気がつくと、ベッドの上で上半身を起こし、本を手にしていた。
前後の記憶が欠落していたが、寝ていたわけではないようだ。
「あれ?」
頬に異物感を覚えて手をやると、かすかな湿り気が指先に移った。
「泣いていた・・・?」
覚えがない。だが何か、胸にしこりが残っている。
顔を洗おう、と思い立った。もうすぐ学校が終わる時間だ。
彼女が来るかも知れない。こんな顔は見せられない。
いそいそとベットから這い出る。
が、浮き立つような感情は、突如蘇った今朝の記憶に地の底まで叩き落とされた。
「おまえ、彼女のなんなんだよ」
顔を洗う手を止め、水道の蛇口をきつく閉めた。
彼女が来たら言わなければいけない。
・・・来なければいいと、今日だけは思った。
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控えめにドアが叩かれる。
「奈津美です。正樹くん、起きてる?」
「ああ、起きてるよ。」
「失礼します」
後ろ手にドアを閉め、奈津美は病室を見まわした。
「何度みてもすごい部屋だね。また本が増えてない?」
正樹の病室は、一面本で埋め尽くされている。
本棚には収まりきらず、一部は床の上まで侵食していた。
積まれた本の林を抜け、奈津美はベットのわきの椅子に腰掛ける。
そこは彼女の指定席だった。
正樹は答える。
「昨日と変わってないよ」
「そう?だって昨日まで絵本なんて置いてあったっけ?」
「絵本?」
心当たりがなかったが、彼女が指差す先には確かに絵本が裏返しに広げられていた。
それは先ほど彼が手にしていた本だ。タイトルは「百万回生きた猫」。
「悲しいおはなしだよね・・・」
「ああ・・・」
タイトルにも内容にも覚えがないが、そう答えることにする。
胸騒ぎがした。やや強引に話題を変える。
「受験勉強はどう?順調?」
「うん、まあまあかな。あははっ」
「・・・」
嘘だと知っていた。
「それでね、先生がみんなにお守りをくれたんだよ。願いがかなうお守りだって」
奈津美は鞄の中をまさぐり、目的の物を探り出した。
「ほら」という声に、涼やかな音色が重なる。
それは赤い紐の先にくくりつけられた、小さな鈴だった。
「・・・安っぽいな」
正直な感想を述べる。
「あはは。そうかもね。でも先生は、この鈴に救われたっていってた。
強く願ったことは真実になる。これはそのきっかけだ、って」
「ふーん」
気のない返事を返す正樹に、もうひとつ同じ鈴が差し出された。
「はい、正樹君の分。先生から預かってきたの」
半ば反射的に受けとってから、正樹は戸惑う。
これが合格祈願のお守りならば、自分に受け取る資格はあるのだろうか?
「はやく病気、治るといいね」
奈津美がほほえむ。この笑顔に、何度救われただろうか。
「ああ、そうだな」
「正樹君はたくさん本を読んでるし、私より頭もいいし、
退院できたらすぐにでも受験できるよね」
そして、その笑顔にどれだけ苦しめられただろう。
「・・・今日は塾の日だろう?時間はいいのか?」
「あっ、そうだね。それじゃ、そろそろ私行くね?」
「ああ」
席を立って、スカートの裾をなびかせ、ドアノブに手をかけたところで、
彼女は振り向いた。
「あのさ、明日も来ていいかな・・・?」
彼女が見舞いに確認を取るのは、実は初めてのことだ。
いつも勝手に来ていた。正樹は歓迎も拒絶もしなかった。
それは甘えだ。だから、言わなければならない。
「・・・迷惑だ。もう来ないでくれ」
「・・・!」
奈津美が鋭く息をのんだ。
切り出すことができれば、あとは簡単だった。
「いつも俺の気も知らないで・・・学校の話とかっ・・・
受験の話とかっ・・・!」
「ご、ごめ・・・」
「自分で勉強しても、みんなに追いつけるはずない!
病気だって悪くなる一方なのに!」
「わたし・・・知らなかっ・・・」
「こんなとこに来る暇があったら自分の勉強してればいいだろ!」
「・・・ごめんなさい・・・」
ドアが乱暴に開け放たれる。くぐもった嗚咽を残し、彼女は病室を後にした。
「・・・これでいいんだろう?勇治・・・」
ぐったりした体をベットに投げ出し、正樹は呟いた。
今朝、学校が始まる前のことだ。珍しく奈津美以外の来客があった。
正樹と奈津美のクラスメイトである勇治は、彼女がクラスで孤立していること、
成績がどんどん落ちていることを告げた。
もちろん、それは彼女がここに来ているせいだ。
勉強の時間も、友人との付き合いも、全て犠牲にして、
彼女はここに通っていたのだ。
「彼女はおまえが好きなんだろう。それはかまわない。けどな、」
「おまえは彼女を幸せにできるのか?」
勇治はいいヤツだった。そしてこんなにも奈津美のことを想っている。
自分には未来がない。だから、奈津美は別の道を歩むべきだ。
・・・彼になら、あるいは。
「・・・くっ!」
突然、全身を激痛が貫いた。いつもの発作だった。
だが、いつものように堪えることができない。
「・・・なんだ、・・・そうだった・・・のか」
自分の力で耐えていると思っていた。
でも、失ってはじめて気づいた。自分を支えていたものは・・・。
「ぐ・・・、く、そ・・・・・・・・・・っ!」
自分の体が変質していくのが分かった。筋肉がギチギチときしむ。
関節が悲鳴をあげる。
腕が、足が、口が、獲物を狩る獣のそれに近づいていく。
医者や家族がひた隠す自分の病名を、正樹は本から学んでいた。
「変異性遺伝子障害」
詳しいことは現在の医学ではわかっていない。
クローンをはじめ、過去に遺伝子を操作した人間に見られる症状だ。
筋肉や知能の異常な発達。強暴化、原因不明の突然死。
ヒトゲノムが解析され、クローンが生まれ、遺伝子治療が当たり前になった。
それは、人が神の領域を侵した報いなのかもしれない。
「高橋君?大丈夫!?」
なじみの看護婦が、異常を察知して駆け寄ってくる。
「森野、さん・・・っぐああああっ!」
彼女の年の割に幼い顔を見上げた瞬間、ありえない衝動が脳髄を侵した。
カノジョを食いたい。
あたたかな血をすすり、柔らかい肉を噛み千切り・・・
「高橋君っ!?しっかりして!」
「やめろぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
叫んで、彼女を突き飛ばした。
その軽い体が宙を舞い、壁に叩き付けられ、動かなくなる。
「ああ・・・あああああっ」
理性がどんどん蝕まれていく。自分が自分でなくなっていく。
窓を見る。それは通常より遥かに強度の優れた強化ガラスだ。
だが、今の自分ならたやすく叩き割ることができる。
八階から飛び降りれば、今ならまだ、死ねるはずだ。
迷いはなかった。自分があまり長く生きられないことはわかっていた。
遺伝子にそう刻まれている。覆すことはできない。
なら、これ以上誰かを傷つける前に。
正樹は、最後の意識を窓に向けた。
そこに、光があった。
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闇の中にいる。
他になにもない。体もない。心もない。
なら、本当はいないのかもしれない。自分なんて。
でも、声が聞こえる気がする。
これは彼女の泣き声だ。
ー嘘つき!先生の嘘つき!−
先生は悪くないよ。
ー私願ったのに!正樹君が良くなるように、一生懸命!−
しかたないんだ。運命だから。
ー私のこと嫌いでもいいから!私の命と引き換えでもいいから!−
「正樹君を生きかえらせてよぉぉぉぉっ!」
鈴が、かつてない高音を放つ。それに同調するかのように、
心臓が、
跳ねた。
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一人目はマズかった。やはり病人など食うものではない。
二人目は看護婦にした。これはあたりだ。だがまだ足りない。
一度死んだせいで、何もかもが足りていない。
生きていくのに必要なもの。血と、肉と、正常なDNA。
三人目がやってくる。学生服の少女。若いのはいいことだ。
「正樹君なのね・・・?」
おかしなことだ。
「私のせいだね・・・」
この小娘、怖くはないのか?
ゆっくりと近づく。逃げる様子もない。
「いいよ、食べても」
言われるまでもない。
そのやわらかな肉に牙を、
「ごめんね・・・」
垂れ下がった腕から、鮮血にまみれた銀色のしずくが滑り落ちて、かすかに空気を振るわせた。
その瞬間、何かがはじけた。
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気がついたときには、周りを武装した警官が囲んでいた。
そして自分の足元には、血まみれの彼女が、奈津美が横たわっていた。
「・・・嘘だろう?」
ゆっくりとひざを折り、血だまりから彼女の体を抱き上げる。
冷たかった。
「あんまりだよ・・・」
双眸から、熱いものがあふれる。
その時、人垣を割って一人の女性が現れた。
「危険だ!近づいちゃいけない!あれは化け物だ!」
若い警官が制止を呼びかける。
女性は毅然とした仕草で振り向き、告げる。
「いいえ。彼は私の生徒です」
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優夏は正樹に歩み寄っていく。
もう誰も止めることはできなかった。
間近にせまっても、彼は泣き続けていた。
「正樹君」
呼びかけると、彼はゆっくりと優夏を振り仰いだ。
「・・・先生、こんなはずじゃ・・・、こんなはずじゃなかったんです・・・」
「うん、わかってるよ」
優夏は正樹をそっと抱きしめる。
「ぼくは、どうしたら・・・どうしたらいいのか・・・」
「どうしたいの?」
やんわりと、優夏は尋ねた。
「鈴は持ってる?」
「・・・はい」
「なら、願ってごらん。そして信じるの。君は何を願うの?」
「彼女に、生きていて欲しいです・・・」
「うん、それから?」
「ぼくは、生き続けることはできないから」
優夏は息をのんだ。
遺伝子に死を刻まれた彼は、妄想ですら生きられないのだ。
「だからせめて、生きている間だけでも、彼女と、一緒に・・・」
優夏は彼を抱きしめたまま、顔をクシャクシャにして泣いた。
「・・・うん」
悲しかった。
「・・・そうだね」
どうして彼らは、自分の愛する人たちは、こんなにもやさしいのだろう。
優夏の初恋の相手も、彼と同じ病に侵されていた。
その人知を超えた力で、燃え盛る炎の中から何十人もの人間を救い出して、死んだ。
そして、彼と同じ雰囲気を持った男性は、別の特殊な力で、苦しみながら自分を救い出してくれた。
今度は自分の番だ。優夏は思った。
「鈴をしっかりと持って」
「はい・・・」
「目を閉じて」
「はい・・・」
「次に目を開いたら、あなたは・・・」
声が、遠くなっていく。
鈴が、鳴り響いた。
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気がつくと、ベッドの上で上半身を起こし、本を手にしていた。
前後の記憶が欠落していたが、寝ていたわけではないようだ。
「あれ?」
頬に異物感を覚えて手をやると、かすかな湿り気が指先に移った。
「泣いていた・・・?」
覚えがない。だが何か、胸にしこりが残っている。
顔を洗おう、と思い立った。もうすぐ学校が終わる時間だ。
彼女が来るかも知れない。こんな顔は見せられない。
彼女に、言わなければいけない事がある。
====================================
たくさんのことを話した。もらった鈴のこと。先生のこと。クラスメイトのこと。
「それでね、智也君ってばね・・・」
そして、長い時間が過ぎて、正樹は切り出した。
「・・・今日は塾の日だろう?時間はいいのか?」
「あっ、そうだね。それじゃ、そろそろ私行くね?」
「ああ」
席を立って、スカートの裾をなびかせ、ドアノブに手をかけたところで、
彼女は振り向いた。
「あのさ、明日も来ていいかな・・・?」
ついに来た。
すうっと息を吸って、答える。
「迷惑だ・・・と、思う」
「え?」
「奈津美にとってここにくるのは、かなりの負担になってると思うんだ」
「正樹君・・・」
「でも、わかっていてもやっぱり・・・来てくれると嬉しい」
奈津美は口元を抑え、息をのんだ。
「ここに入院して、最初はみんなお見舞いに来てくれたけど、すぐに誰も来てくれなくなった。
受験生だし、しかたないって思ってたけど、それでも、」
「寂しかったんだ」
奈津美が嗚咽をもらす。
「寂しくて死にそうだった。死にたいと思ってた。でも、君が来てくれて。毎日のように来てくれるようになって」
「嬉しかった」
「正樹君・・・」
「奈津美が来てくれるときだけ、俺は生きているって実感した。約束なんかしてないくせに、
たまに来てくれないと恨めしく思った。自分のいないところで君がだれかと笑っているのかと思うと、
くやしくてしょうがなかった。・・・勝手な話だよな」
奈津美は、何度も、何度も、首を振った。
「そんなことない、そんなことないよ。・・・嬉しいよ。わたしのこと、迷惑じゃないかって、
ずっと思ってて、私が来ること、少しでも、よろこんでいて・・・くれたらなあ、って」
あとは、もう、言葉にならなかった。
「・・・ありがとう」
奈津美は正樹に抱き着いて、大声で泣き始めた。
彼女を抱きしめながら、正樹はもう一度誓うのだ。
彼女と共に生きる。この命尽きるまで。
どこか遠くで、鈴の音がかすかに、聞こえた気がした。
END |