己破壊するプログラムが走らせてあるぞ」 手を止める。 「じゃあ、なんのためにここはある訳?」 「――いいか。非合法な活動をするには合法で巨大な隠れ蓑が必要なんだ。そこは中継地点に過ぎない。恐らく別の場所にあるサーバを経由してここにアクセスし、更に多数のチェックを通り抜けた者だけが目的のファイルにアクセスできるようになっている筈だ」 振り向いて答える。 「回線を流れるパケットを盗聴しても、その都度演算が変わる答えをやりとりしているのが見えるだけで本当の言葉は掴めないか――」 「そうだな。このシステムは単純だし、無数のダミーを作り出せる。お前を狙ったのならここはもう破棄されている可能性は否定できない」 「それって矛盾してない?使用されていないならデータを破壊してしまえばいいのに」 「普通の悪事ならな。だがな、これがお前に対する挑戦ならどうなる。お前のスキルをテストするためにやつらはわざと証拠を残した――フォックスハンティングってやつさ」 「それなら、挑戦するわよ」 沙羅は再びキーボードに向かった。 「頑張ってくれ、クラッカーさん」 「わたしはハッカー。クラッカーはここの持ち主よ」 「ライプリヒのシステムにクラッキングして、AIのプログラムを改竄したのは誰かな」 その言葉に驚き、振り向いてみると平戸はもういなかった。ただ、暗黒の蒸した空間が広がっているだけだった。 夜中に不意に目が醒めた。 外には夜の蝉の声が聞こえる。 身体中汗で濡れていて、タオルケットはベットの足の方に蹴飛ばされていた。 マシンは今だ動作中。 取り敢えず吸い出せるだけ吸い出した「敵」のデータを展開したいので、真面目に先ほどの状況を再現しつつヤバイ自己破壊プログラムを解除した。 中に入っていたデータは何らかのアーカイブと実行ファイル。恐らく実行ファイルでデータの暗号化を解除できるようになっている筈だ。ディスアセンブルを行ってプログラムを読み取る。 この手のプログラムには珍しく笑ってしまうほど簡単だった。 要するにパスワードが合っていればデータを展開してくれる仕組み。 これはディスアセンブラとバイナリエディタ、デバッガがあれば事足りる。 まず実行ファイルをディスアセンブラでアセンブラのソースにし、怪しげな部分にデバッガでブレークポイントをセットする。が、アタリが取れなかったのでステップ実行で対処することにして、一つ一つ実行して行った。 なかなか凝っていて、呼び出した先ですぐメインルーチンに戻ってきてしまうように見せかけて、スタック操作でジャンプしたりと奥が深い。が、沙羅にとっては朝飯前だった。 書いている人間がそれなりに用心深いため、データの展開中にも毎回別のルーチンでパスワードの正当性をチェックしている。そこで正当性チェックが取り出すメモリにいつも正当なデータが入っているよう細工して事無きを得た。 が、異様に時間がかかる。諦めて寝ることにした。 沙羅は真っ暗な天井を見て考える。 一体犯人は何者なのだろうか。 犯人像を推測してみる。 1つ、かなりのプログラミングテクニックがある。 沙羅が構築したシステムを完膚なきまでに叩きのめした点からも、それは予想できる。大衆向け普及OSといえどもその最新バージョンには強力な防護能力がある。 1つ、人に舐めてかかる傾向あり(もしくは何らかの理由があって誘き寄せている) あれほどのウィルスを製作するのに、データ――平戸によれば餌――のプロテクトは単純だ。平戸の言葉を信じるなら、なめられていると言ってよいであろう。 1つ、LeMUのことを知っている可能性大 攻撃対象は知る限り、あの忌まわしい記憶に残る事件に関わった人だけ。 わかった。平戸だ。 単純過ぎる答えだが――それを否定する要素が何もない。が、憶測で攻めこんで間違いだったりしたら底意地の悪いあの男に糾弾されることは決定であろう。 そこまで考えて、沙羅は再び眠りに落ちていった。 酷く暑い。 身体中からだらだらと流れて行く。 もう夕暮れだというのに。 沙羅は、つぐみと共に武が電話で指定してきた食材の買出しに向かっていた。が、黄昏の時間になってもまだ、暑かった。 何故これほどに暑いのか――。 日本の典型的な夏の気温を無視して、どんどん暑くなっていく。湿度も異常に高い。湯の中を歩いているような気分だ。 沙羅はまだよかった。つぐみは対紫外線防護として長袖とロングスカートというスタンダードスタイルを築いていて、端整な顔立ちに大量の汗がへばりついている。 もちろん、折に触れてハンカチで拭いてはいたが、噴出量に対してのハンカチの表面積と吸収率は低すぎた。 脱水症状になる可能性もある。 そう考えて口を開きかけたとき―― 「倉成!」 聞き慣れた声が聞こえた。 マウンテンバイクに跨って、平戸がこちらを向いていた。 「なんだ、平戸か」 平戸は黙って、つぐみを見ている。 「お母さん?」 つぐみに手を差し伸べて訊ねる平戸。 その手につられるように沙羅がつぐみを見ると、つぐみもまた硬直している。 肘でつぐみを突ついた。 「あ、倉成つぐみです」 と、やっと慣れてきた挨拶を行うつぐみ。 「平戸、平戸亮です」 「ハッキング同好会の」 補足する、沙羅。 「大丈夫……ですか?」 つぐみに平戸が訊ねる。見るとつぐみは完璧に消耗していた。 「沙羅、ごめん。ひとりで行ってきてくれる?」 「う、うん」 じゃ、と会釈して帰ろうとするつぐみ。 「あ、ちょっと」 平戸がつぐみを呼びとめる。 背中のバッグから、ペットボトルの清涼飲料を出してつぐみに渡す平戸。 「熱中症、怖いですからね。頭冷やすんでも、飲むんでも使ってください。まだ封切ってませんから」 「いいの?」 「もちろん」 ビニールの袋を取り出してボトルを入れ、手渡す。 つぐみは2リットルのボトルを頭に当てて、気持ちいい、と呟いた。 「じゃ」 平戸は呼びとめる間もなく、自転車で黄昏の街に消えていった。 「あ、松永さん」 昔の名前で呼ばれて振り向くと、すっかり板についたスーツ姿で茜ヶ崎空が立っていた。 「空、お買い物?」 「はい、今日も田中さんと桑古木さんお泊りだそうで。食材の買出しに来ました」 「わたしも」 隣で胡瓜の吟味を始める空。 「義体の調子はどう?」 「ええ、この前のドライバの更新で随分また改善されましたよ」 元々RSDで目に映されるだけだった空の姿は、義体――サイボーグとして現実化されている。 「先輩のお母さんのマシン、直った?」 「はい、一応。わたしのバックアップも大丈夫です。松永さんの方は?」 潜入のことは伏せておくべきだろう。 「なんとか、ね」 家に帰って、マシンの様子を見ると、データのデコードが終了していた。なんだか、焦らすためだけに無駄に時間を食っているとしか思えない。 出てきたのはテキストファイルだった。 開いてみる。 h 2x2 1x1 3x2+1 0 3x2 5x3 3x2 1x3 3x2+1 2x1 3x2+1 3x3 3x2+1 0 3x2 4x2 - 3x2 1x1 = 2017-2034 diff 45678901234567 (x0 14789(16)) h 3x2 2x2 3x2+1 4x2 3x2x+1 2x2+1 3x2+1 5x3 3x2 3x1 3x2+1 3x3 3x2 3x1 印刷して考えてみることにした。 まず最初のh。変態のhかハイパーのhか考えるが、コンピューター人間ならこれはHexのhだ。となると、4行目にhがあるということは3行目は1部を除いて、16進数でない可能性が高い。 xが乗算の意味なら2行目と5行目は次のようになる。 4 1 7 0 6 15 6 3 7 2 7 9 7 0 6 8 - 6 1 この数列では15だけが2桁になっているので、1桁にするため16進数にしてみる。15=Fだ。-は減算の可能性もあるが、ここはバイナリエディタで繋ぐ記号を指していると考えてみる。 すると、 Apocrypha となった。=で繋がっている数列はあの時間を表している。 「アポクリ、ファ?」 この際意味は放棄して、3行目に移ってみる。 diffは差分の事だから、なにかの差分を現しているのだろうが、全く意味がわからない。 無視して5行目へ。先ほどと同じ要領で展開すると 6 4 7 8 7 5 7 F 6 3 7 9 6 3 で、 dxu.cyc となった。 意味不明。となると、3行目の差分を展開し5行目を更新することで解けるのかもしれない。 もう一度3行目に戻って検証する。 diffの次のブロック、即ち45678901234567は、最初の123が抜けている。これは123を排除せよという意味かもしれない。だが、5行目でこれを行うと567が余ってしまう。ので2行目に適用する。 ここで注意するべきなのは適用した2行目の桁数が5行目と同じになるということだ。そこから考えると、diffのあとに数字が続いていることから、次の数列を然るべき位置に当てはめろ、ということになる可能性がある。 ならば文字列は Apodxu.cyc となる。 意味不明。やはり、(x0 14789(16))を展開しなければならないようだ。 今日も朝から酷く暑い。 武が休んでいるのでつぐみは機嫌がいいが、沙羅とホクトにとっては余計気温が高く感じるだけだ。 更に、優春と桑古木と空、ココや優秋までもうちに遊びに来ていた。 ココの電波ギャグの相手をするのは沙羅とホクト、優秋の役目だったが、沙羅は飽きて台所に来ていた。 台所では武が人参や林檎を洗って切っている。 武の料理好きが新たに生み出した、休日の趣味だった。 中古品を購入した、武の玩具――ジュースマン2がスタンバイ状態で仕事を待っている。このマシンはジューサーという野菜や果物から水溶性食物繊維を取り出すマシンだ。ジュースマン2は強力でメロンの皮も切り裂く強烈なトルクのあるモーターを搭載している。 武はこのマシンで大量の新型ジュースを生成し、カスを庭でつぐみが育てている植物の肥料にしている。新型ジュースはおいしいときはまだしもまずい時は最悪だ。無論、人体実験の対象となるのは沙羅とホクト以外の誰でもない。つぐみは「武、あたしに、そんなことしないよね。そんなひどいこと……しないよね」 等と言って危機を免れている。そして、無言の圧力で沙羅とホクトに強制するのであった。 しかし、今日は安心できる。何故なら武は最も安定した人気を誇る基本の基本、林檎と人参のジュースを製造しているのだから。 その時、携帯電話がなった。 沙羅は携帯電話を取り出して、届いたメールをチェックする。 ○△町■■丁目XX 差出人のメールアドレスは――2017-2034+diff。差出人も同じ。 「お父さん」 ジューサーを稼動させていた武が手を止め、こちらをふり向く。 「どうした?」 「ちょっと、行かないと」 「なにかあったの?」 と、つぐみ。 「ウィルスの送り主」 「なんですって!」 血相を変えて優春が立ち上がる。そのまま沙羅の手から携帯電話を掴み取り、液晶画面を見た。 「行くわよ、桑古木」 桑古木が立ち上がる。 「田中さん!」 空が止めようとするが無視して台所に向かう。 「つぐみ、あなたも来て。倉成、あんたも。優!」 優秋も既に支度を整え――片手にはホクトが――、ここもやるぞーってカンジで待機している。 沙羅は勿論行くつもりだ。 辿り着いたのは小さなビルだった。1階は駐車場になっていて、横に小さな階段がついている。 駐車場に桑古木が運転する車を勝手に駐車し、桑古木は熱い車内で撤収の準備。 沙羅は額の汗を拭って、階段へ向かった。 ゆっくりと階段を一段一段踏みしめる度に、汗が噴出す。振りかえると、大部隊が列を成してついてきていた。沙羅は階段の一番最後まで上りきり、扉を開けた。 クーラーに冷やされた部屋に入ると、一瞬にして汗が冷却される。皆もそこへ入り、一時の涼しさを楽しんだ。が、油断はおけない。終始無言のまま、先――白いパネルで区切られた迷路――へ向かった。 遠くに端が見える。遠すぎる。ここは外見よりずっと広いようだ。 武が沙羅の横に並んだ。 「俺から行く」 そういうと武は歩き出した。それに続いて歩き出した瞬間――武の姿がぐらりと歪んだ。 何が起こったのか理解できない。歪んだ武はまるで奈落の底へ落ちていく様に道の奥に吸い込まれて行く。 「武!」 つぐみが叫んで沙羅を突き飛ばす。沙羅はその身体をパネルに手をつくことで支えようとした――が、沙羅の腕はパネルを貫通する。 殿の優春の後ろにシャッターが降りた。突然に変化する事態に対処できず、皆が戸惑う。 まわりに見えないシャッターが閉じ始めた。閉じる音がするだけで、その姿は見えない。大量の疑問を持った矢先に天井から降り注ぐ白い煙。 沙羅のその意識は急速に現実から遠のいて行った。 視界が開ける。 沙羅はピントの合わない視界を調整するため、目をこすった。暗い部屋だ。かすかにCPUファンの音がする。まわりを見渡すとこの部屋を照らし出すモニタと――平戸を確認した。 「おぅ、目覚めたが」 平戸がこちらを向いて言った。 「ここ、どこ?」 ケケケ、と薄気味悪く笑って、平戸はモニタに向かう。 モニタを覗け、という平戸の嫌らしい合図だった。 重たい身体を立ち上げて、モニタを覗き込む。平戸に身体を預けると言う考えただけでも身の毛のよだつ状況を阻止すべく、机に両手をついた。 モニタには幾つかのウィンドウが散らばっていて、そのなかの1つは全体的に緑がかった――恐らく暗視鏡を通した――映像が映されていた。 小さな部屋に倒れているつぐみ、ホクト、優親子、空、ココ。 驚いて息を小さく吸った沙羅は、平戸の顔を覗きこんだ。 「大丈夫だ、キュレイだろう?」 落ちついて答える平戸。 「それをどこで!?」 無言のまま平戸はキーボードを叩いて、新たにウィンドウを開く。 ウィンドウには空と武が対峙しているのが確認できた。 平戸は続けてキーボードを叩き、スピーカーから音を出す。 「…………してこんなことをしたんだ!」 武のその言葉からは怒りが滲み出ている。 「……………………」 空は、中に浮かんで黙っているばかりだ。 「どうしてこんなことをしたんだ!」 今度ははっきりと聞こえる。 「倉成さん、わたしはプログラムです」 空の答えは静かだった。 「どういう意味だ」 「倉成さん。わたしは、この嘘の平和が許せないんですっ!」 「嘘――?」 「嘘、じゃないですか」 「空、説明してくれ」 「…………倉成さん。あなたは、小町さんと結婚しましたね」 「…………ああ」 「倉成さんはわたしの気持ちだって知っているんでしょう?」 「………………ああ」 「田中さんの気持ちだって知っているんでしょう?」 「………………ああ」 「それなのに、それなのに倉成さんは――今の状況を平和だと信じたがっている」 「充分平和だけど」 「こんなに酷い状況なのにそれでも?」 「平和だよ」 「そんな筈ない!」 「強いて言うのなら今この状況は平和とは言い難いけどね」 「それはそうですが………」 「いいかい空。今までの時間に比べたらこの1年は実に平和だったんだよ。そうは思わないのかい?」 「そうですけど……」 「空や優のことなんかわかってる。でもね、これが平和なんだよ」 「嘘の平和じゃないですか」 「空……空は人間になりたいんじゃなかったのか?人間はね、不条理でも受け入れていくことができる、そういう生き物なんだよ。いや――そうじゃなければ人間じゃないんだ」 「…………」 「あんなに理屈っぽくてすぐ怒る優が、このことに触れないのも彼女が完全な人間だからだ。俺はな、会社人間として毎日出勤して、家に帰って家族で飯を食って、ゆっくり家で寝て、休日はみんなで出かけたり、趣味のジュースを製造したり、庭の雑草をむしっていたい。それが、平和なんだよ」 「やっぱり――」 「空はそんな事わかっていたんだよな。少し耐えられなかっただけだよな」 「倉成さんはわたしの心までも殆ど見通してしまうんですね」 「そんなことはないけど――空、このRSDはどうしたんだい?」 「でも、見通しきれなかったみたいです。――倉成さん、テロリストに核ミサイルの発射コードを売りつけたのはわたしですよ」 「空!」 暗い部屋で沙羅は驚きを隠せずに叫んだ。 「そんな――」 驚愕するのは武も同じだった。 モニタを通してもその驚きを感じ取れる。 「倉成さん。わたしはこのためにアメリカ国防総省(ペンタゴン)のシステムに侵入して発射プログラムを書き換えたんです。書き換えたプログラムではたった10桁のコードを圧縮して送信するだけで発射管制が送信したコンピューターにうつるようになっています。その見かえりとしてこのビルを貰ったんですよ。 わたしはわたしのせいでこの世界を壊すつもりはありません。テロリストは何も知りませんから、情報局は出所を知ることはできませんよ。わたしが少しの演算を行うだけで――どこにします?第3次世界大戦の最初の戦火をあげるところは。50年程昔ならロシア……ソヴィエトですが、今ではどこがいいと思います?するつもりはありませんけど――。 わたしはこの世界に実体化しました。わたしは虚構の存在でなくすべてが認める現実になって、情報の海を征して文字通り世界の全てになったんですよ」 「倉成、この暴走したAIを停止させろ」 「え!?」 突然の平戸の指示に沙羅は驚いた。 「こいつはロボットではないが、その知能はロボットと同じだ。アイザック・アシモフの「われはロボット」にロボット3原則というのがあるのは知っているか?」 「え、うん」 「このAIはそれに反している。それ以前に――彼女には管理者が存在しない」 「うん」 「お前がこのプログラムを停止させ、彼女に管理者を設定して、この狂った思考を削除し、プログラムを洗い直せ」 「…………」 「どうした、免許皆伝」 「わかった。どいて」 沙羅はキーボードに立ち向かった。 「今世界に流れる情報の全てはわたしの中にあります。倉成さん、わたしはあなたに恋をしていました。でも、それが否定された今、わたしは人間としての生きる意味も失ってしまった」 沙羅は凄まじい速度でキーボードを叩く。 「違うぞ、空!」 お父さんを助けなければ。 「違わなくなんかありません!わたしは所詮抜け殻に送り込まれた意識でしかありません。そして意識であるならわたしは無限の世界を自由に行き来できます。抜け殻に入っていれば意識は人間により近くなっていくことができます。でも、目的がない以上制限の存在する人間で居続ける必要はありません。わたしは無限の世界に多数の自分を作り出して、自由に生き続ける事ができます。そして、わたしは自分自身の死さえもコントロールできます」 空を助けなければ。 「削除するのか!?」 空は大事な友達だ、みんなの。 「いいえ。多数の自分が同時に死を望むことは有り得ません。わたしは自分を複製するときに複製にある情報に関する制限をかけます。それを入手する方法にも」 空はネットワークと言うものの魔力に魅入られているだけだ。 「何に、かけるんだ。制限を」 そう、物語の指輪に。 「核ミサイルの発射コードにです。わたしは自分自身の死を望むとき、どこかのディスクに留まります。そして、その上空で核ミサイルを爆破させます。そうすれば、強力な電磁波によってわたしは消えることができる」 「科学忍法分身の術!」 沙羅はエンターキーを叩いた。 「行けるか?」 「うん、きったなくてみっともない方法だけどね。Dos攻撃よ」 「きたなくてみっともない方法だな」 「うん」 スピーカーから出た音が空気を切り裂いた。 「システムに高密度なアクセスを確認。Dos攻撃と思われます。自己保存プログラムアクティブ。ポート80を遮断。現時刻をもってポート80からのアクセスは―――システムに強力な負荷を確認、処理速度追いつきません。システムの保護を再優先にするため原因のプログラムを強制終了。ネットワーク関係のプログラムに原因を確認、強制終了します」 「自分で自分の首を締めやがった」 平戸はそう言って壁に取り付けられたボタンに手をやった。まわりは黄色と黒のストライプのシールでかこまれて、カバーがかけられている。 「なんのスイッチ?」 「あんたの親父さんには悪いが――夢だったことにしてもらう」 平戸は、スイッチを押した。 武達を中継していたウィンドウは白い霧に包まれた。 「あ…………」 沙羅は短く声を漏らした。 「俺はもう行くぜ」 驚いて振り向く。 「行くって、何処に?」 平戸は扉に向かいながら答えた。 「もう、会うこともないな」 「ちょ、ちょっと!」 「お土産に、ヒントを置いてってやろう」 そう言ってポケットから封筒を取り出す。 「5行目は俺と嘗てのお前たち、2行目は今のお前達だ」 封筒から手を離す平戸。 沙羅は慌ててそれに向かって、拾い上げた。 出ていった平戸を呼び止めようと思い、扉を開けると―― そこには、ただ喉かに、川が流れていた。 対岸には廃工場が見える。 空には灼熱の太陽。 空気は身体を厚く覆った。 平戸は消えた。 「消えちゃったの。あいつ」 優秋は驚きながら言った。 「はい」 ストローで残った氷を突きながら沙羅は答えた。 「そっか――」 「なっきゅ先輩」 「何?」 咥えたストローを落としながら答える優秋。 「なっきゅ先輩はどうして――平戸を引きとめておいたんですか?」 優秋は窓から庭を眺めていた。 金髪が太陽の光を反射している。 「カンよ。面白そうな予感がしたの」 つぐみが台所から答える。 「あの男の子?」 「うん」 「消えちゃったんだ――どこかで見たことがあるような、そんな子だったんだけどね」 平戸が残した手紙には 電卓 とだけ書かれていた。 なにをすればいいのかわからなかったが、とりあえず意味不明の3行目を電卓で足してみることにする。 「0はいらないから――次のところから読み上げて、マヨ」 「14789です」 「1.4.7.8.9――っと、あれ?」 「どうしました?」 「いや、なんかで読んだんだけどさ、ここ、見てごらん」 電卓を覗きこむ。 「液晶じゃなくて、テンキー」 「あ、はい」 「行くよ」 1,4,7,8,9。 「これが、なにか?」 「いい、押したあとを繋いでごらん」 7 8 9 4 1 「アルファベットのR?」 「そう」 「なら、このxと0、0をOにすると、排他的論理和!」 xor演算。排他的論理和。 「だとすると、16でxorしろってことじゃない?」 「ちょっと待って」 キーボードに立ち向かい、速攻でプログラムを書き上げる。 「dxu.cycをやってみて」 「はい」 「ええ、勿論。…………ええ、AIの行動を逐一感知していたのはやはり成功だったようです。怪しまれずに事を済ませることができました。証拠は彼等が自ら消してくれましたし。……………妄想は現実化するんですよ。…………それがキュレイでしょう?………………そう、例え新しい人類を作るなんていうとんでもないものでもね。……………はい。しかしあの男も隅に置けないですね。全てのものが王になる可能性を秘めているというのは良くないですよ。やはり、え?…………そうでした。神になる可能性を与えるわけにはいきません。…………勿論、わたしがなりますよ。……………まさか。…………………では、これで平戸という愛着のある名前ともお別れだ。……………ふふ。………では」 A・poth・e・o・sis [通例 the 〜] 1a(人を)神に祭ること,神格化; 神聖視,崇拝 b神格化されたもの 2 理想,極致; 権化 ギリシャ語「神としてあがめること」の意 研究社 新英和・和英中辞典より抜粋 作者注・生物学では自殺遺伝子の意も存在する。が、この物語には関係しないであろう。 |
あとがきみたいなもの 疲れた〜。捻った話は伏線に辻褄を合わせるのが大変です。ま、Ever17のシナリオを書いた方はもっと大変だったそうですが(当たり前だ)。 Never7やってないんで、かなり無茶が繰り広げられている可能性があります。すいません。それどころかEver17の設定さえも無視している可能性大(ぉ。 暗号化の方法などについては充分に検証していますが、作者がアホなのもまた事実なので間違いあると思います。 まぁ、大目に見てやってください。これはApocryphaなのですから(逃げる)。 それにしてもココって毎回出てきても一言も喋らずに消えていきますね。ココが嫌いなわけじゃないんですけど。 感想、文句、ツッコミ、「意味わかんね―よ!」等は是非教えてくださいね。特に一番最後についてはミスの訂正も含めお答えしますので。 次があれば、そのときはどうぞよろしく。 |
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