通過点 ―Passing Point―
                              長峰 晶

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 二重構造のエアロックをくぐり抜けて、僕と湊はLeMUの中に入り込んだ。酸素を求めて、何度も荒い呼吸を繰り返す。ぐったりしている湊を床の上に横たえ、彼女が咥えていたレギュレーターをその口元から外した。
 部屋の中は真っ暗だったので、腰に装備していたマグライトを点灯し、その明かりでボンベの残量をチェックした。ボンベの残量はかなり乏しい。六気圧のドリットシュトックでは、普通に呼吸していても、おそらく二分程度でエア切れになるだろう。
「ここは……?」
 湊の問いに、僕はライトを持って辺りをぐるりと照らす。内装もなく、機材も見当たらず、ただ、がらんとした空間が広がっている。建設中のLeMUのドリットシュトックで、こんな部屋は一つしかない筈だった。
「第五区画、閉鎖区域の部屋の一つだね」
「閉鎖区域……」
「ドリットシュトックの建造に着手したときに、一番初期に作られたのがHIMMEL。ここは、LeMUの中心を挟んでHIMMELと点対称の位置にある……HIMMELのカウンターウェイトとして作られたブロックだよ」
 ドリットシュトックで一番最初に作られたのが、発電室とHIMMELだ。いずれも、館内の生命維持に関して極めて重要な役割を担っている。
 しかし、天秤の片側にだけ重りを乗せれば、天秤は大きく傾いてしまう。これを避けるために、HIMMELが設置された区画と重量の釣り合いをとるべく早々に構築されたのが、今、僕達がいる第五区画だ。建築途上の現在では、この区画の役割は単に重量の釣り合いをとることだけなので、ほとんど機材は置かれておらず、人の立ち入りも原則的に禁止された閉鎖区域になっていた。
「ヒンメルって?」
「ああ、湊は知らなくても当然か。HIMMELは、LeMMIHシステムの本体となるコンピューターが設置されている部屋だよ。あそこに入るには相当高位のユーザーレベルの権限が必要だし、そもそも存在自体、普通の作業員には知らせてないね」
「すごいな……涼権は、LeMUのことなら何でも知ってるんだな」
 感心したように呟く湊の声に、胸の奥がずきりと痛んだ。
 僕はLeMUの再建当初から、ここで働いている。LeMUの設計に関するありとあらゆる情報を集めたし、普通の従業員では知りようがないLeMU深部の構造についても、この目で確かめている……この手で造り上げている。
 それもこれも、LeMUを壊すためだ。今から十六年の後、自分達がこうして築き上げているLeMUを、壊すためだ。
 全く、正気の沙汰じゃない。
「涼権?」
 黙りこんだ僕を見つめて、湊が心配そうに声を掛けてくる。
「ああ、ごめん。ちょっとぼうっとしてたよ。それはそうと、湊、体の方でどこか具合の悪いところはない?」
「お見通しか。なんだか、体中のあちこちがずきずきするよ。それに……さっきから、頭がくらくらするんだ。頭の奥に霞がかかったみたいで、うまく考えがまとまらない」
「痛みの方は、多分、加圧関節痛だと思う。かなり無茶なペースで加圧したからね」
 僕はそこで、一回言葉を切った。
「それから……頭がくらくらする方は、おそらく窒素酔いだと思う」
「窒素酔い?」
「さっきから僕達、音声変換機も付けてないのに普通に会話できてるだろ? この区画は、ヘリウム・窒素・酸素の混合ガスじゃなくて、ただの空気で加圧されてるんだよ。単なるカウンターウェイトで、普段は人が入ってこないスペースだからね」
 余り知られていないことだが、窒素には麻酔作用がある。窒素酔いの程度を表す言葉として、マティーニの法則と呼ばれるものがあるくらいだ。50フィート、つまり15m深く潜るたびにマティーニを一杯飲んだように酔っ払っていくという法則なのだが、ここドリットシュトックは深度51mなので、加圧ガスが空気だと、かなり強烈な窒素酔いになる。
「涼権は……意外と平気そうだな」
「そうでもないよ。ただ、僕は元々体質的に窒素酔いに掛かりにくいみたいなんだ。それと、ここに来てさんざん潜水作業をやったから、かなり慣れたっていうのもあるかな」
 かなり非科学的な意見だとは思うけど、酒だって飲んでいる内にだんだん強くなる。窒素酔いだって、潜水作業を繰り返せばだんだん耐性がついてくる。
「このブロックと一つ区画を隔てて配管室があるから、とりあえず、そこに行って状況を調べてくるよ。あっちまで行けば、インゼル・ヌルの建設作業本部とも通信ができるし」
「でも、ここと配管室の間って、まだ部屋ができてないんじゃなかったか?」
「うん。でも、建設途中のドリットシュトック全体の構造を補強するために、ここと配管室は非常通路で繋がってる。もっとも……構造を補強するためだから、通路といっても、中には六気圧の水が詰まってるんだけどね」
「それじゃ、だめじゃないか」
「そうでもないよ。水が詰まってるなら、潜っていけばいいんだ。51m潜っていけば、配管室に着くよ」
 何せ今の僕は、一ヶ月以上水の中で潜っていられるダイバーだ。
 僕は心の中でそう呟くと、ボンベを背負った。
 湊はどこかまだ心配そうな顔をしていたが、言葉に出しては何も言わなかった。
 非常通路へのハッチを開く。
 水の中は冷たかったけど、僕はドライスーツを着ていたので、我慢できないほどではなかった。
 空の記憶が収められたテラバイトディスク、その中に残っていた映像を思い出す。
 今僕が行こうとしているのは、かつて武が通った道だ。つぐみのペット、チャミを助けるために、武はこの51mの水の中を、無呼吸で泳ぎきった。
 潜水を始める前に、何度か大きく呼吸を繰り返した。背中にボンベを背負ってはいるが、これを使うつもりはない。
 湊を連れてここを出るときに、湊の呼吸用としてこのエアは残しておかなければならない。
 武は、やり遂げたんだ。今なら、僕にだって。
 僕はもう一度大きく息を吸うと、ハシゴを蹴って、水の中へ身を沈ませていった。

 水面から顔を突き出すと、そこは見慣れた配管室だった。
 見慣れた筈のその部屋に、水面から上がってすぐに奇妙な違和感を感じた。違和感の正体は、静けさだった。館内にくまなくエネルギーを送っている筈のこの部屋が、今は不気味なまでの静寂に包まれている。
 不安を覚えつつも、隣の発電室に移る。非常用のものを除いてほとんどの照明が落とされており、発電機が停止していることが、直感的に理解できた。慌てて、発電機を管理している制御パネルに向かう。幸い、ここはすでに非常用電源に切り替わっていて、画面はきちんと表示されていた。
 どうやら、先の震動を感知して一時的に稼動を止めているらしい。再起動までの時間がディスプレイの隅に表示され、メッセージボックスには、『いますぐ再起動しますか Y/N』という内容のメッセージがドイツ語で表示されていた。
 少し迷った後、発電機がすぐに再起動するようにパネルを操作して、中央制御室に向かった。
 あの事件の時には発電室と中央制御室は水没したブロックで切り離されていたけど、今はそんなこともない。僕は駆け足で中央制御室に向かい、室内の電源供給ラインを非常用電源に切り替え、制御パネルの一部を立ち上げる。そして、館内の状況を把握するためにチェックプログラムを走らせた。
 チェックプログラムが、館内の各所に配置されたセンサーから次々と情報を送り込んでくる。
 僕はそれを横目で見ながら、インゼル・ヌルへの通信回線を開いた。

 51mの水の中を無呼吸で泳ぎきって、僕は再び第五区画に戻った。
 窒素酔いがさらに進行したのか、湊はひどい顔色で床の上にうつぶせに倒れ付していた。その体をなるべく静かに抱き起こすと、湊の頭を胸元に受け止め、耳元に小さく囁いた。
「上と連絡が付いたよ。向こうも大分混乱してるんで、はっきりしたことは分からないらしいけど……今回の事故の原因は、地震と、それに伴う海底火山の活性化によるものじゃないかって言ってた」
 そう言って湊の反応を待ったが、その瞳は宙をさまよい、僕の言葉が聞こえているのかどうかすら疑わしかった。
 僕はそれに構わず、言葉を続けた。
「上で皆が待ってる。帰ろう、湊」
 湊を背負い、配管室から持ってきたロープで彼女の体を自分の体に縛りつける。残量が少なくなったボンベを湊の背中越しに付けて、配管室へ向かう非常通路へと進んでいく。
「お父さん……ごめん」
 弱々しい声が、耳元で聞こえた。
 瞬間、何かが体の奥で弾けたような気がした。
 なんで謝ったりするんだ。
 こんなところまで来ておいて。
 帰る場所があるのなら、初めからこんなところに来なければ良かったのに――!
 ほんの数秒目を閉じると、大きく息を吐いて、何かを振り払うように頭を振った。
 自分が、湊に嫉妬していることを否が応でも思い知らされた。
 落ち着け、と心の中で何度も繰り返す。この気持ちの昂ぶりも苛立ちも、総ては窒素酔いのせいだ。
 おそらくはこの淋しさも、きっと。
「行くよ、湊」
 かすかに掠れた声でそう呼びかけると、湊にレギュレーターを咥えさせる。そして、僕達は水の中へと身を沈めていった。
 人一人を背負っての潜水は、予想以上に大変なことだった。六気圧の水と闇に包まれた非常通路を、這うようにして泳いでいく。体が進んでいくペースが、前の二回に比べてはっきりと遅いことが感じられた。
 闇の中で、不安に心臓が握り潰されそうになる。
 自分が今、どのくらいの位置にいるのかさっぱり見当がつかなかった。
 あとほんの数mくらいのところまで進んだのか、まだ道のりの半ば程度なのか、それすらも分からない。そうしている内にも、体は酸素を求めて、体中のあちこちにシグナルを発する。
 自分の意識が遠ざかりそうになっているのを感じて、背筋の辺りがすっと冷たくなった。
 向こう岸を求めて、必死に手を伸ばすが、その手は空しく水をかくばかりだった。
 自分の口に何かが押し込まれたのは、まさにその瞬間だった。ほとんど無意識にそれを咥え、大きく息を吸い込む。僕はむさぼるように、酸素を求めた。
 それが、湊の咥えていたレギュレーターだと気付くのに、数秒の時間が必要だった。
 僕はさらに二つ息を吸い込んで、湊にレギュレーターを返す。
 さっきまでの苦しさが嘘のようだった。
 僕達はその後も何度か互いにレギュレーターを受け渡し、最後の最後にはエア切れになりながらも、どうにか配管室まで辿りつくことができた。
「助かったよ、湊。命の恩人だ」
 水から上がり、呼吸がようやく落ち着いたところで、湊と自分の体とを縛り付けていたロープを外す。そして、僕は壁にもたれるようにしてしゃがみこんだ湊に深々と頭を下げた。
 全く、我ながら情けない。水の中に入る前は、レギュレーターを受け渡すことを念頭に入れていた筈なのに、いざ酸素切れが近付いてみれば、パニックになってこのざまだ。一緒にいたのが、湊という最高の相棒でなければ、どうなっていたことか。
 そんな僕を見ながら、湊はやや戸惑ったような表情を浮かべた後、苦笑して自分の耳の辺りを人差し指で何度かつつくようなジェスチャーをしてみせた。
 それを見て、自分達がいるのが、ドリットシュトックの居住区であることを思い出した。ヘリウム・窒素・酸素の混合ガスで六気圧に加圧されたこの部屋では、音声変換機無しでは互いの会話すらままならない。
 湊の左手をそっと掴み、その掌に指で字を書く。
 『上へ』――それだけで、充分だった。

 湊を背負って、階段を上っていく。
 51mの高さを階段で上っていくのは容易なことではなかったけれども、酸素に不自由することがない分だけ、さっきよりも数千倍、数万倍もましだった。一休みしたいという衝動を湧き上がってくるのを何度もこらえつつ、結局、僕は一息に非常階段を上りきり、インゼル・ヌルの減圧室まで辿りついた。
 湊の体を、減圧室のベッドに横たえる。
 安堵したような表情で微笑む彼女の左の瞳から、一滴の涙がこぼれた。
 一歩間違えれば、命を喪うところだった。
 湊は、二度とここへは戻ってくることはないだろう。その思いが、僕の心に驚くほど大きな影を落とした。
 僕は半ば無意識に手を伸ばし、そのさらさらとした黒髪をそっと指でかき回した。
 思った通り、その髪はとても触り心地が良かった。
 いくらかの名残惜しさを感じつつも、その髪から手を離し、壁に掛けられたインターホンを使って減圧を開始するように指示を出す。そして、インターホンを元の位置に戻すと同時に、僕は減圧室の外に出た。
 自由の利かない体で慌ててベッドから跳ね起きようとした湊が、ベッドの横に倒れ込む姿がちらりと視界の隅に入った。心の中で謝りつつも、減圧室のエアロックを閉め、外からハンドルを回して耐圧扉を固定する。
――誰も、外には出れないように。
 僕はハンドルをもう一度しっかりと回して、減圧室の外のインターホンを手に取った。
「湊、聞こえる? そっちはもう減圧が始まってる筈だよ。もう、ここは開かない。お願いだから、大人しくそこに座ってて」
 実際にはそこまで減圧は進んでいない筈だが、それでも後しばらく経てば、この扉は気圧差で決して開かないようになる。
「湊はまだ、六気圧での滞底時間はせいぜい三十分程度だよね。でも、僕の体は六気圧の気体で飽和してる。減圧スケジュールが、全然違うんだ」
 その言葉に、湊の顔がはっきりと青ざめた。
「涼権……」
 僕の名前を呼んだきり、湊は言葉に詰まる。
 さっきまでは、耳たぶに唇が触れる距離にいたのに、言葉を交わすことができなかった。
 今はインターホン越しに会話ができるけど、二人の間は減圧室の分厚い窓で隔てられている。なんだかそれが、とても皮肉な気がした。
「私の減圧が済んだら……次は涼権が減圧室に入るんだよな?」
 まるですがりつくような、湊の視線。
 僕はそれを受け止めきれずに、自分の視線を横に外した。
「涼権!!」
「ごめん、湊」
 湊が泣いていた。
 それは分かっていたけれども、声を掛けることができなかった。
 インターホンに僅かに混じるノイズが耳障りに感じるほど、その沈黙は重かった。
「どうして……?」
 涙に掠れる声が、インターホン越しに僕の耳元に響く。
「色々と事情があってね。僕はいつか、ここより倍以上深いところに潜らなきゃいけないんだ。ここは、僕にとって単なる通過点なんだよ」
 湊は答えない。僕は小さく溜息を付いて、言葉を継いだ。
「だから……こんなところで立ち止まる訳にはいかない。今、陸の上に帰る訳にはいかないんだ」
 僕は減圧室の窓越しに見える湊に、小さく頭を下げた。
 お礼を言いたかったし、泣いている湊をこれ以上見つめる勇気がなかったからだ。
「今までありがとう、湊。それと……さよなら」
 僕はインターホンをそっと元の位置に戻すと、湊と視線を合わせないようにして、非常階段に向かって歩き始めた。
 振り返りそうになる心を、必死に抑える。
 そして、51mの長い長い階段を、ゆっくりと降りていった。
 上っていたときには気にならなかった自分の足音が、やけに気ざわりだった。
 階段を降りきって、僕はドリットシュトックの中央制御室に向かう。
 緊急避難命令の発令により、今のLeMUには僕しかいない筈だった。
 ディスプレイに映る『生体反応:1』の文字が、それを裏付けていた。
 僕は制御室の椅子に深く体を沈ませる。
 なんだかとても疲れ果てた気分だったし、事実、体中至るところが疲労しきっていた。

 いつか。
 いつか必ず、ここより倍以上深いところにあるその地に――僕は辿りつく。辿りついてみせる。
 たとえそのために、何を喪うことになろうとも。
 そこにあるのが、自分の総てなのだから。


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