優編  〜Pandemonium〜 
                              作 A/Z&Mr.Volts


2

 数日後。調査結果を前に2人は唖然としていた。春香菜の依頼を2つ返事で引き受けた劉は実に手際よく調査を行ってくれた。短い時間でハイデルンの過去と経歴、交友関係に到るまでかなり微細に渡って調べ上げてくれたが、その結果は驚くべきものであった。
 報告書によると彼は第2次世界大戦当時のドイツに台頭していたナチス政権の残党、俗っぽい呼ばれ方では『ネオナチス』と呼ばれているものの一員で、キュレイキャリアに人体実験を繰り返してはデータを取り、いずれはキュレイウィルスを人体に投与して不死身の軍隊を作ろうとしているとの噂がある、そんな恐るべき内容が記載されていた。
「ネオナチス・・・か。てっきり本の中だけでのトンデモ話だと思っていたけれど、まさか実在していたとはね・・・」
 春香菜は腕を組んで考え込む。「ああ、しかもこんな奴が俺たちの研究を狙っているとしたら間違っても『世界平和』って路線は無いだろうな」
 桑古木はそう言いながら資料をテーブルの上に放った。
「うーん・・・」
 手に持ったペンで額をトントン、と叩きながら春香菜はしばらく考えを巡らせていた。
 あちらも同じ職場にいる以上、すぐに強行策に出てくる事は無さそうだが何らかの行動を起こしてくる可能性はある。
「とりあえずこっちも急いで人手を増やさなきゃね」
 春香菜は手元のパネルを操作して、連絡フォームを開いた。ライプリヒ製薬は現在ドイツ本社と日本支社があるが、劉の調べによると既にこちらはハイデルンの息がかなり掛かっているようだから、迂闊に接触するのは危険だった。しかしライプリヒ製薬はその高い業績を利用しようとする様々な国とパイプが繋がっており、日独の他にもアメリカ、ロシアに系列会社がある。ネオナチスの残党がキュレイウイルスの研究を悪用しようとしている、という情報と手元にある彼のデータを流すだけでもアメリカとロシアなら何らかの動きを見せるだろう。しばらく春香菜は忙しそうなので、邪魔にならぬよう桑古木はコーヒーの入った紙コップを片手に研究室を出た。



 研究所から10メートルほど歩いた先の一角にある喫煙所の長椅子に桑古木は腰を下ろした。別にタバコを吸いたかったわけではなく、それ以前に持っていないのだが・・・すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲み、不味そうな顔をしながら桑古木は1人で考え事に没頭していた。
 そこへ廊下の向こうから長身の男が歩いてきた。顔つきは日本人の様にも見えるが、肌の色素が薄く、瞳の色も淡い茶色である。他の人種の血が混ざっているようだ。年齢はパッと見た感じでは20台前半、短い黒髪を逆立てていて、明らかにLeMUの職員という立場からはかけ離れた存在に見えた。こちらに向かってまっすぐに歩いてくる男に対して桑古木は警戒心を緩めず、しかし視線を合わせないように紙コップの中の黒い液体に映る自分の顔を見るようにした。

 男はどこからかタバコを一本取り出して口に咥えた様子で、自分の服をごそごそとあさっている。
「あれ、おっかしいなあ。火貸してもらえる?」
 男は苦笑いを顔に浮かべつつ桑古木に向かって英語でそう話し掛けてきたが、その気さくな口調の裏には鋭い刃物のような危険な気配がじわりと顔を覗かせている。そういう雰囲気を隠すのが苦手なようだ。その正直さも若さの特権かもしれないな、と一瞬年寄りめいた考えを浮かべてしまった桑古木は苦笑を返して答えた。
「持ってないんだ」
 お互い喫煙所にいるのに火を持っていないというのも滑稽な話だが、男は別にそのことを気にした様子もなく一旦口に咥えたものをプッと吹き出し、空中でクルクルと回転するそれ目掛けて右手が一閃したかと思うとタバコはまるで煙のように消え失せてしまった。

 桑古木はそれをじっと見つめていたが、黙っていても事態は進展しないので思い切ってこちらから話し掛けてみることにした。
「凄い手品だな。どうやったんだ?」
 素直に賞賛した桑古木に対して男は得意そうな顔つきで、桑古木の胸元のあたりを見ながら答える。
「何、大した事じゃないよ。『カブラキ』さん」
 自分のネームプレートにはイニシャルで『Ryogo.K』としか書かれていない。桑古木という苗字を予備知識なしで読める人間は今までの人生で・・・と言っても15歳以前の記憶は無いが、1人もいなかった。ということは自分のことをあらかじめ知っている上で接触してきた人間、このタイミングならハイデルンの手の者である可能性は高い。彼の胸についているネームプレートをちらりと見ると「John.K」と書いてあった。
「・・・日系人か?」
 ネームプレート自体がLeMU職員に成りすますためのフェイクだろうから名前も偽名を使っているかと桑古木は思ったが、男はネームプレートを右手で弄りながらあっさりと白状した。
「ああ、アメリカ西海岸の生まれでこれが一応本名さ。ファーストネームは『黒崎』だ」
 自ら黒崎と名乗った男はそう言って黙ったきりその場を離れるでもなく、近寄ってくるでもなく桑古木と一定の距離をおいた状態から動こうとしなかった。

「それで、俺に何の用だい?」
 そこで始めて黒崎の目を見ながら桑古木は尋ねる。その目はガラス細工の人形のそれのように澄んでいて、それでいて虚ろだった。黒崎はその鳶色の瞳を逸らさずにこちらの目を見返したまましばらく黙っていたが、ふいにおかしそうに笑い声を上げた。
「あはは、なかなかいい目をしているな。それに勘も鋭い。見た目によらず化かし合いも得意なようだ」
「騙すのが仕事なんでね」
 桑古木はやや自虐的な口調でそう呟いた。5年後のLeMUで自分は倉成武を演じきらなければならない。その為にどの状況、どの場面に置かれてもまず『倉成武ならどうするか?』を考えてから行動する癖がついている。こういう駆け引きが必要とされる時は武の馬鹿正直と言ってもいいほどストレートで楽観的な性格は不利に働くことも多いので、敢えてその思考は傍らに封印しておくことにしている。しかし、本物の武ならばその性格を持ってしてもどんな逆境でも切り開いていけそうな気がして、それが桑古木には羨ましくも思えた。

 しかし目の前の男がそんな事情を知っている筈が無く、肩を小さくすくめると
「随分因果な商売だな。まあ暗い部屋に一日中篭もって実験ばっかりやってるとそうなっちまうもんなのかね」
 同情混じりの声で桑古木にそう言った。ほんの一瞬張り詰めた空気が緩んだ気がしたが、黒崎はすぐに表情を戻した。
「話が脱線したようだな。ハイデルンがアンタたちを呼んでるぜ。あの田中何とかって女と一緒に1時間後に部屋に来いだとさ」
 予想した通りのあまり歓迎できない呼び出しに桑古木は嘆息と共に呟く。
「相変わらずこっちの都合はお構いなしか。やれやれ、こっちもヒマじゃないって言ってるんだがな」
 半分諦めの入ったその言葉に黒崎は端整な顔を崩して笑った。
「お互い雇われの身分は辛いな。早いところ偉くなって楽したいもんだ」
「全くだ」
 そう言ってコーヒーを飲み干した桑古木に向けて黒崎は確かに伝えたぜ、と言って踵を返すとゴミ箱の上で握っていた右手を開いた。その手からはフィルターまで細かくバラバラになったタバコの破片が雪のように降りそそいだ。

 黒崎が去って行った後、やはり今回の件が簡単なものではないという事を改めて悟った桑古木は両頬を手で叩いて気合を入れると、
「さて、いっちょ行きますか」
 と言って飲み終えた紙コップをバスケットボールのシュートのように高く放り投げた。そして背を向けて春香菜の待つ研究室に向かう桑古木の後で、コップは回転しながら弧を描き、黒崎が先程タバコを捨てたゴールに吸い込まれるように入った。



 一方、春香菜はアメリカとロシアにある系列会社のトップを相手に己の頭脳をフル回転して交渉に望んでいた。いきなり『ライプリヒ製薬の内部にネオナチスの一味がいて、キュレイウイルスを軍事利用しようとしている』などと言われたら混乱するのも当然だろう。どちらの国も独自に調査をしてから再度連絡すると言ったが、あいにく春香菜たちにはそんな悠長に構えていられる時間は無い。

 アメリカの会社は主に医薬品の開発を行っていて、今までハイデルンが独占していたキュレイウィルスのデータを喉から手が出るほど欲しがっていることは明らかだった。ロシアの会社は表向きは貿易会社という看板を掲げていたが、裏では中東やヨーロッパを中心に様々な武器を流す闇マーケットの拠点となっていて、ライプリヒはそこから自らの開発した細菌兵器を世界中に売り出していたので、キュレイウィルスがもたらす莫大な利益の可能性を敏感に嗅ぎ取っていた。それ故、お互いにキュレイウィルスの情報という宝を他に渡したくないという思いがあった。特にアメリカとロシアという競争意識の強い両国に同時にその情報が入ったとなると、その思いはなおさら強いものであっただろう。そのあたりを巧みについて、何とか春香菜は両方の会社から腕利きのエージェントを1人づつ派遣してもらう約束を取り付けた。 
 キュレイウィルスのデータがどちらに渡ったとしても正しい使い方がされる保証は無かったが、2つの場所に同じ情報を流す事で抑止力が働く。少なくともハイデルンたちに今のままキュレイのデータを独占させているよりはマシだった。

「・・・ふぅ」
 春香菜は通信が終わると同時に重い体を椅子に沈めて息をついたが、まだ終わったわけではない。
「さて、次は・・・」
 春香菜は白衣のポケットからPDAを取り出して手元のコンソールから伸びているケーブルに接続すると、再びアトランティスサーバーにアクセスした。劉にメールを出すフォームを呼び出し、『至急傭兵を1人雇いたい』という内容に加えて『一度直接連絡を取りたい』と言う要望も沿えてメールを送信した。桑古木は彼を完全には信用していなかったが、緊急を要する事態である。彼の広い人脈と情報は今回の作戦に欠かせないものであった。
「これで良し・・・と」
 劉にメールを送信すると、ついでにPDAのサーバーに接続してたまっているメールのチェックを行う。LeMUは地上から隔離する事によって日々の仕事や生活から開放された楽園を作るという設計上、携帯端末へのデータはあえて届かないようにされていた。春香菜や桑古木は普段からずっとLeMUに篭もりっきりなので、こうして時々直接PCにつないでメールチェックをしないとたまる一方なのだ。会社のメールアドレスに転送する事も出来たが、プライベートなメールを会社の端末に送信する気にはなれなかった春香菜はこうして時々たまったメールを手動でPDAに読み込む作業を行っていた。

 メール受信はすっかり冷めてしまったコーヒーを新しく入れなおしている間に終わった。春香菜はPDAをケーブルから外して手に取ると、内容をチェックし始めた。ポップなロゴに彩られたお気に入りの店のセールのお知らせ。娘の秋香菜に薦められて借りたまま見る暇が無く、ついつい返しそびれていたDVDの返却督促状。殆ど乗ることのない自動車保険の更新の通知・・・それらにざっと目を通していく。その途中で『L・O・V・Eげっちゅ♪あなたの人生のパートナーはココに!』というケバケバしいネオンのタイトルが画面狭しと動き回る出会い系サイトを見た瞬間に言いようの無い虚無感に襲われ、思わずPDAを全力投球しそうになったが、何とか自制してそのまま削除する。
 その後も大したメールは無かったのでそろそろ打ち切ろうかと思った時、もう随分長い間会っていない友人のメールを発見した。かわいい絵文字が散りばめられた女の子らしいカラフルなタイトルを目にした春香菜は懐かしい感触を受け、メールを開いた。
 その内容は彼女らしい丁寧な挨拶から始まり、自分の近況報告や最近見つけた美味しい店の話、飼っている犬が子供を産んだ話などが
 いかにも明るく楽しそうな文体で書いてあり、文の最後は「久しぶりに会いたい」と締めくくられていた。

 彼女の名前は本多梓。2人が出会ったのは春香菜が大学院に上がった直後の2023年の夏である。全国でもトップレベルの大学を優秀な成績で卒業した春香菜は、卒業後も大学院に進んで本格的に第3視点の研究に専念しつつ、BW発動計画のための様々な準備に追われていた。そんなある日、日頃からお世話になっている考古学の教授が、1人の見知らぬ女性を大学の研究室に連れてきた。聞くところによると彼女は教授の友人の娘らしく、今年の春からこの大学に入学してきて、考古学に興味があるのだと紹介された。少し話してみると彼女は会話のテンポはやや遅めだったが頭の回転がとても速く、大学での成績も相当優秀だった。
 そしてその後間もなく知ることになり、春香菜を驚かせた話では、彼女は歴史に名高い本多流の血を引く弓の名手だという事だった。
 大学在籍中にも数多くの大会に出て成績を残し、その見事な腕前に弓道の世界では本多流創始者であり弓聖と呼ばれた本多利実翁の再来と囁かれ、『弓精』とまで謳われている程だった。本人はそんなことは全く気にかけていないようだったが。

 そんな彼女と何となく気が合った春香菜は、それ以後も頻繁に研究室を訪れて来た梓に考古学の事を色々教えてあげたり、たまに暇ができた時には一緒に遊びに行ったりもした。娘の秋香菜に考古学の話をしてもさほど『興味深い』という反応は返ってこなかったので、同年代の人(自分ではそう思っている)とこういう話ができるのは春香菜にとって凄く嬉しい事だった。
 更に春香菜はキュレイウィルスの感染者という特殊な事情を抱えていた上、BW発動計画の準備に追われる毎日を過ごしていたので、大学4年間で誰かと深い交友関係を結ぶ事もなかった。しかし、梓はそんな事を全く気にかけずに気さくに春香菜に話し掛けてきた。
 そしてそれ以来今までずっと親友と言ってもいい程に仲のいい関係を続けている。春香菜がLeMUに就職し、梓も大学を卒業して
 実家の家業を継いでからは会う機会は減ったが、時々お互いに電話をかけたりメールを送ったりして音信が途絶える事は無かった。

 久しぶりに友人と過ごした楽しかった大学時代を回想した春香菜は、急に友人の声が聞きたくなってPDAを再び電話ケーブルに差し込んだ。



「さて、答えは決まったかね?」
 呼び出しを受けて部屋に着いた春香菜と桑古木が前回と同じソファに座るなり、開口一番にハイデルンはそう切り出した。
「一週間も考える時間をくれないとはせっかちだな」
 前回と違って今日はハイデルンの勧めたコーヒーをゆっくりと含むように飲みつつ、桑古木が答えた。今回のやりとりは重要だ。たとえコーヒーを飲む一瞬だけでも考える時間が欲しかった。春香菜もそう考えたようで彼女の前にはブラックのコーヒーが芳醇な香りと共に湯気を立てている。
「私も桑古木君と同じでどうにも気が早くてね」
 しれっとした表情でそう答えるハイデルンだったが、こんなに早く決断を迫ってきたという事は春香菜たちにとって誤算だった。彼は今回の接触よりも前から既にこちらを乗っ取る準備を着々と進めていたのだろう。
 答を求めるということはこれ以上あちらに待つ必要が無くなったということを意味する。
「せめてもう少し時間を頂けませんか?こちらもやる事が多くて考えもまだ全然まとまっていないですし・・・」
 春香菜はそう言ってはみたものの、ハイデルンがもはやその様な悠長で紳士的な態度を取り続ける事は無いと確信していた。
「いやいや、そう深く考えることはないんだよ。君らの作業の邪魔はしないし、むしろ資金と人手が増えるんだから何も迷う必要はないだろう?それとも・・・」
 そこで一旦言葉を止めて、氷のような冷笑を浮かべながらハイデルンは言った。
「他の者には明かせない秘密の研究でもしているのかね?」
 その言葉に桑古木は部屋の空気が一瞬で冷え込んだ様な感触を覚えたが、春香菜は顔色一つ変えずに対応する。
「そうではありません。ただ、今まで2人でやっていた事を3人、4人でやるとなると勝手がまた違ってくるのです。人員が2倍になれば1人あたりの労力が半分になると言うほど話は単純ではありません」
 その言葉にハイデルンはしばし目を瞑って何やら考え込んでいた様子だったが、ゆっくりと目を開けると
「そのあたりは理解しているよ。だが我々もこれ以上君たちの行動を黙認するわけにはいかなくなってきてね」
 そう言って懐からパイプを取り出して火をつけた。
「・・・それはどういう意味ですか?」
 春香菜が表情を保ちながら尋ねる。

 ハイデルンは煙を吐き出すと、その凍てついた仮面と同じくらい冷たい声で言った。
「我々が気づいていないとでも思ったかね?」
「・・・・・」
 2人は黙ったまま一言も喋らない。
「考えてもみたまえ、10数年前に起こった悲劇としか言いようのない事故の被害者が揃って事の元凶であるLeMUに就職してくること自体おかしいだろう?それは1度蜘蛛の巣に引っかかった蝶がわざわざもう1度引っかかりに来るようなものだよ。そして2人で研究室に篭もっては毎日の様に『第3視点』などという怪しい研究を延々と続けている。これでは疑ってくださいと言っているようなものだろう?」
 ハイデルンはニヤリと唇の端を歪め、鬼の首を取ったような表情で続ける。
「企業もいくら別に目的があるとは言え利用価値の全く無い研究に資金を出す余裕は無い。私は以前から君たちに目をつけ、上層部に口添えをしながらその研究内容を探っていたのだよ」
 という事はこれまでの流れは全て彼に筒抜けだったという事になる。桑古木は目の前の男に見事にハメられたという事実に内心歯噛みした。
「その一方で君たちはLeMU内部を掌握しようと裏でこそこそと何かをやっている。やっている事の規模は違うが、その点は似ているね。もう我々の正体と目的は知っているんだろう?」
「・・・ああ」
 この男がネオナチスの一派だという事をこうも簡単にこちらに明かして、しかもそれを隠そうとしないということは知られても痛くない情報だったという事か。彼らは既にライプリヒ本社すら抱きこんでいるのかもしれない。

「となると君たちもそう簡単には長年の研究の成果を我々に明け渡すつもりはないだろう・・・」
 そう言いながらハイデルンはパイプをくゆらせつつ、視線を天井に泳がせた。煙草の匂いが煙と共に室内に広がる。
「ところで、君のお友達と娘さんは元気かな?」
「ッ!」
 桑古木の隣で声を向けられた春香菜が息を飲む気配がした。ハイデルンはニヤリと口の端を歪めて邪悪な笑みを浮かべると、視線を再び2人に向けた。
「世界で唯一の完全なキュレイ種である小町つぐみ・・・彼女もあのLeMUで起こった事故に巻き込まれた被害者であり、数日間行動を共にした仲間であり、同時に君たちをそんな体にした元凶だろう?」
「つぐみは・・・」
 春香菜はそう言ったきり口を閉ざす。感情の乱れを相手に見せてはいけない。複雑な感情を胸に押しとどめた。
「ふふふ、そして君の子供の田中優美清秋香菜。君たちが第3視点を使って何をしようとしているのかは知らないが、果たしてそれら両方を君たちの研究と天秤にかけた場合どちらが重いかな?」
 春香菜は膝の上に置かれた拳を固く握り締めたまま黙っている。ハイデルンは2人から視線を外すと体をゆっくりと後ろに倒てソファにもたれかかった。そのままの姿勢でパイプをくゆらせたまま目を瞑り、ゆっくりと口を開いた。
「ここからはこの前の時には話さなかった私の勝手な推測だが・・・君たちは第3視点を通じて世界を時間の概念も含めた4次元からただ見るだけではなく、何らかの方法を使って実際に時間軸に『干渉』する手段に心当たりがあるのではないかな?」
「!?」
 これには流石に2人とも息を呑んだ。第3視点の研究については資金を回してもらうためにライプリヒにある程度の内容は明かしてあるが、BWに関しては春香菜だけしか体験していない事だし、桑古木も名前を知っている程度で殆どLeMU内では口に出したことすらない極秘事項だった筈だ。断片的な情報からそこまでの結論を導き出したとすると、彼はよほどの彗眼の持ち主なのか、思考のネジが数本ぶっ飛んでいるかのどちらかだろう。

 春香菜たちの動揺する様を目を閉じたままでも敏感に感じ取ったハイデルンは顔に笑みを浮かべて体をゆっくりと起こし、再び目を開いて2人に視線を向けた。
「フフフ、どうやら図星みたいだね。君たちは確かそれを『ブリックヴィンケル』と呼んでいたかな?我々の真の目的はそれだよ。それがあれば我らが総統、ヒトラー閣下の復活が現実のものとなる。そして総統を中心にしてキュレイキャリアをベースにして作り上げた最強の軍団の統治の元、我らがドイツ帝国が世界を掌握し、永遠の繁栄を手にする時代が来る」
 確かにBWをそういう形で利用する事ができれば世界の歴史を思うがままに操ることも可能なはずだ。彼の言っていた『キュレイウィルスを使った万能薬』の生成も単なるお題目に過ぎず、最初から軍事利用する目的だったのだろう。
 目の前のドイツ人の狂気に燃える青い瞳に見据えられ、2人は身動きひとつ出来なかった。
「あれは君たちの手にあるべき物ではない。後は我々に任せて、君たちは別の仕事につきたまえ」



 時計の針が24:00を回った頃、自分たちの研究室に戻って来た桑古木は重々しい動作で椅子に腰を沈めて深い溜息をついた。敵のあまりにも周到に準備された仕掛けの前に絶望感が拭えない。
「参ったね。あそこまで見事に仕組まれていたとは・・・」
 桑古木は頭を掻きながら呟くように言った。
「何のんきな事言ってるのよ。BWを呼び出せなかったら倉成もココも助からないのよ?」
 そう言う春香菜の表情も冴えない。2人に与えられた期限はたった1日。それ以内に第3視点の研究データを引き渡さないと、つぐみと秋香菜の安全は保証できないと告げられた。
 唯一の救いは、BWの宿主を彼らが嗅ぎつけていない事だった。おかげでつぐみの息子であり、今回の計画のキーであるホクトと、娘の沙羅は現在もライプリヒの管轄下にあるが、さほど彼らの厳しいマークはついていない。沙羅とホクトを管理している別の部署にまでは彼らの手が及んでいないところを見ると、彼らはまだ完全にライプリヒを掌握しておらず、今回は単独で行動しているようだ。ならばあまり派手に事を起こす訳にもいかないだろう。逆に考えるとそこに付け入る隙があるかもしれない。
「まだ時間はあるし、諦めるわけにはいかないわ」
 そう言って春香菜は椅子から立ち上がる。
「そりゃそうだけど、一体どうするんだよ?」
「決まってるじゃない。1日でつぐみとユウの安全を確保するのよ」
 さも当然とばかりに返答した春香菜に桑古木は呆れた様子で首を横に振る。
「そんな簡単に行くわけが無いだろう?大体俺達2人でどうやってそんな神業的な事するんだよ?」
「アメリカとロシアにはうまく事情を伝えて応援を要請したわ。それぞれ1人づつだけど優秀なエージェントを送ってくれるって。2人とも今日の朝にはこちらに着くみたい」
 桑古木は腕を組んで考え込む。アメリカとロシアの両国ともいきなりネオナチスなんて突拍子も無い話を振られて、相当混乱しただろうにも関わらず、速やかに人材を派遣してくれたのは春香菜の交渉術の賜物であり幸運とも言えるだろうが、それでもあちらに比べると準備期間の短さによる戦力差は大きかった。
「それでも4人か・・・ネオナチスの方々を相手に喧嘩するには不安だな」
「この際だから空にも協力してもらうしかないわね。それ以外にこっちのツテであと2人呼んだわ。7人いればこの場は何とか凌げる算段が立つでしょう」
 春香菜の話を聞いた後も桑古木はしばらく考え込んでいたが、やがて腕を解いて立ち上がった。
「まあ、それで何とかやるしかないか。障害があることは覚悟してたし、こんな所でつまずいている訳にはいかないしな」
 それを聞いた春香菜はにっこりと笑った。
「愛するココちゃんの為だもんね」
「・・・うるせぇ」


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