※ 壊れています。その手のものが苦手な方は『戻る』でお戻り下さい。 ※ 黒いモビルスーツ、もとい、黒いつぐみに御注意。 部屋中を舞う埃に耐えかねて、ホクトはクーラーを切って窓を大きく開けた。たちまち、ひっきりなしに鳴き続けるセミの声と、蒸し暑い外の空気が部屋の中に飛び込んでくる。 頑丈さが取り柄の、小作りな学習机の上に載せてあった麦茶のペットボトルを手に取り、口を付ける。 どこかに腰を下ろしたくなって部屋の中を眺め渡したが、部屋のどこにもそんなスペースは残っていなかった。学習机とセットになった椅子の上にまで、雑多なゴミがぱんぱんに詰まったビニール袋が置かれている。 少し行儀が悪いような気がしたが、ホクトは机の上を軽く手で払って、その上に腰掛けた。 そうやって、ペットボトルに時々口を付けながら、ぼんやりと自分の部屋を見渡す。 そんなに荷物の多い方だという認識は無かったのだが、数年も住めば、やはりそれなりに物は増えてしまうらしい。 部屋に積み上がるいくつものダンボールと、ゴミ袋と、そして未整理の荷物の山を等分に見比べて、ホクトは小さく溜息をついた。時間的にはこれから暑くなる一方だというのに、まだまだ作業に終わりは見えない。 やれやれと思いつつ、ペットボトルの中の麦茶を飲み干す。それを椅子の上のビニール袋に入れようとしたとき、ふと、開きかけた机の引出しの中に目が止まった。 |
白いアルバム 作者:長峰 晶 |
引出しを開けて、目に止まったそれを、一枚の写真を取り出す。 写真の真ん中には、ホクトと武、そして二人にしがみつくようにして沙羅と空がいる。それからやや離れた、写真の手前側の方には秋香奈とつぐみの後ろ姿があり、写真の一番奥の方には、小さく映る桑古木の姿が見える。 ピントは真ん中にいるホクトと武に合っていたし、写真の中の桑古木の姿は余りにも小さくてその表情までは見て取れなかったが、ホクトはそのときの光景をありありと思い出すことができた。桑古木は南無と手を合わせつつも、片目をつぶって、実に楽しそうに笑っていたのだ。 全くもう、と心の中で呟く。 手の中の一枚の写真が、ホクトの記憶の扉を、ゆっくりと押し広げていった。 始まりは、ゴールデンウィークのとある一日のことだった。 日本全国が大型連休を満喫している最中、倉成家もその例にならい、のんびりとした休日を過ごしていた。 特に今年のゴールデンウィークは、アメリカに留学中の沙羅が久々の長期休暇を取って日本に一時帰国しており、家族四人が勢揃いしている。特にどこへ出掛けるわけでもなかったが、ただのんびりと一日を過ごすだけで、充分に楽しかった。 秋香奈――田中優美清秋香奈が倉成家を訪れたのは、ちょうど連休も半ばを過ぎかけたある日のことだった。 「ホクト、飯の準備ができたから、運ぶのを手伝ってくれ」 「うん、ちょっと待ってて。すぐ行くから」 ホクトはそう言いながら、ちらりとリビングの方に目を走らせる。 女三人集まれば、何とやら。つぐみと沙羅と秋香奈が、実に楽しそうにお喋りをしている。 つぐみが声を上げながら笑っているのを見て、ホクトの頬も思わず緩んだ。 沙羅がアメリカに留学してからかれこれ二年が経つが、今でもつぐみは、時々随分と寂しそうな表情を見せる。もちろんホクトも武も一緒には暮らしているのだけれども、やはり女親としては、女同士の話しができる娘の存在がとても大きいらしい。 沙羅が留学して以来、そのことを気にしたホクトは、それまで以上に秋香奈を倉成家へ招待するようになった。 今では、秋香奈はほとんど家族同然、と言っても良いかもしれない。とにかく、そのお陰でつぐみの寂しさがかなり抑えられたのはまぎれもない事実である。 ――これなら、今日の話も上手くいくかも。 ホクトは心の中でそう呟きながら、てきぱきと料理をテーブルの上に並べ始めた。 「うーん、やっぱりパパの作る鯖の味噌煮は最高でござるなぁ。それにこのふろふき大根も。これを食べると、家に帰ってきた気がするでござるよ」 「そうかそうか、どんどん食べろよ。胃袋の方もアメリカンサイズになってるんだろうから」 「確かにマヨ、大きくなったわよね……」 秋香奈がしみじみと呟く。 アメリカの水が合ったのか、沙羅は随分と背が伸びている。さすがにつぐみよりは低いが、秋香奈は抜かれてしまった。ホクトには三年前に抜かれてしまったが、そのときとはまた違う、なんともいえない敗北感に似た気持ちがある。 (普通、高校を卒業してから身長は伸びないと思うんだけど……) 心の中で、ごにょごにょと呟く。余り根拠はないが、もしかしたら、ハーフ・キュレイは成長が人より遅いのかもしれない。 そして、大きくなったのは身長だけではなく。 身長に比例して、というか一部分のパーツは身長以上に成長している。それがまた、秋香奈の敗北感を一段と煽る。 「まあ、マヨももう大学生だもんね。ええと……カルテット、だったっけ?」 「……カルテックでござるよ、なっきゅ先輩。California Institute of Technology――カリフォルニア工科大学でござる」 「カリフォルニアの東大って言われてるところよね。確か、『カリフォルニアみたいな気候の良いところで、みんなで青い顔して勉強ばかりしている』ので有名だったと思うけど」 「それは一面の真実だけど、なんだか、ひどい言われような気が……」 つぐみの言葉に、沙羅ががっくり肩を落とす。 「詳しいな、つぐみ」 「まあ、昔、ちょっと住んでたことがあるしね。カルテックには、水道の配管工事をしに行ったこともあるわ」 「配管工事って……」 絶句する武。しげしげとつぐみの方を見つめるが、つぐみはしれっとした顔でそれを流す。 一緒に暮らし始めてもうそろそろ四年になるが、まだまだ、つぐみの過去には不明な点が多い。 「ええと、それはさておいて、ちょっと話は替わるんだけど」 目の前のビールが注がれたグラスにちょっぴり口を付けてから、ホクトが口を開く。 次の台詞がなかなか出てこないので、ホクトと秋香奈を除く三人――武、つぐみ、沙羅の視線が、自然とホクトの方に集まってくる。赤くした顔を、上げたり下げたりしながら汗を浮かべているホクトの脇を、せっつくように秋香奈が肘でつついた。 「実は、その……この前、ユウに結婚を申し込んで、OKしてもらったんで、今日はその報告を」 そこまで言って、ホクトは目の前の三人の顔を見渡す。 三人とも例外なく、目を大きく見開いて、その驚愕の大きさを伝えていた。 「うーん、何はともあれめでたい話だな。ちょっと乾杯でもするか。ほらつぐみ、グラスを空けて」 何やら動揺を隠しきれないままに、武がビールの瓶を手に取る。半ば呆然としつつも、つぐみは言われるままにグラスを一息で空にして、武の前にグラスを差し出した。 武の音頭で、ややぎこちないながらも、皆で乾杯をした。 「それにしても、ホクト、お前まだ学生だろ? ちょっと早過ぎないか?」 「あ、ちゃんと卒業はするつもりだから、心配しないで」 「そうそう、なんだったら学費は私が持っても良いし。なんてったって、この春から社会人だもんね」 「……卒業するまでは親の責任だから、その点は心配しなくても良いわよ。それより、武も言ってたけど、ちょっと早過ぎない? 後二年もすれば、卒業なんだし」 その点は考えなくもなかったけどね、とホクトは頷いてみせる。 「まあでも、二人の気持ちが固まってれば待つ必要もないかな、って思って」 「そういうもんかね」 「そうだよ。そもそも、お父さんがお母さんに結婚を申し込んだのって何歳の時?」 ホクトの言葉に、武はううむと唸る。 「……二十歳の時、だな」 戸籍上は三十七歳だったけれども。 「今年は2038年。さてぼくは、何歳でしょう?」 「……二十歳、だな」 参りました、というように武が両手を上げる。 「そうそう。もう指輪ももらっちゃったし、これで『後二年おあずけ』っていうのは殺生よ」 「ああっ、なっきゅ先輩、それ! ずるい!!」 「ふふふ、羨ましい? ホクト、結構頑張ってくれちゃったのよね」 声を上げる沙羅の視線は、秋香奈の左手の薬指の一点に集中している。九月の誕生石、サファイアが深い海の色を湛えて、そこに輝いている。俗に給料三ヶ月分と言うけれども、ホクトがかなり『頑張った』ことが伺いしれる。 今までずっと隠していたそれを、ここぞとばかりにテーブルの下でこっそり嵌めていたのである。会心の笑顔を浮かべる秋香奈に、ふとつぐみの胸がちくりと痛んだ。 自分と武の時は、プロポーズから結婚式までわずか一月余りだったので、指輪をもらう暇もなかった。まあ、生活費などのことを考えると、とてもそんな余裕もなかったし、つぐみも特にこだわってはいなかったのだけれども。 さすがに結婚指輪はしているが、それとて、購入に至ったのは桑古木が武に入れ知恵をしてくれたお陰である。 「……優はなんて?」 「あ、うちは放任主義だから、あっさりしたものよ。『結婚は本人同士が決めることだから、とやかく言うつもりはない』って。さばさばしてるわよね、実際」 「良く言うよ。そんなこと言いながら、最後は泣きながら二人で抱き合っていたくせに」 「あああっ! それは言わないでって、言ったじゃない!!」 真っ赤になって、ホクトに向かって手を振り上げる秋香奈。 そういえば、田中先生は涙ぐむ程度だったけど、ユウの方は大泣きだったっけ、とホクトは心の中で付け加える。 「はは、なんだか優らしいな。まあ、優も納得してるなら、俺達の方も特に異論はないぞ。なあ、つぐみ?」 「そうね。確かに、遅かれ早かれと言う気もするし」 そう言って、武とつぐみは穏やかに微笑む。 ホクトはそれを見て、大きく安堵の息を吐いた。 「なんだなんだ、大仰に溜息なんか付いて。反対されるとでも、思ってたのか?」 「いや、そういうわけじゃないんだけどね。それはそれとして、やっぱり緊張したよ」 そう言って、ホクトはテーブルの上のグラスを一息に飲み干す。すかさず、秋香奈がそこに新たなビールを注いだ。 「それにしても、優も寂しくなるわね」 しみじみと呟くつぐみ。沙羅一人がいなくなっただけで、この家は随分静かになったものだ。 優は一人娘の秋香奈と二人暮らしだから、寂しさもひとしおだろう、とつぐみは思う。 「あ、お母さん。そのことなら、心配はいらないというか、その」 「どういうこと?」 「いや、だからね。その……ユウや田中先生とも話したんだけど、実はぼく、田中家の婿養子になろうかと思って。だから、ユウと結婚したら、あっちの家に引っ越すことになるね」 「何ですって?」 つぐみの硬い声に、部屋の中が瞬時に沈黙に包まれた。 ホクトは、自分が地雷を踏んだ感触――足元でカチリと音がしたその感触を、はっきりと捉えた。 今、足を動かせば間違いなく爆発する。 その恐怖に身を竦ませながら、ホクトは爆弾処理班を求めて周囲に視線を走らせた。 最初に目が合ったのは、沙羅だった。ホクトは視線で精一杯助けを求めてみたが、沙羅はどこか悲しげな表情をして、ついっと視線を外してしまった。 (さ、沙羅〜〜!) ホクトは衝撃に打ちのめされつつも、慌てて武の方に視線を動かす。その視線を受けて、武はつぐみの方に向き直った。 「ま、まあ落ち着けつぐみ。優の家なんかここからすぐ近くじゃないか。別に遠く離れ離れになるわけじゃなし」 「武は、黙ってなさい!」 一喝する。 その声に、倉成家の男二人はびくりと体をのけぞらせた。 「良い? ホクト、あなたは長男。この倉成家を支えて行く身なのよ? そんなあなたが、婿養子に行ってどうするのよ。そんなことをされたら、私、お義父さまにもお義母さまにも合わせる顔がないわ」 「いや、親父もお袋もそんなことを気にするとは……」 「あ・な・たは黙ってなさい、って言ったでしょ!!」 言葉とともに繰り出される、『神の拳』の二つ名を持つボディブロー。武は、テーブルの下に沈没した。 「パパとママがいるんだから、倉成家はほとんど永遠に安泰だと思うけど……」 可聴領域すれすれの声で、ぼそりと沙羅が呟く。その声は、幸か不幸か、ホクトのところまでしか届かなった。 「ええと、でもほら、お母さん、自分でも言ってたじゃない。田中先生も寂しくなるって」 「あれは、言葉のあやよ。大体、優のところには無駄に存在感あふれる居候がいるじゃないの。寂しくなんか、ないわよ」 「その居候って、空のこと?」 秋香奈の眉が、ぴくりとはね上がる。 2034年のあの事件以来、空はマンションの一室を借りて一人暮らしをすることになった。しかし、やはり初めから何もかも一人でというわけにはいかず、結局、田中家にほぼ入り浸りになっている。秋香奈にとって、空は既に家族同然であり、それを悪し様に言われるのは、やはり良い気がしない。 もっとも、田中家に入り浸る空は、往々にしてそこを拠点にして武にさまざまなアプローチを掛けてくるので、つぐみが快く思わないのも無理からぬ話ではあるのだが。 「あ、あの。ユウもお母さんも、落ち着いて」 秋香奈の中で、野生の牙が、厄介なぶち切れ資質が、熱くたぎり始めているのを感じてホクトは汗をかきつつ仲裁に入る。 だが、それは一歩遅かった。 「今時、家がどうのこうのって、余りにも感性が古いんじゃない? そんなこと言われたって、私やホクトはそんな感覚、持ってないわよ?」 秋香奈は、芝居がかった仕草で、大仰に肩を竦めて深々と溜息を付いてみせる。 「全く、これだから平成ヒトケタ世代は――」 その言葉が、途中で止まった。 つぐみの手に握られたビール瓶が、テーブルの上に突き立てられる。頑丈さが取り柄のテーブルが、鈍い音を立てながら細かく震えていた。 ホクトは、慌ててそのビール瓶を握りながら、おろおろとテーブルの上の栓抜きを探し求める。 その頭上を、小さな物体がすごい勢いで吹っ飛んでいった。 壁に当たって砕ける、首の辺りで切断されたビールの瓶の頭部。 それが、つぐみの拳から突き出された細い人差し指によって為されたことを、ホクトは瞬時に理解した。 つぐみを除く面々が呆然とそれを見つめる中で、つぐみはその瓶を掴み、ビールをごくごくと飲み干していった。 「平成ヒトケタ世代で、悪かったわね……!」 目が、完全に座っている。ホクトと沙羅は、ひっと小さな悲鳴をもらした。 「どうせ私は平成ヒトケタよ。前世紀の遺物よ。カビ臭い感性が、苔むしてるわよ」 「お、お母さん、ユウはそこまでは……」 なだめようとするホクトを、つぐみは鋭い視線で睨み付ける。 ホクトの背中に、どっと汗が噴き出した。自分はこのまま、父の後を追うのかもしれない。そんな不吉な予感が、背中を駆け抜ける。 「……まあ、そうは言っても、闇雲に反対するのも考え物よね」 そう言って、つぐみは微笑みを浮かべる。 後ろに秋香奈がいなければ、ホクトは思わず土下座してしまったかもしれない。そんな、凄絶な笑みだった。 つぐみと秋香奈との間で、視線が交錯する。その張りつめた空気に、ホクトは生きた心地がしなかった。 「ゲームをしましょう、秋香奈」 にこやかに微笑みながら、つぐみはそう告げた。 |
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