-twilight memory-
第二章 淡い雪の降る場所で……
作:暇人(八坂 響)



 どこまでも青い空。所々に浮かび、ゆるゆると涼しい風に流されて行く白い雲。気持ちいいほどに見事な晴天。そんな日だった。
「……遅いな……真琴」
 ここは町の出口。大きな半開きの門がそびえたつその片隅に、彰はつい最近手に入れたばかりのZZ-Rにもたれ掛かりながら、一人独白する。資金援助を渋る父親を説得し、なおかつ自分の貯金を全てつぎ込んで入手したバイクだ。ちなみに彰は無免許だが、そんな事は今時親ですら気にはしない。要は確かなテクニックと自覚さえあればいいのだ。
 時刻は十時五分。約束の時間を、既に五分オーバーしている。
 ――あの几帳面な真琴が遅刻とは、珍しい……
 彰の知っている真琴とは、待ち合わせ時間の三十分前には待ち合わせ場所にいて、勝手に待ち時間を延ばしておいて文句を言うような少女だ。
 だが、真琴も人の子だ。遅刻ぐらいはするだろう。そう考え、もう少し待つ事にした。
 ――そういえば今日は、年に一度『桜雪』が降る日だったか……?
 それは年に一度、この季節の横浜で、この日の夕方にたった一時間だけ降る、桜の花びらのような形をした雪。秋の盛り――今日は、太陽暦でいうところの十月上旬――とはいえ、この地方のこの時期に雪が雨にならずに降ってくるなど、異常気象としか言いようがない。
 ――ひょっとして、真琴が今日行こう、って言い出したのも、そのせいかもしれないな……
 そんな事を考えながら。
 が、さらにもう十分待っても、真琴は来ない。
 ――どうしたんだ、真琴……?
 だんだんと不安が募る。この物騒な世の中だ。何かあったのかもしれない。
 ――もう十分待ってこなかったら、迎えに行くかな。
 そう決めた。
 そして時は過ぎ去り、あっという間に十分後がやって来た。真琴はまだ来ていない。
 ――仕方ない。迎えに行くか……
 彼がバイクにまたがろうとしたちょうどその時――
「彰ぁ!」
 自分を呼ぶ声がする。そちらの方を向いてみると、真琴が息を切らしながらやってきた。
 いかにもよそ行き風の服装で、背中にリュックを背負っている。胸元には、日の光を反射して輝く銀のペンダント。いつも通りラフな格好の彰とは大違いだ。
「お弁当作ってたら、遅れちゃって……
 ――ごめん、待った?」
 不安げな表情をして、駆け寄ってくる。普段、人を待たせる事がないため――いや、二人の場合に関しては、彰の方が待たせる側のため――どうも緊張しているようだ。やや上目遣いに、こちらの方を済まなさそうな瞳で見つめてくる。
 思わず笑みがこぼれる。弁当作りに手間取ったというのが人を待たせておいた理由なのだから、何とも真琴らしく可愛くもあった。
「およそ三十分ほどな。今日は形勢逆転だ。後で何かおごれよ」
「もう、彰の意地悪!いっつもあたしの事平気で待たせて、何にもおごったりしてくれなかったじゃない!」
 彰の軽口に眉をつりあげ、怒る真琴。緊張は案外あっさりとほぐれた。
「冗談だって。ほら、さっさと行くぞ?」
 そういって、真琴にヘルメットを投げ渡す。
 ――それが、長い一日の、始まりだった。

 ――あれから、三日が過ぎた。
 目を醒ました彰は、ベッドの中で寝返りをうち、身じろぎした。瞼が妙に腫れている。寝ぼけたままで目をこすり、洗面所の方へ歩いて行き、顔を洗う。
 部屋に響いているのは、蛇口から流れ落ちる水音だけ。あとは静寂が満ちている。
 先日潰した組織のボス――といっても、腕っ節が強いだけで、頭の悪い男だった――を昏倒させ、街の警察に引き渡したのが昨日だ。市長から夕食の招待を受けたが、それを辞退し、報酬だけを受けとってそのまま宿に帰り、怒りも収まらぬ内に寝た。
 怒りの原因――それは、夕食の招待だった。
 それは決して、彼がスパーズであるが為に敬遠されたから、と言う理由からではない。そんなものには慣れてしまったし、第一、彼らには自分の二つ名を明かしてはいない。ただ、旅の掃除屋とだけ言ってある。彼がスパーズである事すら知らないはずだ。
 彼は昨日一日で、それこそ十人や二十人のどころではない数の人間に、大なり小なりの差はあるが、かなりのケガを負わせている。その苦痛を彼は全て感じた。意識が拡張され感受性の強いスパーズたちは、強い思いならば故意に意識しなくとも感じてしまう。強い思い――その最たるものが人の苦痛、そして断末魔だった。そんな状況で夕食の招待など、とても受ける気にはなれなかった。
 表向きは特に何を言うわけでもなく、冷やかな怒りに任せて市長の家を飛び出した。
 亜紀は――なぜか顔色が少し悪かったようだが――ちゃっかり招待を受けたようだ。もっともそれは彼の知った事ではない。彼女とは今回きりの間柄。彰は今日の昼、ここを発つ。次の依頼が昨日の夜、急に入ってきたのだ。
 ――依頼……仕事……
 綺麗にたたまれていたタオルで顔を拭きつつ、彼は心の中で呟いた。ベッドに腰掛け、傍らに放り出されていたサングラスをかけ、天井を見上げる。染み一つない真っ白な天井。仕事を依頼された時、頼みもしていないのに、市長がわざわざスウィートルームを手配してくれた。
 こういう場所はどうにも落ちつかない。彼は別に下町の安宿でもよかったのだ。むしろそういった微かな喧騒に包まれた場所の方が落ちつく。
 ――否。妙な事を考えずに済む。思い出さずに済む。
 ――また、仕事か……
 そう思うと、やるせない気分になってきた。そしていつしか、人を撃つ事に慣れていく自分に気付く。いつかはこの感覚すら麻痺し、自分は人を殺す事になってしまうのだろうか。
 ――いや。俺はもう、人殺しだったな。
 ふと思い出し、自嘲気味に笑う。
 命が失われる事の悲しみを忘れていく自分がそこにいた。多くの命を傷つけている自分は――誰もが経験などしたくはない悲しみや苦しみを撒き散らす元凶だ。無意識のうちに、いつも肌身離さず付けているペンダントを、右手で握り締めていた。
 ――扉を叩く音に気付いたのは、いつだったか。
 少なくとも、一分や二分ではあるまい。物思いに耽っていた彰の思考が、現実に引き戻される。
「お〜い?まだ寝てるの〜?」
 ノックする音と共に、女性の声。聞き覚えがある。
 彰は簡単に身なりを整えサングラスをかけると、ドアの前まで行って唐突に扉を開けた。
「お〜い、あきぶッ!?」
「もう少し静かに……ん?」
 最初からまともに相手をするつもりはなかった。ドアを開け、注意して追い返す――つもりだったが、相手の姿が見えない。
「……どこへいった?」
「こ、ここよ……」
 声は、ドアの裏側から聞こえた。掴んだままのドアノブから手を離し、首だけで覗いてみる。
「……何してるんだ?」
「な、何してるんだとはご挨拶ね……」
 ドアに張りついたまま、亜紀は顔だけ彰の方に向け、疲れた声を絞り出した。よく見てみると、彼女はライダースーツに身を包んでいた。
「わざわざ起しに来てあげたんだから。こんな可愛い娘(こ)に起してもらえるなんて、幸せ者よ?」
「自分でいうか?普通……」
 赤くなっている鼻頭をさすりながら言う亜紀に、冷めた声で返す彰。
 そして――沈黙。
「――で?」
「…………?」
 短い沈黙を破ったのは、彰の方だった。
「なんでお前が、起しに来るんだ?」
「え?だってホラ、今日はこれからどうするのかなあ、って……」
「訊いてどうする?」
「ついてく」
 …………………………
 一瞬、彰は凍りついた。思考が停止し、頭が真っ白になる。
「………………何?」
「だから、ついてくの」
 彰の脇腹を小突く少女の顔には、笑顔が浮かんでいた。
「…………何で?」
「あんたについてくと面白そうだから」
 あっけらかんと、亜紀。
「待て。ちょっと待て」
 右手で亜紀を制し、左手をこめかみに当てて考える。
 面白い?そうだろうか?自分の行く先には、危険ばかりがある。それこそまさに、彼は刹那の瞬間に生きていると言っても過言ではない。少なくとも、戦いの中においては。
 あるいは、その危険に伴うスリルが忘れられないと、彼女は言っているのだろうか?だとしたら、彼女に対する評価を訂正しなくてはならない。彼女に対する評価。切れと反応速度は申し分ない。この稼業でやって行くには少し頭が足りない気もするが、それを補える誰かと組めば問題ないだろう。方向音痴も、パートナーがいれば何とかなるにはなる。ただ、自己中心的、楽観的という二つの欠点に、『愚か』であるという項目を足さねばならない。
 そして彼は、そんな人間をパートナーにするほど、愚か者ではない。
 ――だから訊いた。
「面白い……とは、どう言う意味だ?」
「言葉そのまんま。いや、違うかな……?多分違う……と、思う」
 即答し、曖昧に打ち消す。彼女自身、言葉が浮かばない様子だった。
「?言ってる意味が、いまいちわからないんだが……」
「うん。あたしにもわかんない」
 開き直る亜紀。やはり笑っている。
「でも、何て言うか……感じた」
「感じた?……何を?」
 何か引っ掛かりを覚え、問い返す。
「うん……はっきりしないんだけど……匂い、かな?」
「匂い?」
 やはり訊き返す彰。さっきから訊いてばかりのような気がする。
「そう……匂い」
 おそらくそれは、雰囲気などの事を言っているのだろう。知人か、親しかった人に匂いが似ていると、そう言っているのだろうと彰は解釈した。
「どういう……匂いだ?」
 興味からの質問。気が付いたときには口にしていた。
「そうだなあ……ラベンダー、かな?」
「――――――」
 思いもよらぬ言葉に息を呑む。動悸が早くなっている。その驚きは決して、花に例えられたという意外さから来たものではない。
 全く予期していなかった言葉が、彼の心を激しく揺さぶる。耳をすませば――少女の笑い声が聞こえてきそうだった。
 ――あの桜雪と、懐かしい香りに彩られ――
「……おーい、どしたの?」
「―――!」
 少女――亜紀の声に、我に帰る彰。
「いや……何でもない」
 知られたくないと思ったからか――それとも、自分の中に重圧として残る想い出がそうさせたのか――彼はとっさに、そう答えた。
 冷静さを保とうと――少なくとも顔には出すまいとして、いつもの調子で応える。動悸は、いまだに収まっていない。幸いな事に、サングラスのおかげであまり表情は見えないはずだった。
「……?そう?あんまり大丈夫そうに見えないけど」
「そうか?」
「うん。だってホラ、額に汗かいてるよ?」
 少女に指摘され、慌ててそれを拭おうとする。顔に出す以前に、汗をかいているなど論外だ。
「……ん?」
 シャツの袖を額に当て、汗を拭おうとして――おかしな事に気付いた。
「ホラ、やっぱり変。汗なんてかいてないよ?」
「―――!」
 はめられた。完全に。人の事を内心散々に評価しておいて、その『愚か者』にあっさりと騙された。焦りなど、理由どころか言い訳にもにならない。
「ホントに大丈夫?顔色もちょっと悪いみたいだし……あたし、なんか変な事言った?」
 頭は良いようだが、同時に鈍感でもあるようだ。自分の発した一言が原因であるなど、まるで気付いていない様子だった。
「問題……ない」
「ホント?」
 心配そうに、顔を覗き込んでくる。打算も何もない瞳。ただ純粋に、彰を心配しているだけのようだった。
「大丈夫だ」
 ややつっけんどんに言い放つ彰。だが、亜紀は――
「そう?じゃあ早速出発!」
 さっきまでの心配した表情などどこ吹く風。いきなりきびすを返し、彰の手を取って歩き出そうとした。そのあまりのいきなりさに脱力した拍子に手を引っ張られたため、彰はドアに頭を思いきり打ち付けてしまった。
「どしたの?頭なんかぶつけて。ヘッドバットの練習?」
「……違う」
 軽い目眩を覚え、頭を押さえながら、彰はかろうじて声を絞り出した。
「まだ俺は、お前をパートナーとして認めた訳じゃない」
「へ?何で?」
 ごく普通に訊き返してくる亜紀。
「何で、って……自分で考えろ」
 ドアの淵に持たれながら、疲れた声で、彰。
 だが、亜紀が答える様子はない。真剣にわからないようだ。
「……素性も何も分からないようなヤツを、仲間に出来ると思うか?お前は」
 ジト目で亜紀を見据え、
「しかも、これほどまでに鈍いヤツ……」
 付け加えた。彼女が発揮した先日の切れは、一体どこへ行ったのだろうか?
「素性、素性……免許証でもあればいいの?」
「……アテになるかよ、そんな物……大体、よくもってるな?」
 この時代、免許制度はいまだにかろうじて生きている。というのも、国家機能が最近になってやっと回復し始め、とりあえず警察が機能するだけの能力を取り戻したからだった。
 もっとも、どれほどの者が免許証を持っているかなど考えた事はない。無免許でもバイクなどを平気で乗り回す者は山ほどいる。もし仮に持っていたとしても、九割方は偽造されたものだ。そして今のこの国には、それを完全――どころか、半分ですら取り締まるだけの力はない。
「と、まあ……冗談はこのくらいにしておいて……」
 いきなり真顔に戻る亜紀。テンポについていけず狼狽する彰。どうやら今のは芝居だったようだ。もっとも、どこからどこまでが芝居なのかは、皆目見当がつかない。
「実は昨日の夜、急に仕事の依頼が入ってね。ヤバ目の内容なのよ」
「……それで?」
「で、出来れば手伝ってもらえないかなあ、なんて……あたしを含めて二つのグループ――っつーか人間に声をかけてるみたいなんだけど、知り合いは一人でも多いに越した事はない、ってね?」
「なんで俺が付き合わなくちゃならない?俺にも次の仕事の依頼がある」
 やはりつっけんどんに返し、部屋に引っ込もうとする彰。その腕を両手で引いて、引きとめようとする亜紀。
「いいじゃない。ね、お願い。報酬は一千万よ、一千万!二人で山分けしてもなんと五百万!おぉ、これは儲けたわねお兄さん!」
 上目遣いに、困ったような、甘えるような――そんな哀願する表情。保護欲をかきたてるそれは、普通の男相手ならば間違いなく必殺の武器となるに違いない。
「……お前がだろ。話逸らすな。素性を証明してみろ」
 だが、冷たく返す彰。実際、彰も人の事を言えた立場でもないのだが、亜紀にはそんな考えなど微塵もないようだった。すっかり彰の事を信じきっている。
「東京よ、東京?仕事終わったらさ、遊びまわったりとか……」
「人ごみは嫌いだ。大体、今の東京に娯楽なんてない」
「変な人に乗っ取られちゃったビルを奪回するだけだって。神の左手には簡単過ぎるくらいの――」
「――何?」
 亜紀の言葉に、彰ははじめて明確な反応した。
「……どういう仕事なんだ?」
「へ?だ、だから……乗っ取られた研究所を奪還してくれって……」
 戸惑いながらも答える亜紀。さっきまで無反応だった彰が、急に手のひらを返したように答えを返してきたのだ。驚くのも無理はない。
「東京か?」
「うん」
「依頼人(クライアント)の名は?」
「え、えっと……」
 さすがにこの問いを答えるのには、やや抵抗があるようだ。まだ協力するとも決まっていない人間に、依頼人の名を明かす事は出来ない。本当ならば、依頼内容を明かす事もタブーなのだ。
「……柴場、とかいう男か?」
「――!?何でそれを――」
 驚愕の声を上げる亜紀。
「あっさりバラしてどうする。そういう時は、黙っておくもんだろ?」
「うっ……」
 諭す彰に、縮こまる亜紀。ばつが悪そうに肩をすくめ、上目遣いに彰を見上げている。そして彰の次の言葉を待つ。
「実はな。俺も同じ依頼を受けている」
「………………へ?」
 今度は、亜紀の方が呆けた声を上げる番だった。あまりにも予想外な一言。彰の口から出てくるなど、まるで予想していなかった。
「お、同じ依頼って……じゃあ」
「だろうな。そのもう一組っていうのは、おそらく俺の事だ」
 絶句する亜紀。いや、おそらくそれが普通の反応だろう。この広い世の中で、こんな巡り合わせなど早々ない。偶然――それも、掛け値なしに低い確率を潜り抜けた偶然だ。
「驚いて声も出ないか?」
 苦笑するように、彰。
「そ、そりゃフツーは驚くわよ……もう笑うしかない、って感じね」
 亜紀はいまだに戸惑いを隠せないでいるようだった。そして終いには笑い出す。言葉通り、もう笑うしかない、といった表情で笑った。
 そして彰も――ぎこちなさはあったものの――笑っていた。自分でも気付かないうちに。それは当然、目の前で口を金魚のようにパクパクさせていた亜紀の顔がおかしかったからなのだが、亜紀の言う通り、あまりの偶然にただ笑うしかなかったというのもある。
「――あ……」
 そんな彰の笑顔に気付き、亜紀は小さく声をあげた。
「――ん?どうした?」
 口元を押さえ、いまだに小さく笑い続けている彰が問いかけてくる。その声には、さっきまでの突き放すような響きは微塵も感じられず――人間的な温もりに満ちていた。
「――なんでもない」
 こぼれそうになる笑みを押さえながら、亜紀は適当に言葉を濁す。
「?そうか……?」
 その態度を不審に思ったのか、眉を少しひそめる彰。が、すぐにきびすを返し、
「まあいい。仕事仲間なら話は別だ。よろしく頼むぜ、相棒?」
 彰は片手を挙げて、自分の荷物の方へ歩んで行く。
「適当に外で待ってろ。仕度をしたらすぐに行く」
「うん。おっけ」
 小さく頷き、ドアを静かに閉じる亜紀。
「………………」
 しばしの間、閉じられたドアを無言で見つめ――
「……やっと微笑った」
 満足げに呟き、下の階へと続く階段を駆け下りて行った。歩調が軽い。もう彼女の荷物はまとめて表のバイクと一緒においてある。
 だが、宿のドアを押し開け、表の通りに出ると同時に、彼女の満足げな表情は消え失せた。別に荷物が盗まれていたわけではない。バイクもちゃんとある。
 バイクの停めてある、さらに向こう――表の大通りに、大きな人の群れができていた。その中からは盛んに罵声と悲鳴が飛び出し、それがまた人を呼ぶ。亜紀が人ごみを掻き分けて群れの真ん中付近に到達した頃には、もはや前も後ろも見えない状態だった。
 彼女は直感で何が起きているのかわかっていた。そう、これは『狩り』なのだ。人の皮を被った化け物を狩り出すための、儀式。
「ちょっと!通してッ!」
 怒号の響き渡る中、彼女も負けじと声を張り上げ、人垣の中を掻き分けて行く。苦労の末、なんとか亜紀が人垣の最前列に辿り着いた時、彼女の視界にはあまりにも予想通りの光景が展開されていた。
 そこはちょうど、壁際に半円を描くようにして人のいない空間ができあがっていた。そこだけ人が極端に少ない。つまり、この円の中心にいる当事者達を、人々は野次馬していたわけだ。
 当事者達――四、五人ほどの金属バットやナイフなどの凶器を手にした若者と、身体中傷だらけになり、壁際にうずくまっている少年。
「オラ、立てよ」
 全身に生々しい血を浴びた少年の襟首を掴み上げ、金属バットを右手に引っさげている若者が凄んだ。
 その若者はおもむろに左手の拘束を解き――渾身の力で金属バットを少年の腹に叩きこんだ。少年の身体が吹き飛びそうになるが、すぐ後ろは壁だ。思いきり叩きつけられ、逃げ場を失った力が再び少年の身体に牙をむく。内臓にダメージを負ったのか、あるいは壁に叩きつけられた時の衝撃によるものか。少年は大量の血液を吐き出した。
 壁沿いに体がずり落ちそうになったところに、今度は別の若者のつま先が、少年の顔面を捉える。靴には金属板でも仕込んであったのだろうか、少年の頬が綺麗に避け、再び鮮血が迸った。
 あまりにもわかりやすい加害者と被害者の関係。だが、誰一人として若者達を止めようとしない。それには正当な――人間としての正当な理由があった。
 巻き起こる喚声。いや、正しくは歓声か。彼らはその光景に悲鳴を上げるわけでもなく、まして警察や病院に連絡をいれる者もいなかった。猟師は罪に問われず、獲物の手当てをする必要はないのだ。
 少年がまたうずくまる。そこで、再び喚声。だが、今度のそれは恐怖によるものだ。
 陰になっていていまいち判別しづらいが、彼の頬の傷が少しずつ、しかし目に見える速度で治っていくのがわかる。無傷な肉体が傷口を浸食しているかのような光景。
 そう、スパーズだ。この異常なまでの治癒速度は、スパーズである理由の一つ。人にあらざる化け物故に、その少年は狩られていた。
 また少年が吊り上げられる。若者達はこれで狩りを終わりにするつもりらしかった。その右手には鈍く輝くナイフが握られている。
「死ねよ、化け物」
 あくまで冷徹そのものの瞳で、若者はナイフを振り下ろした。ヒトとはここまで冷たく、残酷になれるものなのか。それほどまでに深い闇が、その瞳から姿を覗かせていた。
 しかし、次の瞬間血を噴き上げたのは、少年ではなく若者の方だった。ナイフを握った右腕と、そして頭が、血を吹き上げながら瞬時に切れ飛んだ。鋭利な刃物で切り裂いたというよりかは、強大な力で強引に引き千切ったという、粗雑で――それでいてどこか恐怖感を煽る傷口。確実に致命傷だ。
 その若者の身体は何度か痙攣し、少年から手を離すと、ふらふらと後ろ向きに人ごみの中へ倒れこんできた。すでに物体と化したそれは、今でもまだ脈打ち、赤い液体を撒き散らしている。
 今度は少年が別の若者へ視線を向ける。さっき少年を金属バットで打った若者だ。少年の瞳に宿る野獣のような狂気の光に身体がすくみ、彼らは一歩も動く事ができなかった。亜紀はその狂気の中に、隠し様もないほどの喜びが満ちているのを感じた。そう、少年は歓喜している。能力を振るう喜び。自分を虐げてきた人間を殺せる喜び。
 そして次の瞬間、また一つ物体が増えた。上半身と下半身が生き別れになり、そのまま二度と出会う事はない。ねじ切られた時の反動で、二つに割れた身体がまたもや人垣に飛びこむ。
 巻き起こる悲鳴。恐怖に慄き、大地をも揺るがすその声は、人が無力である事の証。そう、猛り狂える野獣に勝てる力など、人間は持ち合わせていない。それぞれが我先にと人波を押し退け、とにかく遠くへ逃げようと力が働く。
 亜紀はその流れに必至に抗っていた。あの少年は間違いなく、殺されるまで殺し続ける。それは防がなくてはならない。下手に暴れれば危険だという事くらい、冷静に考えればわかることなのだ。しかし少年は冷静さを失っている。なんとしてでも彼を止めないと――その想いだけが、亜紀にはあった。あの人と同じ道をたどる事だけはして欲しくなかった。
 だが、亜紀の想いも虚しく、少年はすでに三人の若者を殺していた。残り二人の若者のうち一人はもう逃げ出していたが、最後の一人は地面に座り込んでただ怯えていた。どうやらあまりの恐怖に、腰が抜けたらしい。
 少年は愉しそうに微笑っていた。そう、実に愉しそうに微笑んでいる。狂気と紙一重の穏やかな笑顔。不気味なまでに完成されたそれを顔に貼り付けたまま、少年は最後の一人の頭にそっと手をかける。
「や、やめ――」
 亜紀が声を張り上げようとした時、彼女の傍らを誰かが駆け抜けた。コートをなびかせて疾るその人影は、若者を一撃のものに殴り飛ばし、少年を突き飛ばす。
 ――え……?
 人影の正体は彰だった。彼はフィルタごしの視線を少年に注いでいた。おそらく亜紀の事など気付きもしなかっただろう。彼はしばし、少年と視線を交えていた。悲鳴と怒号の飛び交う中、二人の存在は妙に浮いていた。
 やがて彰は視線を外すと、懐の中に右手を入れる。身構える少年。次に右手が出てきた時、そこに握られていたのは少年の警戒していた拳銃などの類ではなく、小さな革袋だった。彼はそれを少年の方に放り捨てると、きびすを返して人ごみの中へ消えようとする。
「それで生きろ。生きて……償え」
 その一言だけを残して。無言で彰の背中を追っていた少年は――唐突に笑い始めた。片手で頭を押さえるようにして、天を大きく振り仰ぎながら、大声で笑っていた。彼の座り込んでいる地面には、いつのまにかいくつものしみが浮きあがっていた。
 亜紀はあの革袋の中身を知っている。先日の仕事の報酬だ。あの見た目の質感からすると、おそらく中身は手付かずのまま。
 亜紀は未だに笑い続けている少年を、何度も振り向き見ながら、宿の方へと小走りに駆けて行く。笑い声が絶える事はなかった。
 やがて人ごみが切れ、自分は泊まっていた宿が見えてきた。同時に、一つの人影も。
「……遅かったな。なにかあったのか?」
 彼女が宿の前に再び辿り着いた時、彼は何事もなかったかのようにそこにいた。
 亜紀の口から、思わず言葉が溢れそうになる。だが、そのどれもが正しくない。言葉とはどこまでも不完全で、人間はいつまで経っても未完成だ。結局――
「……ううん、なんでもない」
 偽りの笑顔と、偽物の言葉とで取り繕った。
 あの少年はあのままでよかったのか?この問いに間違いなく答えられるものはいない。だが、例えどのような説得を試みたところで、どれほどの金銭を恵んだところで、どれだけ好きに暴れさせたところで、少年の心の救済にはなり得ない。探すしかないのだ。自分自身の手で。納得のいく答えを。

 ――風が、駆ける。
 体の全感覚器からはっきりと感じ取れるほどに強烈な圧力と存在感を伴って、目に見えぬ風が彼のバイクの進行を食い止めようと必死の抵抗を試みている。が、それは無駄な足掻きだ。
 ――彼は、風となって駆けているのだから。
 ハイウェイをかっ飛んで行く漆黒のZZ-R。百五十馬力のパワフルなマシンは、ゆるゆると道を流しているエレ・カーやバイクを、巧みな運転でパスして行く。見ている方がひやりとする程に荒っぽく強引な運転だが、事故を起こさないのはつまり、ドライバー――彰が確かなテクニックを持っている事の証拠でもある。ノーヘルというのは誉められた事ではないが、彼にしてみれば転倒する事がまずあり得ないのだから、ヘルメットも何も意味がないのだろう。
 ここは海沿いに走る高速道路。大戦前には『名神高速』と呼称されていたはずだ。だが、その名も今では意味がない。
 割に空いている部類に入る高速道路を走っていると、次第に後続車が消えて行く。過去の戦争の名残か、大きなハイウェイなどには今だのその傷跡が残されている事が多い。大都市――それも東京近くとなれば、その傾向はますます強くなる。
 そもそも、現在の日本政府機構は東京に存在しない。現在ではその中枢を北九州に移し、細々と――だが着実に、行政機構の再編を行っている。なぜなら、過去の戦争で最も攻撃が集中したのは東京であり、若狭湾に核弾頭を撃ち込まれたが為に、近畿から関東にかけてのほぼ全域が未だに核の後遺症を、多少の地域差こそあれ引きずっているからだ。
 故に、ハイウェイが寸断されている事など珍しくも何ともない。
 後続車は五十メートル以上後方をついて来る一台のバイクのみとなった。そのCB900ホーネットを駆るのは、無論亜紀なのだが――見失わない程度について来るのがやっとのようだった。実際彰のZZ-Rは、スペック的にはもっとスピードの出るマシンである。ホーネットはそれに実用速度で劣るマシンではないのだが、乗り手の技量が違う。ライダースーツにヘルメット姿でも、彼女が焦りぎみな事がわかった。
 やがて、前方に一メートルほどの亀裂が姿をあらわす。道を横に分かつその亀裂を飛び越えない事には、ここから先へは進めない。彰はスピードを緩める事もなく、その手前にある僅かな段差を利用し、難なく亀裂を飛び越える。飛び越え、少し流したところで荒っぽいブレーキングをかけ、灰色のアスファルトにねじくれたタイヤの跡を刻み込んで、ようやく停車した。二百キロオーバーの車体を軽く横に倒し、ついて来ているであろう亜紀の方に視線をよこす。
 彰が振り向くとほとんど同時に、亜紀のホーネットが視界に滑り込んで来た。そのまま彰のZZ-Rを通り越して、のろのろと停車する。その動きをサングラス越しの視線で追っていた彰は、親指で少し先に見えるパーキングを指差す。そこに入って少し休憩にしよう――そういう合図だ。
 彰に向かって軽くうなずきかえし、アイドリング状態のバイクを再び走らせる亜紀。彰もそれに習い、速度を抑えて走り出した。

「――ぷはッ!生きた心地がしなかったわ全く……」
 ヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てて、ザックの中に入れてあったドリンクを一気飲みしてから、亜紀はげっそりしたような声で言った。
 ――どこのオヤジだお前は……
 心の中で軽くつっこんでから、彰もストローを口にくわえる。中身はただの冷水だが、渇きを潤すには充分だ。
 元々ハイウェイが海沿いに走っているためか、ここのパーキングは磯の匂いがする。
 パーキングとは言うものの、それほどの大きさはない。人気は全くと言っていいほどなく――現実に、今ここのパーキングを利用してるのは彰と亜紀だけだ。ひどく寂れていた。
「しかしあんた――」
 涼しい表情でドリンクを飲んでいる彰に、ボトルを握りつぶしながら亜紀が口を開いた。
「よくあんな事を危なげもなくやってのけるわね。二百キロは軽く出てるのに、それでトラックやらクルマやらをごぼう抜きだなんて……しかもノーヘルだし」
「そうか?あれが普通なんだが……お前ももう少しスピード出したらどうだ?そいつだったら充分に付いて来れるはずだろ」
「だぁれがそんな危ないコトするもんですか!メーターに300km/hとか刻まれてるような怪物と一緒にしないで!」
 大げさに肩をすくめ、亜紀はぴしゃりと言い放つ。
 だがそれっきり、話は続かなかった。妙に気まずい沈黙が、二人の間に横たわる。
「……ねぇ」
 それを嫌ったか、あるいは単に、ふと思いついただけなのか――沈黙を破ったのは、亜紀の方だった。
「ん?」
「あのさ。ふと思ったんだけど……彰はなんで旅してるの?」
「………………」
「あ、いや、答えたくないんなら別にいいんだけど」
「――人探しだ」
 冷たい視線で一瞥され、慌てて取り繕おうとした亜紀の声をさえぎり、彰はぶっきらぼうに一言だけ告げた。
「え?ひ、人探し……?」
「そうだ。意外か?」
 その言葉に、亜紀は衝撃を受けていた。あの神の左手(ゴッド・ハンド)の旅の目的が、ただの人探しだったとは――
「といっても、別に知り合いでもなんでもないんだけどな」
 続く一言で、衝撃は疑問に変わる。
「知り合いじゃない?――って、どういう事よ?」
 亜紀の声が聞こえていないのか、半ばうわのそらで海の方を眺めている彰は、
「そのままの意味だよ」
 鼻孔に潮の匂いを一杯に吸い込む。
 いつのまにか彼の意識は――遥か記憶の彼方へと跳んでいた。

『――彰……』
 そっと、少年の手に自分のそれを重ねる少女。
 海に面した公園――そこの隅に、森がある。その先に広がる水際に腰をおろし、遥か彼方の地平線を見つめる二人。何をするでもなく。あるいは、何かをする必要はないのだろう。ここは穴場で、今この場所には、二人の他は誰もいない。
 いや。
 唯一例外を挙げるとするならば、彼らの後方――少し小高くなっているところに、墓標が一つ建っている。かつて人だったもの。すでに人ではないもの。だが彼女は、二人の事を見守ってくれているに違いない。そう、永遠に――
『……どうした?』
『ん?……何でもない。ただ、彰の肩は気持ちいいな、って。お父さんみたいに大きくて、あったかい肩』
 意味もなく嬉しそうに答える。いや、彼女にとっては何か意味のある事だったのだろう。
 風が、吹いた。少女の長い髪が風にのって、僅かにゆれる。
『……少し……風が強いか?』
 やや緊張気味に、出来る限り無関心な声。よそよそしく、平静を装って問いかける。声に感情はにじみ出ていない。完璧だったはず。だが――
 くすくす、という少女の小さな笑い声。彼の内心を察しているのだろう。可笑しくてたまらない、といった様子だ。
 この少女とは、幼い頃からの長い付き合いだ。ごく普通の幼馴染――腐れ縁とも言う。おそらく彼は、この少女に隠し事など一生出来ないだろう。そもそも、彼自身が自分にも他人にも嘘をつけない性格なのだから、なおさらだ。
『……うん……でも、いい風』
 ひとしきり笑った後、少女は微笑みながらそう答えた。そして今度は、そっと寄り添い、少年の肩に頬をのせる。あせる少年。
 そんな彼の様子を見、今度は声を上げて笑い出す少女。彼も、つられて笑い出した。
 ――心地よいそよ風に抱かれ、微笑(わら)っていた二人。その視界に映るのは、どこまでも蒼い空と碧い海。風に乗って少年の鼻をくすぐるのは、ラベンダーの香りと、少女の長い髪――

「――ま、手がかりは全くないけどな」
 過去の記憶を頭の片隅に押しやり、自嘲気味に笑う彰。手がかりがない――これは紛れもない事実だった。
「ふぅん……」
 なにか納得のいかないような表情のまま、生返事を返す亜紀。
 それきり押し黙る彰。まるで会話を拒絶しているかのような雰囲気に、亜紀は少しだけ不満を覚えたが、特に話題があるわけでもない。おとなしく諦める。
「――お前は?」
 沈黙を破ったのは、意外にも彰だった。視線は海の方に向いたまま、ぶっきらぼうな物言いに変わりはなかったが。
「……え?」
「お前は……なぜ旅をしてる?」
 彰が自分から話題を振ってきた事が意外だったため、思わず間抜けな声を上げる亜紀。だが、慌てて気を取りなおす。
「あ、あたしもね……人探し……やっぱり、会ったこともないんだけどね」
「……お前もか」
 参ったな、と苦笑し、視線を海から外す。
「依頼の事といい、案外あたしたちってさ――」
「ん?」
「あたしたち――案外似た者同士、かもね」
 少し恥ずかしそうに、はにかんだ様子で、亜紀。
 そんな彼女の様子を、フィルタ越しに眩しそうに見つめていた彼は、
「――違いない」
 それだけ言って、自分のマシンに向き直る。ドリンクをしまい、イグニッションキーをねじる。静かな振動が――マシンの鼓動が、空気を震わせる。
「おしゃべりが過ぎたな。さて……そろそろ行くか」
「うん。行こうか」
 亜紀も愛機のエンジンをかけ、それにまたがる。
 ――旧首都・東京は、もうすぐだった。

 かつての大戦でも、東京は屈指の大激戦が繰り広げられた場所だ。
 いくら核兵器が強力でも、戦争の半ばで生まれた異能者たちほど使い勝手のいい兵士達はいなかった。
 そして東京は、そんな異能者たちが集められた街だった。溢れ返る異能者は、薬や深層催眠を利用してその能力を極限までブーストし、核兵器すら無効化できるほどの戦略的能力、そして機械兵をも凌駕する戦術的ポテンシャルを有していた。
 その結果、東京には敵対陣営の異能者部隊が送り込まれた。異能者同士の、人類の理解を遥かに越えた戦い――それはある意味、核兵器よりも悲惨な結果をもたらした。
 灼熱の業火は街を焼き払い――
 血に濁った流れは断末魔を押し流し――
 空渡る風は鋼鉄すらも切り裂いて――
 夜空割つ雷鳴は地獄絵図を築き上げる。
 放射能などによる後遺症はないものの、全く別の後遺症が見るものを怯えさせる。今なお、東京では時折マグマが吹き上げ、温泉が沸きあがり、竜巻が突如と発生して、気まぐれに発生するスパークのせいで精密機器は作動しなくなる。
 単純な破壊力だけを比べるならば、スパーズ五十人に対し核弾頭一発分だ。だが、東京に集った異能者の数は、最終的に四桁にものぼった。
 ――そこは、滅びの街――
 後遺症も多少引いたとはいえ、数々の欲望と悪意を裏にはらんだ大都市の面影は、もはやない。あるのは一握りの遺産と、それを頼りに細々といきる人々。そして少しの野心家たち。
 今回彰と亜紀に仕事を依頼してきた柴場という男も、そんな野心家の一人だった。
「つまり、俺達はその研究所を奪還すればいい、と?」
「そういう事になります」
 とある小企業――今の世の中、『大企業』と呼べるほどの力を持った企業団体は存在しない――の本社が置かれているビル。そこの応接室で、三人は今回のビジネスについて話していた。
 牛革張りの高級ソファから身をのりだし、依頼の内容をかいつまんで確認する彰に、柴場は硬い表情で頷き返した。そんな依頼主の容姿を、サングラス越しに一瞥する彰。
 目の前に座っているのは、言ってしまえば普通の男だ。少々頭が切れ、少なからず野心を抱いている。ただ、その眼差しが一般人とはどこか違う。油断なく彰を見つめる様は、猛禽類を連想させた。
「あのぉ……」
 すぐ横から所在なげな声がする。亜紀だ。
「………………」
「………………」
 だが、彰も柴場も全く反応しない。
「あのさ、彰。二人だけでサクサク話進められると、あたしひじょーに――」
「少し静かにしていろ」
 テーブルを挟んで柴場と話し続ける彰は、まるで取り合おうともしない。それだけ依頼内容に真剣なのだろう。
 もちろん柴場は、初めから亜紀の存在を無視している。
 ――無視するんだったら、なんで依頼したりするのよ!
 声にこそ出さないものの、亜紀はそんな不満を抱いていた。かといって、ここまで来ておいて何もせずに帰るというのも恰好が悪い。
「うー……!」
 小さく唸り、必至に対抗策を練る。やがて、ある一つの名案を思いついた。無論彼女は、なんのためらいもなくそれを実行に移す。
 ――ぽすっ。
「―――?」
 軽い音を立てて、亜紀の体が彰へよりかかる。その表情はどこか安心したような――例えるなら、飼い主の膝上で眠る猫のような――安らぎに満ちていた。言いかえれば、気が抜けた顔だ。
「ちょ、お前――亜紀、何を――!」
「やっぱり彰の肩、気持ちいい」
 自分でも吐き気がするくらいに甘えた声。軽く瞳を閉じて、擦り寄るように彰の方へ体重を預ける。だが、思わず口を突いて出た言葉は本音だった。
 横で見ていて面白いほどに、彰は動揺していた。いたずらの効果は覿面だったようだ。
 ――冷たそうなくせして、案外かわいいじゃない……
 だが柴場は、一瞬言葉を止めただけで、あとは目の前の二人の様子など無視して話を進めている。
 一向にやめる気配のない亜紀の行動に戸惑いながらも、彰は仕方なく柴場の話に集中した。ただの恥ずかしさだけではない。亜紀の行動は、彼の中の何かにそっと触れた。
 ――なんなんだ、一体……何でコイツは、真琴と同じ事を……!
 心の中で小さく呟き、となりで彼の肩に頬を預けている亜紀の事を、頭の中から締め出す。気にはなるのだが、そうでもしないと、柴場の話に集中できそうになかったから。
「――ヒミツ……」
 ――それ故に彼は、亜紀の何気ないその一言を、聞き逃していた……

「何であんな事をしたんだ?」
 柴場との話し合いに以外と時間がかかったため、二人は少し遅い夕食を摂っていた。柴場が居を構える事務所は東京の中にあるのだが、あいにく東京に街はない。東京付近でまともな街と言える街は、一番近くて横浜である。それほどに過去の戦いは酷いものだった。亜紀は横浜まで戻る事を提案した。二人のバイクなら、そう時間もかからずに往復できる距離だ。だが彰は、なぜかそれに猛反対した。
 ゆえに、二人のいるこの街は、お世辞にも『街』とは言いがたかった。どちらかといえば『廃墟の町』と言った風情だ。現在も一年に一度や二度は『最終戦争』の後遺症に悩まされる、東京ではもはや珍しくもない町だ。
「あんな事、って?」
 レストランというよりは飯屋と言った方がしっくりくるような店の、これもやはりお世辞にもおいしいとは言いがたいラーメンをすすりながら、亜紀はきょとんとした表情で問い返した。そんな彼女を、フィルタ越しの視線が射抜く。彰は食事中ですらサングラスを外そうとはしなかった。
「交渉の最中の、あれだ」
 彰の前の丼は、すでに空だ。というのも、亜紀はこれで四杯目なので、当然といえば当然だろう。
「あぁ、あれね」
 たっぷり間を置いて、亜紀はやっと思い出したかのように振舞った。
「彰ってさ、ただの冷血人間かと思ったけど――」
 何気ない亜紀の言葉が、彰の心に何かを残して、過ぎ去った。冷血人間――彼女はさっき、間違いなくそう言った。
「――案外かわいいわね」
「……聞いた俺がバカだった」
 問い詰める事を諦めて、彰も追加の注文を取る。食のペースは、彰が決して遅いわけではない。むしろ早い部類に入るだろう。これは単に、平均よりそこそこ早いスピードの彰に対して、亜紀がその軽く倍を越える速度で料理を平らげているからだ。スピード感覚に関してはどこか常人と一線を画す二人だった。そういう意味では案外いいコンビかもしれない。
「あたしもさ、質問があるんだけど」
 元気よく動かしていた箸の動きを止め、神妙な面持ちで亜紀は彰の顔を覗きこむ。
「……なんだ?」
 運ばれてきたラーメンをすすりながら、それでも一応言葉を返す彰。
「さっき、あたしが『横浜まで戻ろう』って言った時、猛反対したよね?」
「……そうだったか?」
「そうだよ。なんか、妙に冷静ぶっちゃって。そのくせなんか焦ったみたいに、急に頑固になってさ」
「気のせいだろ」
 彰は全く取り合わない。
「――ホラ、それ。図星指されると急によそよそしくなるの。彰ってあれよね、身内に嘘付けないタイプ。ギャンブラーには向いてないわね。誰かに言われた事ない?」
「……さあ、覚えてないな」
「素直じゃないわねー」
「それで結構。あまりしつこいと、奢りの件は取り消すぞ?」
 眉一つ動かさずに、スープを飲み干しながら小さく告げた。
「あ、うそうそ。きゃー彰くんカッコイイっ!もぉファンになっちゃう!」
「……よくそれだけ舌が回るな……」
 次々と賛辞の言葉を並べ立てる亜紀を前に、呆れ半分感心半分、そのくせ妙に冷めた口調で呟く彰。
 実際それは、亜紀の言う通り的を射ていた。だが彰はあくまで姿勢を崩さない。そんな彼に呆れたのか、それともさっきの一言に反感を抱いていたのか、彼女は小さく『頑固者』と悪態をついて、ラーメンの残りを平らげる。
「ごちそーさま」
「先に外で待ってろ」
 亜紀にそう告げると、彰は店主を呼び、財布を取り出した。
 ここで待っていても仕方がない。亜紀は彼の言葉に素直に従い、一足先に店を出た。彼女にすら窮屈なドアをくぐり、大きく伸びをして――
「――うわぁ……!」
 目の前に展開する光景に、思わず感嘆の声を上げていた。
 ――永遠の象徴。
 ――瞬きの乱舞。
 そこにある光景は、今も昔も変わらぬ姿で自分を見つめているのだろう。青々と冴えた光を放つ月が、漆黒に煌く星の海を泳いでいる。
 星屑の中に身を埋めた月は、ただ煌々と輝いていた。明るすぎず、暗すぎず、常にその穢れない光を地上に注ぎつづけている。それはきっと、愛や恩寵といった言葉が生まれる前からずっと続いていて――しかし言葉にはなくとも、人々はそこに言い知れぬ何かを感じていたに違いない。
 瞬く星屑達もまた、月に寄り添うようにして大地を照らしていた。人に創り出されたネオンの輝きや、遠目に見る街灯の明かりなど及びもつかない、至上の美しさと――寂しさ。多くの仲間に囲まれているのに、絶えず星屑達はどこか孤独なのだ。
 その風景から想起されるのは、母親に愛を求める幼子の姿だった。小さく息を吹きかけただけで消えてしまいそうな儚い星々を、ただじっと暖かな眼差しで照らしつづける月。
 そして月にしてみれば――自分達はひどく出来の悪い子どもなのかもしれない。そんな考えがふとよぎる。
 ――雲一つない、満天の星空だった。
「――月が空で舞い始めれば、それは夜という名の舞踏会」
 思わず口を突いて出たのは、そんな詩の一遍だった。
「孤独な魂たちは、黒い海を星で埋め尽くす」
 こんなに綺麗な星空を見たのは、本当に久しぶりだった。
「そこは深い悲しみの在る場所」
 一歩。また一歩。空を見上げたそのままで踏み出す。まるで、星に手が届けよといわんばかりに――高く、両の手を差し伸べた。
「だがどんな明日にも、希望という光りはある」
 足を止めた。静かに手を下ろし、うつむく。この詩は好きだ。だが、この詩を語り聞かせてくれた父親はもはやこの世にはいなく――最期の一節だけは、どうしても信じる気にはなれなかった。
「遠い夜闇を打ち破って新しい刻へ。
 ――希望の日々は、今始まった……」
「……ガウン=リーブスター、だったか?」
 背中から聞こえてきた声に、思わず振り返る。そこにはもはや見慣れたシルエット。サングラスに流れる長髪。人影は闇に溶け込むようにして佇んでいた。
「うん。昔、よく父さんが聞かせてくれた」
「昔?」
「そう。今はもう死んでる。運の悪いことに、殺人鬼と出くわして――勇敢に戦った父さんは、その殺人鬼と相打ち」
「………………」
 静かに語り始める亜紀の声に、彰は何も言わず耳を傾けた。
「相打ち、って言えば聞こえはいいかな……父さん、スパーズだった。母さんが普通の人間だったから、あたしはいわゆるハーフだね。この時代には珍しく仲のいい人間とスパーズの夫婦。父さんは力の制御が完璧だったから、傍から見ればごく普通の夫婦だったよ。
 でもある日、その殺人鬼――スパーズが現れてね。街中の人を虐殺して回ったの」
 亜紀の瞳に、微かだが憎しみの影が過る。
「あとはさっき言った通り。父さんは能力を使って戦って。
 でも許せないのは、街の人間たち。あいつら、自分たちを助けてくれた父さんに何をしたと思う?」
 亜紀は自分の両肩を堅く抱いて、体を震わせる。
「……大体想像はつくな」
「後ろから銃で撃ったわ。『化け物!』とか『こいつも殺せ!』とかって叫びながら――父さんの体に銃弾を撃ち込んでいった。父さんは強かったけど、一瞬で全身に穴が空くんじゃないかっていうくらいの銃弾を四方八方から叩きこまれちゃ、どうしようもないよね。
 で、あたしと母さんはそれを目の前で見せつけられた挙句、街から当然のように追い出された」
 自嘲気味な微笑を浮かべる亜紀。だが瞳は暗く沈み、声は乾いている。
「殺されなかっただけマシと考えるか――それとも、その場で殺されたかったか……」
「ただでさえ生きる気力をなくしてた母さんは、仕事――そりゃ当然、人様には言えないような仕事よ――そのせいで過労死しちゃった」
 彰の言葉はまるっきり無視して、亜紀はそのあとを絞り出すように続けた。
 最後はなんとも軽薄でおどけたような仕草。だがその締めくくり方には、どこか虚しさと哀愁が漂っていた。
 おそらくその頃、亜紀はまだ年端も行かぬ少女だったはずだ。その時に受けたショックは、今でも夢に見るほど大きかったに違いない。
 ――かけるべき言葉は、なかった。あるはずがない。あるのならば、彼の旅はとうの昔に終わっている。彼が旅の中で見つけたものは――『言葉などなんの慰めにもならない』という、今更ながらの真実だけだった。
 だが一瞬の後、その陰は霧散した。彼女の顔には笑顔が――いつもと同じ、底抜けに明るく――同時に諦めのようなものが混じった笑顔を浮かべて、彰の方を振り返った。
「あの詩はね、父さんがよく聞かせてくれたの。でも、あたしはあの詩よりも、もっと好きな詩があるな……」
「なんて題名なんだ?その詩は。俺も知り合いに詩の好きなヤツがいたから、少しくらいならわかる」
 珍しく饒舌になっている自分に気付き――だがもう少しくらいこのままでいてもいいか、と思いなおす。そんな自分に苦笑しながら。
「――twilight memory……ガウン=リーブスターが死んだ幼馴染に贈った、最高傑作」
「――――――」
 その一言で、彰の動きが凍りついた。
 さっきよりも強く――その言葉は、彰の胸を貫いた。心の奥底に封じ込められたものを解き放つ、言葉の欠片。封印の鍵。
「――彰は……なんかね、父さんに似てる」
「……お前の?」
「うん」
 邪気のない笑顔で答える亜紀。彰の内心の動揺に気付いた気配はない。それにはこの暗闇も、一役買ってくれているのだろう。
「死んだ父さんにそっくり。強くて、大きくて、肩が気持ちよくて。つっけんどんなんだけど心根は優しくて。それに――」
「――やめろ」
 左手で顔を覆い、彼は静かに告げた。その手は小刻みに痙攣を繰り返している。
「――え……?」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった亜紀。思わずそちらを振り返り――驚愕した。
 ――震えていた。
 彰がその体を、全身を震わせている。何かを――胸の奥からこみ上げてくる何かをこらえるかのように、細かく、だが確実に震えていた。
 コートを締めつける右手は、まるで彼が自分自信の心臓を握りつぶそうとしているかのようにも見えた。
「twilight memory?ガウン=リーブスター?死んだ父親に似てる?……ふざけるなよ」
 そう告げる彼の声には、確かな憤りと、怒りと――隠しきれないほどの悲しみがあった。
 左手が顔全体を覆っている。残った右手が無意識のうちに、胸元で輝く銀のペンダントを探り当てた。服から手を離し、今度はそれを強く握り締める。
「お前は何を言っている?――お前はなぜ、あいつと同じ事ばかり言う?」
「え?そ、そんな――」
「……これ以上俺をかき乱すな」
 戸惑い、口を開きかけた亜紀を制し、彰は最後の一言を放った。苛立ち、憤っている彰の口調。しかし、彼の言葉が亜紀の胸中に残したものは、悲哀だった。
 まるで自分を憐れむかのような亜紀の視線に、彰は耐えきれなくなった。身を翻し、停めてある自分の愛機に近づく。
 ――なんであいつは、こんなにも……俺をかき乱す!?
「…………大切、なんだよね?ごめんね……」
 背後で、小さく消え入りそうな声が聞こえた。
「謝って欲しいわけじゃない!」
 また、自分の中で苛立ちが沸き立った。
 だが、それでも――
「……ごめん、彰……」
 少女が謝罪をやめる気配はなかった。
 彰は何を言っても無駄だろうと判断し、愛機のエンジンを起動する。だが、彼の心はここにはなかった。
 ――twilight memory――
 黄昏の思い出――解釈によっては『淡い光の記憶』と呼ばれる言葉の怪物が、彼の心に重くのしかかっていた。




>> 第三章 私は此れを書き記す……




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