白いアルバム
                              作者:長峰 晶



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「――まあ、何と言ったものかしら。災難だったわね、ホクト君」
 ホクトの目の前で、春香奈――田中優美清春香奈が、しみじみと呟く。その言葉に、ホクトは声もなくうなだれた。
 途中までは、かなり良い感じで話は進んでいた筈だったのだが。何が、一体どうなって、こんなことになったのか。
 あれから、数日が経った。
 結婚の話は完全にストップして、その先行きすら見えない。ホクトは深々と溜息を付いた。
 家にいると、何かと居心地が悪いので、こうして田中家に逃げ込んできている。それがますます自分を追い詰めているような気がしないでもなかったが、どうすることもできなかった。
「で、結局、『ゲーム』ってのは?」
 コーヒーを差し出しながら、桑古木が問い掛ける。仕事帰りのところを呼び出されたのか、背広とネクタイを身に付けたままである。外見年齢は大分近付いたホクトと桑古木であるが、やはり、スーツの着こなしではまだまだ桑古木にはかなわない。
 ホクトは答える前に、一口そのコーヒーを啜った。
 ユウの淹れてくれるコーヒーは別格として、桑古木のコーヒーはとても美味しい、とホクトは思う。甘さの加減も温度も、ホクトの好みにぴったりである。今日は疲れ果てたホクトを気遣ってか、いつもよりも心持ち甘くしてくれている。
「……連休明けの次の日の夜中、春名山の下り、一本勝負」
「春名の下りって、車で?」
 春香奈の問いに、ホクトは無言で頷く。
 ちなみに、秋香奈は『特訓』と称して愛車で走り込みに行っている。
 いつもなら秋香奈の行くところにはどこへでも付いていくホクトだが、秋香奈に本気で走られたら、とてもその横では乗っていられない。過去に一度、秋香奈が言うには『流して』走っている横に乗り合わせたのだが、その日以来、ホクトは秋香奈が運転する車に乗る機会を極力避けるようにしている。
 思えば、ホクトが車の免許を取ることにした最大の要因が、それである。
「それって、つぐみが言い出したの?」
「違います。お母さんがユウに、『あなたが一番得意な種目を選びなさい』って言ったから、それで」
 ホクトはどこか遠い目をして、そのときのことを思い出す。

 意外にも、真っ先に反対の声を上げたのは沙羅だった。
「だ、だめよ、そんなの! なっきゅ先輩はこれでも元・苦麗無威――きゃんっ!」
 いつの間にか沙羅の後ろに張り付いた秋香奈が、沙羅の耳元にふっと息を吹きかける。
(な……なっきゅ先輩、いきなり何をするでござるかぁっ!)
(あらあらマヨ、何をそんな他人行儀な呼び方してるの? 『お・姉・様』、そう言ってごらんなさい?)
(こ……この状況下でそれは、あらゆる意味で嫌でござるよ!)
(まったく、可愛くないわね〜。もっと素直になった方が良いわよ、ほらほら)
(ちょっ……ちょっと、なっきゅ先輩、一体どこを……!)
 小声で囁き合っていた沙羅と秋香奈は、ふと自分たちを貫く冷たい視線に気付き、身を震わせた。
 赤外線視力は持っていない秋香奈だったが、つぐみの全身から噴き上がる青白い怒りのオーラを、その時、はっきり感じることができた。
 ホクトのみならず沙羅までも――その瞳が、何よりも雄弁にそう語っていた。

「それで、ユウはなんて?」
「『パットじゃなくて本物だった』、だそうです」
「は?」
「あ、すみません、今のは忘れて下さい。『そうまで言うなら、車で勝負よ!』と」
「まあ、ある意味、無難かもしれないわね……パーフェクト・キュレイのつぐみを相手に勝負するんだから、単純な運動能力を競う競技じゃ、勝負にならないわ」
 春香奈はそう言いながら、古びたサインペンで頭を掻いてみせる。
 秋香奈も運動神経はかなり良い方だが、いくら何でも相手が悪い。運動系がだめなら知力を競う、という手もあるのだが……。
「それに、つぐみの頭の良さって半端じゃないからな。秋香奈には悪いが、ちょっと、そっち方面では勝てる気がしない」
 桑古木の言葉に、ホクトが深々と頷く。
 何と言っても、天才ハッカー・沙羅の母親である。その知性も、尋常なものではない。
「それにしても、ユウも口が滑ったわよね。つぐみの前で、『平成ヒトケタ』なんて」
 それはちょっと禁句よね、と呟きながら、平成二桁世代の春香奈は余裕の笑みを浮かべる。
「それに、『前世紀の遺物』だったっけ? いくら何でも、それも言い過ぎだと思うわ」
「いえ、それはお母さんが自分で言ったんです。ユウはそこまでは言ってません」
「それにしても、何か引っ掛かる言い方よね。そう思わない、涼権?」
「いや、俺はぎりぎり二十一世紀生まれだから。そこでコメントを求められても」
 無関心にそう答える桑古木に、春香奈の眉がぴくりと震えた。
 薄い笑みを浮かべながら、ソファの隣りに座る桑古木の胸元に手を伸ばす。
「涼権、タイが曲がっていてよ?」
「ちょ、ちょっと待て、優!」
 ネクタイを掴む春香奈の手を、桑古木が慌てて抑えつける。
「何? この手、邪魔よ」
「なんでたかだかネクタイ直すのに、そんなに力がこもってるんだ?!」
「……構図自体は悪くないんだから、二人とも、もう少し生産的な会話をした方が良いと思うけど」
 呆れたようなホクトの声に、桑古木と春香奈ははっと互いの身を離した。
 会話さえ聞こえてなければ新婚夫婦みたいなのに、とホクトは心の中でそっと溜息を付く。
「話は脱線しちゃったけど」
 こほん、と春香奈がわざとらしく咳払いをしてみせる。
「ホクト君、どうする? ちょっと寂しいけれど、ユウが倉成家に嫁ぐ、っていうことでも私は構わないわよ」
 あの子の幸せが一番だものね、と春香奈は優しく微笑む。
「しかし、それじゃ抜本的な解決にならないような気がするぞ。そうなったらそうなったで、いつかはまた、今回みたいな衝突があるんだろうし。問題を先送りにするくらいなら、いっそ今回でケリを付けておいた方が良くないか?」
「確かに、それは言えるわね。そもそもは、つぐみが子離れできていないのが最大の原因なわけだし。この一件でユウと真っ正面からぶつかり合ってお互いを認め合って、ついでに子離れも解消、となったら万々歳よね」
 雨降って地固まるって言うもんね、と春香奈は肩を竦めてみせる。
「……雨くらいなら良いんですけど。なんだか、暴風雨になりそうな気配です」
 ホクトの頭の中で、『大雨洪水警報です』という気象予報士の爽やかな声が響き渡った。
「まあ、そうは言っても決まっちゃったことは仕方ないわ。ユウが勝てば、ホクト君を婿養子として迎えられる。たとえ負けたとしても、ユウが倉成家が嫁ぐことになるだけなんでしょうから、大した問題じゃないし」
「それが、そうじゃないんです。ユウが負けたら、半年間、交際禁止という条件になってます。実際に会うのはもちろん、電話もメールも禁止」
「呆れた……そんな条件、呑んじゃったの、あの子?」
「ユウ、かなり頭に血が昇ってましたし……それに、車には相当自信があったみたいで」
 ちなみに、ホクト自身の意思は全く考慮されなかったことは言うまでもない。
「そんなわけで、今、家に帰るとテーブルの上にどっさり見合い写真が置いてあるんです。それも日に日に増えていって」
 ホクトは深々と溜息を付く。つぐみとしても、本気でホクトを見合い結婚させようとしているわけではなく、単に秋香奈への嫌がらせである。それは分かってはいるものの、というか分かっているだけに、余計に家にいるのが辛い。
「ホクト君。まさかとは思うけど、ユウにプロポーズしておいて、今さら見合いをしようなんて考えてないわよね?」
「冗談じゃないですよ! ぼくは、ユウ一筋です!」
 そこを誤解されては立つ瀬がない。
 ホクトは、これ以上ないほど力強く言い切った。
「そう。それなら良いんだけど」
 春香奈はそう言って、ちらりと隣りに座る桑古木に視線を走らせる。
「涼権。あくまで仮定の話だけど……もしもユウを泣かせるような誰かがいたら、どうしたら良いと思う?」
「決まってるだろ、そんなの? ――老若男女、容赦無しだ」
 そう言って、春香奈と桑古木はホクトに向かって生暖かい笑顔を向ける。その目が、笑っていない。
 ホクトは、ごくりと唾を呑み込んだ。


 そして、決戦の夜がやってきた。
 つぐみと冷たく視線をぶつけ合う秋香奈の横で、ホクトははらはらしながらそれを見つめる。
 秋香奈はかっちりとした襟の白いシャツに、黒いスラックス。手には、指の先が切られた黒革のグローブを嵌めている。
 足下を固めるブーツは、靴紐をペダル等に引っかけないように、紐を上からベルトで抑えつけた本格仕様だ。
 そして、頭には前髪が落ちかかるのを防ぐためのバンダナ。そこに『苦麗無威』という文字が読み取れたような気がしたが、ホクトは敢えてそれを無視した。
 ホクトは秋香奈の愛車に視線を移す。トリプル・ロータリーの水素エンジンを搭載した赤いRX-11のしなやかなシルエットが目に飛び込んでくる。ロータリー・エンジンにこだわり続けたマツダが、ロータリー型の水素エンジンの開発に着手してから、かれこれ半世紀近い年月が経過している。RX-11はその集大成、エンジニア達の魂の結晶とまで称されるモデルだった。
 ピュア・スポーツ――RX-11を表す言葉は、つまるところその二語に集約されると言われている。
 一方、対するつぐみはと言うと。
 服装はいつも通りの、セミロングワンピースである。足下もいつものショートブーツで、『ちょっと買い物に行ってくる』と言われても全く違和感のない装いである。ある意味、秋香奈と対照的といえる。
 そして、つぐみが乗ってきた車は。
「シルビア……?」
 二十一世紀初頭に一度は生産中止となり、ラインナップから姿を消した往年の名車である。比較的最近、三十数年ぶりに奇跡の復活を遂げ、一部のファンの熱狂的な支持を集めている。
 ただし、RX-11と同じ2ドアクーペではあるものの、RX-11が純粋なスポーツカーであるのに対し、シルビアはあくまで『スポーティなスタイルを持った車』という位置づけである。その分、価格的にも手頃なので、特に若年層に人気が高い。
「スペックRなら分かるけど、スペックSっていうのが納得いかないわ」
 目をぎらぎらと輝かせながら、ぼそりと秋香奈が呟く。
 狂犬モード、発動中。
 触らぬ神に祟り無し、とホクトはコメントを控えた。
 シルビアのグレードには大きく二つのグレード、秋香奈が言ったスペックRとスペックSの二つがある。この内スペックRは、BMWから技術供与された水素エンジンを搭載したスポーツモデルで、この価格帯の車としては、抜群の戦闘力を誇る。
 一方、スペックSは燃料電池搭載モデルで、価格は非常にリーズナブルだが、スポーツ走行と言う点ではスペックRに比べると大分見劣りする。良く見れば、つぐみが乗ってきたのは左ハンドルの輸出仕様車だったので、国内仕様に比べればいくらか戦闘力は高い筈であるが、それとて限度というものがある。
「たまたま、左ハンドルで借りられる車がこれしかなかったのよ。それに私、免許はオートマ限定だし」
 そう言って、挑発的な笑みを浮かべるつぐみ。
 秋香奈の目がすっと細められた。シルビア・スペックRは前述の通りスポーツモデルなので、RX-11と同様、マニュアル車限定である。秋香奈の常識では、走り屋と水素エンジンとマニュアル車は、固くイコールで結び付けられている。その彼女が、オートマ限定――すなわち、素人のつぐみに、挑戦状を叩き付けられている。
 絶対に、負けるわけにはいかなかった。
「ゴールに着いた田中先生から連絡がありましたよ。『コースはオールクリア、いつでもスタートしてもらって構わない。事故にだけは気を付けて』だそうです」
 涼やかな空の声が、睨み合う秋香奈とつぐみの間に割って入る。
 それぞれの車に乗り込もうとしていたとき、つぐみの視界に、さりげなく武の側にすりよっていく空の姿が映った。
 ドアノブに掛けていたつぐみの手が、ぴたりと止まる。
「武、一緒に来て」
「は?」
「どうしても、あなたが必要なの……お願い、武」
 囁くつぐみの、甘い声。武はセイレーンの歌声に惹かれる船乗りのように、ふらふらとつぐみの車に近付いていった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
「何? 別に武に運転させる気はないわよ。ただ、一緒に乗ってもらうだけ」
「何の意味があるのよ! そんなの、車体を重くするだけじゃない!」
「ふふ、そうかもね……でも、夫婦なんだから、いつでも一緒にいたいって思うのは当然じゃない?」
 あなたにはまだ分からないかもしれないわね、と小悪魔的な笑みを浮かべるつぐみ。
 どちらかというと、ユウより空に聞かせるつもりだったのかも――ホクトは心の中で呟く。そのホクトの横で、空が強ばった笑みを浮かべながら、手を小刻みに震わせている。はっきり言って、とても怖い。
「ホクト、一緒に来て」
「え? ええっ?!」
「来てくれるわよね、もちろん! 私達、夫婦になるんだから!!」
――断ったら殺される。
 自分の手をすごい握力で握り締める秋香奈の手の感触を感じながら、ホクトはこくこくと頷いた。


「二人とも、準備は良い?」
 道路に並んだ二台の車を見ながら、その側の駐車スペースに立つ沙羅が問い掛ける。その足下に、空き缶が一つ。
 つぐみと秋香奈が、こっくりと頷く。
 何が一体どうなって、こうなっちゃったんだろう? ホクトは秋香奈に気付かれないようにこっそり溜息を付きながら、五点式のシートベルトをもう一度締め直す。
 トリプル・ロータリーの独特のアイドリング音が、ホクトの下腹に響いてくる。
 これとは対照的に、つぐみのシルビアは燃料電池車なので、ほとんど無音である。どういうわけか、武は助手席ではなく、後部座席に座っている。2ドアクーペの後部座席は『とりあえず付いているモノ』であって、居住性は皆無な筈なのに。
「それじゃ、行くよ!」
 沙羅はそう言って、力強く足下の空き缶を蹴り上げた。
 かん、と言う音と共に、空き缶が空高く舞い上がる。
 数瞬の、後。
 地面に落ちた空き缶が、乾いた音を立てて転がっていく。
 それと同時に、秋香奈の駆るRX-11が、スタート地点をすさまじい勢いで飛び出していった。



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