作者の脳内では、前作「たったひとつ、大切なもの」のサイドストーリーとなっておりますが、あまり関係ありません。
 というか……。




旅路
                              豆腐 





 時間が必要だった。
 静かに何かを見つめなおす、時間が。



「いらっしゃいませ!」
 その浜茶屋に入って最初に耳にしたのは、明るくはっきりとした少女の声だった。
 カウンターの向こうで笑顔を浮かべているその少女に、涼権は一瞬目を奪われる。彼女が美しかったとか、気に障ったとか、そういう事ではない。ただ、よく知る……十七年間想い続けていた少女に印象が良く似ていたから。
(ええい、未練がましい!)
 胸中で吐き捨て、涼権は何も無かったかのように奥の席に向かった。席につくと同時、テーブルにグラスが置かれる。氷が鳴った。運んできたのは、当然あの少女。
「ああ……早いね」
「どうもですっ」
 ポニーテールが揺れる。年の頃は……十二、三というところか。小学生から中学生程度。
「ご注文がお決まりになったらお呼びくださいね」
 想像していたものより厚いメニューを置いて、少女がすたすたとカウンターに戻っていった。その背中から、外の水平線へと視線を移す。海は穏やかだったが、さすがにこの時期、海水浴に挑むような猛者はいないらしい。綺麗な、素の海だった。
「綺麗ですよね」
 視線を戻す。すぐ隣りに少女が立っていた。暇なのだろうか。
「綺麗ですよね?」
 聞いてくる。暇、なのだろう。
「……ああ。綺麗だな」
「何度か来てるんですか?」
「いや、初めてだけど」
「わたしは十回目です。毎年のように来てるんですよ」
 おや、と思った。近所に親(たぶんこの店の店長)と住んでいるのだろうと勝手に推測していたのだが、どうも違うらしい。
「お父さんと?」
「お父さんと、お母さんとです」
 少女が笑う。口の端にえくぼが浮かんだ。
「お母さんがこの店の店長さんと古い知り合いで、よく連れて来られるんですよ」
「それで、その三人はどこに?」
「店長さんは知りません。というか、まだ一度も会ったことなくて。お父さんとお母さんは近くの別荘に友達がたくさん来てるとかで、お店の事ほったらかしにして行っちゃいました」
「無責任な話だな」
 子供を置いていくなんて。
「二人とも普段はしっかりしてるんですけど、昔の友達と会う時だけは子供みたいに……。まったく情けない話です」
 ため息をはさみながら、彼女は言った。親を悪く言われて気を悪くするという事はないらしい。というか、冗談の加減みないなものを理解しているのかもしれない。第一印象よりもずいぶん大人なようだ。とすればその親も、なるほど彼女の言う通りよくできた人物なのかもしれない。
「……じゃあ、サンドウィッチでももらおうかな」
「へ?」
 素っ頓狂な声をあげる少女。しばしして、
「あ、ああ。注文、ですね?」
「よろしく」
 どうも話をしているうちに自分が店員である事を忘れていたらしい。接客に慣れているわけではないのだろう。
 ふたたびカウンターに戻って行く彼女の背中。
 料理が来るのを待つ間、涼権はふたたび海の方へ視線をやった。相変わらず波打つその雄大な海原は、様々な事を思い起こさせる。そしてそれはおおむね嫌なモノ。
 十七年。ただひたすらに長い年月。今後の長い人生を思えばそう大した事はないのかもしれないが。
 皮肉に口元が吊り上がる。ずいぶんと自虐的になったものだ。中身まではなりきれなかったらしい。
(いつも思ってた……)
 計画についての話をはじめて聞かされたとき。彼女の妄想に過ぎないのではないかと、そう思った。だが彼女のあまりにも必死な様子に、もしかしたらと……そう考えるようになっていった。
 しかしやはり。いつも心のどこかで猜疑心は顔をのぞかせていたのだ。そんな馬鹿げた話、あるはずがない、と。とはいえ、涼権が計画を降りるなどと言えるはずもない。彼女の努力を間近で見ていたのだから。あの地位を手にするまでの彼女の努力は、まさに死に物狂いと呼べるものであった。それはたぶん、想い人のためというよりは、人としての責任だったのではないだろうか。彼女は知っていたのだ。あの黒づくめの孤高の女性が子を産み、失い、失意の日々を送っていた事を。そして、二人の人命。責任と罪悪、彼女は幾度苦しみに身悶えたのだろう。
「優……」
 思わず呟く。と、
「ゆう?」
 ハッと振り向く。少女がそこにいた。
 彼女の両目が見開かれる。それから慌てたようにポケットをさぐり、ハンカチを差し出してきた。
「こ、これっ」
「……あ」
 そこで、自分が泣いていた事に気づいた。
 二十歳以上年下の女の子にハンカチを借りるというのもなにやら気恥ずかしく、涼権は服の裾で目元を拭った。
「あの……」
「ん?」
 顔をあげる。少女は頬をぽりぽりと掻きながら、言ってきた。
「男の人は泣いちゃいけないって……お父さんが言ってました」
「…………」
「でも、お母さんは」
 何を思い出したのか、彼女はえくぼをつくった。
「若い時は泣けるだけ泣いたほうがいいって……言ってました」
 つまり、励ましてくれているのだろう。
(二十歳以上年下、か)
 何か小さなくさびが抜け落ちたような、そんな気がする。
 涼権はできるだけの笑顔を作った。
「ああ。ありがとう」


 どうしようもない日常。
 ただ怠惰な日々を送る。
 責任も重圧も無い。
 誰からも馬鹿にされ。
 それでも笑っていてくれている。
 そんな人が、いてくれるなら。


 カウベルの音と少女の声。それらを耳にしながら、涼権は店を出た。
 風が吹いていた。海の風。悲しい風。
 彼女の顔が見たい。自然とそう思えた。
(……そうだな。歩いて帰ろう)
 いや、
(走るか)
 両手に唾を吐き、なんとなくクラウチングスタートの体勢。横目でちらりと店の方をうかがう。ガラス張りの扉の向こうで少女が口を丸くしている。『ルナ・ビーチ』と書かれた看板は古びて、今にも落ちてきそうだった。
「さらばっ」
 決意を固め、足を踏み出す。地面を蹴るその一瞬後には頬が風を感じていた。髪が浮く。年甲斐もなく興奮した。
 早く、早く……
 何かを振り落とすように、
 世界を置き去りにして、
 ただ前へ。


   End





 あとがき

 三十代。俺が言いたいのはそれだけです。
 では、読んでくださった方々への最大限の感謝と共にっ。


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