通過点 ―Passing Point―
                              長峰 晶

- 2 -


 湊がいなくなってからの五日間は、あっという間に過ぎていった。
 彼女がいなくなった分、仕事量が増えたというのも要因の一つだけど……仕事の合間にしていた湊とのお喋りがなくなったのも大きいと思う。ただひたすら仕事をして、寝る前にはノートパソコンを使った通信教育で勉強をして、ただひたすら眠る。そんな日々は、時間の流れを忘れさせる。
 湊の代わりに僕と組むことになった人は、僕より十歳以上も年上の人だったので、会話をつなげることすら難しかった。そもそも僕は、2017年5月1日以前の記憶は自分の名前と生年月日くらいしかないので、会話の種を見つけるのも一苦労なのだ。
 いなくなって初めて、自分がどれだけ湊に依存していたかを思い知らされる。
 この閉ざされた空間において、心を通い合わせることができる仲間の、なんと貴重なことだろうか。
 僕はそんなことをぼんやりと考えながら、湊が残していった少女マンガを手に取った。
 優に言わせると、マンガは人生の楽しみの二割くらいを占めるらしい。湊がいたときは、このマンガをネタに随分話が盛り上がったものだが、彼女はもう、ここにはいない。
 少女マンガを一冊読み終わったところで、腕時計に目を落とした。
 大分時間には余裕があったが、EVAのための準備を始めることにする。各種機器の事前点検が一通り済んだところで、僕の相棒となる人が入ってきた。潜水作業には余り慣れていないのか、がちがちに緊張しているのが、はたから見ていても分かる。
 僕はそれを刺激しないように、部屋の脇で黙って座り込んだ。
 しばらくして作業リーダーが現れ、作業前の最終ミーティングが始まった。ミーティングと言っても、ここに来る前にほとんどの打ち合わせが済んでいるので、かなり形式的なものだ。
 半ば無用とも思われるそのミーティングを終え、僕達は海中へとエントリーを始めた。
 今日は、ドリットシュトックに残るサポート要員はいない。
 海中でトラブルがあっても、その総てを自分で解決する必要がある。
 そうそうトラブルが発生する訳でもないが……とぼんやり考えていた矢先に、自分の相棒が、小さく浮いたり沈んだりを繰り返しているのが見えた。
 海中での作業時は、体が浮きも沈みもしない状態、いわゆる中性浮力を保つことが一つのポイントだ。
 浮力を調節するために、僕らはBC(Buoyancy Compensator)こと浮力補償衣を装備している訳だが、この操作が下手だと、浮き沈みを繰り返すことになる。まあ、どんどん浮いていったり沈んでいったりするよりは、まだしもましなのだけれども。
 僕は彼の側に近付き、適正な状態にBCを調整した。何だか随分バツの悪そうな表情で見つめられたが、余り気にしても仕方がない。
 そうこうしている内に、海上の母船から通信が入った。ザリガニを降ろす時間になったのだ。
 『ザリガニ』は一人乗りの海中汎用作業艇で、本当はかなり長ったらしい名前なんだけれども、外見がザリガニを連想させることからそう呼ばれている。潜水艦と同じく、操縦席が頑丈な耐圧殻で覆われているため、船内気圧を一気圧に保ったままで海中で作業ができる。すなわち、煩雑かつ長時間を要する加減圧作業が不要になる。
「こちらザリガニ。今から降ります」
 耳に付けた通信装置から聞こえてきたその声に、思わず体がびくりと震えた。五日振りに聞く、湊の声だ。
 しばらくしてザリガニが降りてくる。耐圧キャノピー越しに見えた湊の姿に、手を大きく振ってみせる。
 湊はほんの少しの間こちらを見つめたが、手を振り返すこともなくふいっと視線を外した。
……女の子の考えることは良く分からない。
 何か僕は、湊を怒らせるようなことをしただろうか。
 武ならもっと上手くやるんだろうけど、こんなとき、僕にはどうしたら良いのかさっぱり分からなかった。


 そうして、作業時間がそろそろ一時間に差し掛かろうかという頃。
 全く唐突に、それは起こった。
 最初に僕らに襲い掛かったのは、音だ。
 次いで、間髪入れず強烈な衝撃を体全体に受けた。
 海が、揺さぶられている――全くの誇張無しに、そう感じた。
 僕達ダイバーは、呼吸用のエアと保温用の温水をホースを通じてLeMUから供給されている。そのホースが体を繋ぎとめていなかったら、海中のどこかに吹き飛ばされていただろう。
 体に紐を付けられて、子供に振り回される昆虫のように。
 僕達の体は、海中であちこちに振り回された。
 耳に付けた通信ユニットから何度も叫び声が聞こえてくる。僕自身も、叫び声を上げていたかもしれない。その叫び声の中に、湊のそれが混じっていることに気付き、僕は慌てて視線を巡らせた。
 湊の駆るザリガニは、頑丈なケーブルによって母船から吊り下げられている。ザリガニは、ケーブルに引かれて振り子のように大きく振れていた。
 そして、その機体は、LeMUに向かって進んでいた。
 一際大きい湊の絶叫が、耳を貫いた。
 僕はどうすることもできずに、ただそれを見つめた。
 ザリガニがLeMUに衝突するかと思えたとき――突如、ザリガニを吊り下げていたケーブルが、機体のほんの数m上の接合部で、切り離された。
 僕は固唾を呑んでその光景を見つめ続ける。
 ザリガニは、ゆっくりと沈み込んで行き……本当にぎりぎりの高さで、LeMUの下をくぐり抜けた。
 僕は大きく息を吐いたが、そこで安堵する訳にはいかなかった。
 ザリガニは、少しずつではあるが、確実に海底に向かって沈んでいた。
 元々ケーブルで吊り下げられていたザリガニは、姿勢を安定化させるために、ほんの少しだけ浮力をマイナスに設定されている。僕はそのことに思い至り、マスクに付けられた通信マイクに向かって叫んだ。
「湊、バラストを捨てて!」
「だめだ、作動しない! どんどん沈んでいってる!!」
 背中に、冷水を浴びせられたような気がした。
 喉の奥が、からからに乾いていく。
「助けて……涼権!」
 その声に、僕は衝き動かされた。
 呼吸用のマスクを口元から引き剥がし、背負っていた緊急用の潜水ボンベに装着されたレギュレーターを口に咥える。LeMUと僕を繋いでいたホースを総て外し、BCの浮力調整をマイナスに切り替える。
 そして僕は、湊のザリガニに向かってまっすぐ泳いでいった。
「涼権! 涼権!!」
 耐圧キャノピーを叩きながら、叫び続ける湊。完全にパニック状態に陥っている。
 僕は湊に声を掛けようとして……自分がレギュレーターを咥えていること、通信マイクの付いたマスクを先程引き剥がしてしまったことを思い出した。
 自分もかなり動揺していることを、思い知らされる。耳に付けた通信ユニットで湊の声は聞こえるが、この状態では通信は完全に一方通行だ。
 ザリガニの側面に回り、緊急浮上用のスイッチに拳を叩きつけ、バラストの強制排出を行わせようとした。
 だが、ザリガニの底部に据え付けられたバラストはぴくりとも動かない。
 冷たい汗をかきながら、外部からの操作でバラスト以外に捨てられそうなものを、必死に思い出そうとする。
 十秒の後、ザリガニの腕の先、ハサミのような形をした部分が取り外し可能なことを思い出した。
 急いでザリガニの前、アームユニットの側に回り、ハサミ部分を二つ、右と左の両方を切り離した。それで沈降速度は極めてゆっくりしたものになったが、浮力をプラスにするまでには至らなかった。
――沈んでいく。
 LeMUの下の海底の深度は119m。ザリガニの耐圧殻はもちろん、ザリガニ自体も、その深度なら全く問題なく耐えることができる。ただし……光の届かない闇の世界で、パニックに陥っている湊の精神が、救援が来るまで持ちこたえられるかどうかは、極めて微妙だ。
 さらに、ザリガニの排出チャンバーからは、無数の泡が吹き出していた。それは、呼吸系統が閉鎖モードに切り替わっていないことを示している。呼吸系統を閉鎖/CO2固定モードに切り替えれば、最低でも十六時間は海底でも呼吸を維持できる筈だが、今、ザリガニは母船からのエアの供給を前提とした開放モードに――呼吸ガスを盛大に消費する状態になっていた。
 パニック状態になった人間は、通常時の五倍以上の呼吸ガスを消費する。その消費量は、大体、重作業を行うときの消費量に準ずる。
 人間が重作業を行う場合、一分間に約四十リットルの呼吸ガスを消費するが、深度119m、十三気圧の海底ではその十三倍の五百二十リットルの呼吸ガスを一分間に消費することになる。これは、呼吸系統を閉鎖モードに切り替えなければ、極めて短時間に酸欠を迎えることを意味している。
 湊を、外に出すしかない。
 僕はそう結論付けると、湊に向かって、耳抜きのジェスチャーをしてみせた。
 湊はどこか不安そうな表情をしながらも、しきりに頷いてみせる。僕はそれを確認して、操縦席の外側から緊急加圧装置を稼動させた。湊は今、一気圧の操縦席にいる。全くの加圧無しで現在の水深、56mの水圧下に出れば、圧力で肺をはじめとする内臓が潰されてしまう。おそらく……数分で絶命してしまうだろう。
 LeMUでは、深度51m、すなわち六気圧まで十七分間掛けて加圧を行っていた。この緊急加圧では、加圧時間は五分だ。体への負担は大きいだろうが、ゆっくりとはいえ機体が沈みつつある現状で、余り悠長な加圧をする訳にはいかなかった。
 深度が60mを超えた。早鐘を打ちそうになる心臓を、何とか抑え付ける。
 まだ、これからLeMUまで浮上しなければならない。パニックに陥って、エアを浪費する訳にはいかないのだ。
 六気圧への加圧が完了したとき、深度は65mだった。
 ザリガニの耐圧チャンバーを強制的に排出し、湊を操縦席から引きずり出す。
 半ば捩じ込むようにその口に僕が咥えていたレギュレーターを咥えさせると、BCの浮力を最大限プラスにした。
 深度65mから、51m――ドリットシュトックまで急上昇する。この深度差なら、減圧のための停止はいらない。僕は湊を抱えると、一直線にLeMUを目指して浮上していった。



<< Prev                  Next >>


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送