白いアルバム 作者:長峰 晶 |
――これはきっと、何か悪い夢を見ているに違いない。 ホクトは虚ろな視線を前方に向けながら、深い深い溜息を付いた。 周囲の風景が、冗談としか思えないような速度で流れ去っていく。 F1マシンのゼロ発進は最新鋭戦闘機の離陸滑走をも上回り、コーナーリングGもまた、高機動旋回中の戦闘機とほぼ互角だと、昔どこかで聞いたことがあった。 ホクトは、その現実を、全身で体感していた。 「ふっふ〜ん、思った通り楽勝ね。全然付いてこれないじゃない」 真っ青な顔で脂汗を浮かべているホクトの横で、秋香奈が鼻歌まじりに呟く。 ちらりとホクトの方に視線を走らせ、苦笑を浮かべながら、心持ちアクセルを緩める。 「だらしないなー、ホクト。こんなの、まだまだ全開じゃないんだからね?」 「ユウ、お願い、これ以上はもう勘弁して……」 うっすらと潤んだ瞳で、ホクトが訴えかける。 秋香奈の胸が、高鳴った。秋香奈は、ホクトのこの表情に弱い。 もっと、いじめたくなってしまう――のだが、今はさすがに控えることにした。 「それはそうと、ホクト……これで婚約は成立したも同然だし、今日、この後、良いよね?」 かすかに頬を赤らめながら、秋香奈が囁く。 どうも、先程のホクトの潤んだ瞳が、色々なところにクリティカルに効いてしまったらしい。 「え? う、うん、それはもちろん、ぼくは構わないけど」 顔を真っ赤にしながら、ホクトが答える。その一瞬、恐怖が消えていた。 「ありゃりゃ、随分離されちゃったな」 後部座席から、のんびりとした武の声が響く。 何やら一波乱あるかと身構えていたのだが、杞憂だったらしい、と武は心の中で呟く。このまま、秋香奈のワンサイド・ゲームで終わる気配が濃厚だ。 「春名の下りは、序盤は高速コーナーばかりだから……ちょっとこの車で追い込むのは辛いわ。直線じゃ、絶対敵わないし」 「って、つぐみ、まさか、ここからまだ追いつく気でいるのか?」 「当たり前でしょ? というか、わざと先行させているのよ。これで秋香奈が油断して、序盤を流して走ってくれたらこっちのものよ。タイヤとブレーキを温存したまま、後半戦に持ち込めるわ」 狙い通り、秋香奈は全力では走ってないみたいよ、とつぐみは薄い笑みを浮かべる。 「しかし、これだけ離されてたら後半戦も何もあったもんじゃないと思うが」 「安心して、武。今から追いつくから。それも、秋香奈には気付かれないように、ね」 どうやって? と武が訝しげな視線をつぐみに向ける。 それをバックミラー越しに見やりながら、つぐみは小さく笑みを浮かべて、手元のスイッチをひねった。 春名の下り、その序盤戦が、終わった。 ここから先は、中・低速コーナーが連続するテクニカルなコースが続く。 だが、秋香奈の心に不安はない。RX-11は日本、いや世界屈指のコーナーリング・マシンだ。コースが厳しくなればなるほど、その真価を発揮する。それに、つぐみが追いついてくる気配は全くない。 ――まあ、当然の結果よね。 余裕の笑みを浮かべながら、そっと髪をかき上げる。その瞬間、強烈なヘッドライトの光が、バックミラーを照らした。 「な、何……!」 状況についていけずに、秋香奈の喉から悲鳴に近い声が洩れる。 つぐみの駆る、シルビア・スペックSがその車体をRX-11に並べようとしているのに気付き、秋香奈は慌ててアクセルを踏み込んだ。 トリプル・ロータリーが、力強い咆吼を上げる。 瞬間、車体が急速に加速したが、それと同時に、次のコーナーが急激に近付いてきた。 一瞬の後の、フル・ブレーキング。 強烈な減速Gに隣のホクトが悲鳴を上げるのが聞こえたが、構わず、鋭くステアリングを切る。 減速Gに横Gが加わり、ホクトは、もう声を出すこともできなかった。 「そんな……!」 信じられない思いで、秋香奈はバックミラーを見つめる。全開走行のRX-11が、シルビアを――オートマ限定のつぐみの車を、引き離すことができない。 「ふふっ、屈辱でしょう、秋香奈? ……ストレートで遅いマシンに、コーナーで食い付かれるのは」 楽しそうにそう囁くつぐみの姿に、武の背に冷たいものが走る。 瞬間、信じられないような横Gが、武を襲った。 「つ、つぐみ? 滑ってる! ずりずり滑ってるぞ、この車!!」 「私、最初に運転を習ったのがダートコースだったから……ドリフトが基本になっちゃったのよね」 秋香奈はグリップ走行みたいだけど、と付け加える。 武の常識では信じがたい方向に車体を向けて、シルビアは次々とコーナーを抜けていく。 ――つぐみに運転を教えた奴に、一度会ってやりたい。 その機会があれば、問答無用で怒りの鉄拳を叩き込んでやる。武は、心の中でそう誓った。 ヘアピンカーブを抜けて、直線に移る。そこで一気に引き離そうとした秋香奈の心を読んだように、つぐみはコーナー出口で車体をすっとRX-11の横に並べて、そのままどんどん車体を寄せていった。 一体、何を。 身構える秋香奈の横で、つぐみはドアミラーまで倒して、限界一杯まで車体を寄せてきた。 加速も減速もままならず、汗を浮かべながら、秋香奈はステアリングを握る手に力を込める。 その視界の片隅に、運転席の窓をノックするようなポーズを取っているつぐみの姿が映った。 秋香奈は、ゆっくりと首を回して、つぐみの方に視線を向けた。 つぐみは無表情に秋香奈を見つめながら、握り締めていた拳から、とある指を一本、突き立てた。 (お……お母さん、なんてことを……!!) 助手席で、ホクトが声にならない叫びを上げる。 油の切れたブリキ人形のようなぎこちない動きで首が動き、秋香奈の視線が、前方に戻った。 「ユ、ユウ?」 「バナ〜ナッ! バナ〜ナッ!」 「あ、あの……」 「アポー、アポー、パイナッポー」 壊れはてた秋香奈に、ホクトが絶望的な視線を向ける。 肩を震わせ、小さく押し殺した秋香奈の笑いが、車内に満ちる。 「上……等っ!!」 狂犬モード、全開。 秋香奈は隣にいるつぐみの車など目に入らない、というように、一気にアクセルを踏み込んだ。 それとほとんど同時に、つぐみの車が緩やかに横に滑っていく。 コーナーを前に、一瞬、車体が並ぶ。 次の瞬間、つぐみの車はすっと後ろに下がっていった。 (…………!) 秋香奈は、迷った。 まだ行ける、と自分の感覚は訴えている。なのに何故、勝負を挑んできたつぐみの車が下がっていくのか。 オーバースピード。 その言葉が頭をよぎり、秋香奈は震える。そのわずかな逡巡のあいだに、RX-11は、本来取るべきラインを外れていった。 「ブレーキング勝負なんて……言った覚えはないわよ」 立ち上がり重視のラインを取ったつぐみのシルビアが、コーナー出口で信じられないスピードで加速してくる。 秋香奈は歯を食いしばりながら前方を睨み付けると、強引に車体を振って、つぐみのラインを塞いだ。 つぐみは小さくふふっと笑うと、手元のスイッチをひねった。 「嘘……!」 突然、つぐみの車の姿を見失い、秋香奈が唖然とした声を上げる。 「ユウ、落ち着いて! お母さんは、ライトを切ってるんだ。赤外線視力があれば、ライトなんてなくても運転できる!」 思えば、序盤戦もこの手を使って、秋香奈に気付かれないように差を詰めていったのだ。 闇の中から、突然飛び出してきたつぐみの車が、コーナーの外側からラインに被さるように立ち上がってくる。 秋香奈の全身に、汗が吹き上がった。 辛くもコーナー出口でその頭を抑え、RX-11の加速性能にものを言わせてつぐみの前に出る。 それを嘲笑うように、パッシングが二回輝いて、そして消える。 再び、後方は闇に閉ざされた。 「思ったよりやるわね、秋香奈。でも、私を敵に回すには、あなたはまだ……未熟!」 「な、なあ、そろそろ勘弁してやったらどうだ? いくら何でも、やりすぎな気がするぞ」 助手席のヘッドレストにしがみつくような格好で、身を前に乗り出しながら武がぼやく。 「甘いわね、武」 一蹴された。 武は溜息をつきながら、天井を見上げた。 「いい、武? 良く前を見て御覧なさい。秋香奈の走りはもうぼろぼろよ。抜かれまいとして無理に踏み込んで、結果、コーナー手前で無駄にブレーキを踏む。タイヤもブレーキも、すごい勢いでヘタっていくわ。最後までは、絶対に持たない」 「いや、俺には見えないんだけど……」 武はまだ、赤外線視力には目覚めていない。 「武……負けるっていうのが、どういうことか、分かる?」 つぐみの問いに、考え込む武。その返事を待たずに、つぐみは言葉を継いだ。 「抜いたとか抜かれたとか、そんなことは負けじゃないの。自分はもう絶対に勝てない――そんな風に、心が折れてしまうことが負けなのよ」 そう言って、微笑むつぐみ。 一つの群に、二人のボスはいらない。そんなつぐみの心の声が聞こえたような気がして、武はかすかに震え上がった。 「もうすぐよ、武。もうすぐ秋香奈の心は、折れる」 「つ……つぐみ、何もそこまでしなくても。お前、何か秋香奈に恨みでもあるのか?」 「秋香奈はともかく……秋香奈の家の居候がいけないのよ」 「お前、それは八つ当たりだろ。それに、居候ってのは……空か?」 「そうよ」 そう言って、じろりと武を睨み付ける。 「な、なんだよ、つぐみ。俺と空の間には、やましいことなんて一つもないぞ」 「ホテル・グランデ。豪華昼食バイキングと、二十八階の展望プール」 武の口が、ぱくぱくと動く。 「どういうことかしら? 武」 「つ、つぐみ! 誤解だって、それは! あれは、元々優や桑古木も来るって聞かされてて、それで」 「まあ、昼食はそうかもしれないわね。でも、プールは?」 淡々と問い詰める、つぐみの声。それがかえって、恐ろしかった。 奥様情報網・井戸端会議を甘く見ていた武の、完全な失策だった。 「いや、それは。空の奴が、とうとう水に入れる体になったって言うもんだから。それで、泳ぎを教えてくれって、その」 「ふうん」 武のシャツが、汗を含んで肌にへばりつく。 確かに、『倉成先生に教えてもらうために、新しい水着も買ってきたんです! ……先生、見てくれないんですか?』という空の言葉に転んでしまったのは事実である。 やましいところが全くないと言えば、嘘になった。 「ねえ、武。私達って、家族よね?」 「あ、ああ……もちろんだ」 唐突なつぐみの問いに戸惑いつつも、武は慌てて答える。 「そう、家族。英語で言えばファミリーよ」 つぐみはそう言いながら、どこからともなくバットを取り出した。 「つ、つぐみ、お前一体どこからそれを……?」 そんな武の言葉を軽く聞き流して、つぐみは助手席のシートをバットでびしびしと叩いた。 「ファミリーっていうのは野球と一緒よ。チームワークが大切なの。誰かのファインプレーが、誰かのエラーで台無しになる。そういうものなのよ」 お前、それはファミリーが違う。 武の芸人回路が思わず突っ込みを入れそうになったが、辛うじてそれを堪えることができた。 「この中に裏切り者がいる……そう思わない、武?」 そんなことを言われても、この車の中には武とつぐみしかいない。 「ま、待て、落ち着け、つぐみ!」 叫ぶ武を横目に、つぐみは助手席の下のレバーを乱暴に引っ張った。 助手席の背もたれが前に倒れ、シート全体が前に滑る。 助手席のヘッドレストに掴まっていた武は、極めて無防備な背中をつぐみに晒す格好になった。 「武の、バカァーッ!!」 ――バットが、容赦なく振り下ろされた。 |
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