空梅雨 
                              TARO

-2-

 もう少し早目にするつもりだったのだが、予定外の来客で遅れてしまった。その店に着いたのは指定した時間の30分前だった。まず店の外で煙草を吸いながら15分、それから混み始める前に中に入って客として粘っているが、今のところ監視も待ち伏せも見当たらなかった。
 個人的に俺に会いたいという電話がかかってきたのは数日前のことだった。俺は名前も名乗らない怪しい相手に付き合うほど暇ではなく、その旨をできるだけ控え目な言いまわしで伝えたのだが、向こうには平和的かつ公明正大な対話を望む俺の考えは伝わらなかった。最終的にこちらが折れたのは、受話器の向こうの相手の口調が脅迫の色を帯びてきたからだった。
 その代わり、場所と時間はこちらで選ぶことは譲らなかった。一人で行動するということは、何が起こっても援護が期待できない。そのことを頭ではなく身体で知るようになってから長い。少しでも自分に有利な状況を選ぶのは癖だった。
「…しっかし、毎度のこととはいえ、やっぱ恥ずかしいよな…」
 人に会う時に使う店はその都度変えているが、俺の知る限り、この手の場所でコトを仕掛けてきた根性のある相手はいない。目論見が功を奏してきたのか、はたまた俺自身がそこまで重要視されていないのかは分からない。どちらにしろ、後ろ盾を持たない俺には採れる方法が限られていた。決して俺の本意や趣味ではない。
 もとは普通のファミリーレストランだったというその甘味処は混み合っていた。近所に女子高、女子大という特殊な立地条件のため、需要に応じてメニューが特化していき、現在では利用客の内訳が女学生9割に家族連れ1割という店である。
 加えて、メニューに夏季限定のデザートが並んだ初日ということもあり、授業を終えた学生達が一斉に押しかけるという事態は、俺の予想通りだった。上着の内ポケットに凶器を忍ばせたその筋の人間でも紛れ込もうものなら、素人でもその違和感を簡単に見分けることができる。
 潜んでいるのが可憐な美少女工作員だったら逆効果だが、残念ながら俺はそんな人材にお目に掛かったことはない。
 約束の時間から30分が経過した。
 俺は壁際のテーブルについている。店の入り口が見える位置に陣取り、さっきからそれらしい人間を探しているのだが、今のところまだ姿を現していない。気付かない内に着信でも入っていないかと考えてPDAを取り出した。
 店は満員なのに相席を申し込まれる度に「連れが来る予定」と言って断り続けていたので、あちこちから視線が飛んできている。彼女たちの目には、男一人で居座り続ける俺の姿は邪魔で奇異なものに映っているに違いない。
 心の中で謝っていると、PDAの画面に反射している後方の風景が突然遮られた。俺の後ろに誰かが立っていた。
「ここ、空いてるかしら」
 正面に入り口。左に壁。もちろん店に入った時点で一通り客の顔を眺め回していたが、それらしい相手はいなかったはずだ。にもかかわらず背後を取られていた。悔しいので驚きを顔に出さないように振りかえる。
「連れが来る予定なんだ。悪いが他を探してくれ」
 万に一つの人違いの可能性を考えて、この店に入ってから何度目か分からないセリフを繰り返した。
「そう。それは残念。ところで山田さんは元気?」
「川村くんほどじゃない」
 そこに居たのは俺の予想よりも若い女だった。黒のスーツに同じく黒のパンプスという組み合わせは、ごく普通の会社員としては妥当かもしれないが、素顔を隠すためのレイバンのサングラスが見事にTPOを無視している。しかも、あちこちから不審の視線が集中していても、本人は一向に意に介する様子が無い。素顔を晒しているだけ俺の方が不利だなと考えながら、とりあえず席をすすめた。待ち合わせの場所を場末のクラブにでもするべきだったかもしれない。
「あんたが今日の交渉相手か。なんなんだ? この妙な合言葉は」
「私が考えたんじゃないけど、確かに一考の余地があるわね」
「そうかい」
 そう言いながらも、俺は目の前の女に興味を抱いていた。尾行や追跡、その他大きな声では言えない経験のおかげで、人間の容姿についての観察眼には自信がある。その俺の目から見て、サングラスのせいで詳しくは分からない分を差し引いても、どう見ても若過ぎる。俺の外見年齢と大差無いだろう。もっとも、俺の信条は『女を外見で判断するな』である。先入観を持つのは避けた。
「確かに遅刻したのはこちらの落ち度だけど、そんなに怖い顔しなくてもいいじゃない」
 言われて初めて、無意識のうちに相手の顔を凝視していたことに気付いた。
「生まれた時からこういう顔だ、気にしないでくれ」
「生まれた時の記憶があるの?」
「まさか。写真がある」
 正確に言えば写真しかない。「桑古木涼権」の生家にはアルバムがあった。だが俺自身には、遠足で訪れた奈良公園で鹿に追い回されたり、家族や友人に囲まれてケーキに立てられたロウソクの火を吹き消したような記憶は無い。もちろん初対面の相手に言うようなことではなかった。
「顔といえば、その黒メガネは外さないのか? さっきから目立ちすぎて居心地が悪いんだ」
「そうかしら。私が来る前から充分注目を集めていたみたいだけど」
「こういう店で男一人だったからな。ヒマで寂しい奴だと思われたんだろ。そうでなければ『さっさと帰れいつまで粘る気だこの野郎』ってとこか」
「自覚が無いのも困り者ね。本命以外には朴念仁なところまで倉成武の真似?」
「何のことだ?」
 俺の疑問には答えず、女は意味ありげに笑みを浮かべた。話を逸らされたことは分かっていた。今の時点では素顔を見せる気はないのだろう。それよりも問題なのは、俺が武を演じていたことを知っていることだった。
「なんでもないわ。噂通りストイックなのね」
「それは違うな。ストイックな奴ならこんな店を待ち合わせになんか指定しない。こう見えても気は若いから、長年の肩の荷を下ろしたところで第2の青春でも謳歌しようかと思っている」
 一瞬、同じセリフを口実に傍若無人に振舞っている女性科学者の顔が浮かんだ。付き合いが長いと考え方が似てくるのだろうか。
 不吉な予感から我に返ると、女は楽しそうに俺の方を見ていた。俺は咳払いをして、自分で脱線させかけた話を元に戻した。
「さっきから聞いていると、随分詳しいじゃないか」
「ええ。…あ、ごめんなさい、うっかりしていたわ」
 そう言って何故か傍らのハンドバッグを開く。PDA、財布、ハンカチ、ソーイングセットに続いて取り出されたのは、アルミのカードケースだった。
「名刺交換の機会なんて滅多にないから、つい忘れていたの」
「そうじゃない。どうせあんたとはこれっきりだ」
 どうにも調子が狂う。様子を見る限りでは、純粋に俺との会話を楽しんでいるようにしか思えない。騙されるなと自分に言い聞かせて、差し出された名刺を押し戻した。
 ちなみに、俺は名刺を持っていない。ライプリヒを辞めたからではなく、その当時から必要無かったからである。身分こそ正社員扱いだったが、特別待遇の研究員である優の下に配属されたおかげで名刺を必要とするような機会が極端に少なく、持っていなくても困ることはなかった。
 次にかける言葉を探しながら、ぬるくなったアイスコーヒーのグラスに手を伸ばそうとし、その手を途中で止めた。相手の前に何も置かれていないことに気付いたからである。
「そういえば注文がまだだったな。何にする?」
「そうね。私もアイスコーヒーを」
 女はメニューではなく俺の方を見て決めていた。いちいち思わせぶりな態度に反応するのも馬鹿馬鹿しいので深く考えないようにして、店内を忙しそうに歩き回っているウエイターを呼びとめ、リクエスト通りアイスコーヒーを注文した。
 オーダーを済ませると間があいた。相手についての知識を持ち合わせておらず、様子を窺うための雑談も思いつかなかったので、俺は直球勝負に出ることにした。
「そろそろ本題に入ろうか。何か面白い仕事を紹介してくれるらしいが、まずスポンサーを教えてくれないか?」
「あなたも知っていると思うわよ。有名なところだから」
 そう言って女が挙げたのは、日本では馴染みが薄いが、海外ではそこそこ有名な製薬会社の名前だった。ライプリヒの諜報部の部外秘データを信頼するなら、競合性は低いはずである。つまり、キュレイウイルスに関してはシロだということだった。
「ライプリヒがコケた隙をついて一気にシェアを広げたところだな。このご時世に景気の良い話で羨ましいね」
「その通り。今はライプリヒから流出した人材をスカウトするのに大忙しなんだけど、そこの元研究所員の口から興味深い話が飛び出したの。内部告発の首謀者と、その素性について」
「そりゃすごい。独占インタビューでも申し込むのか? 今年のピュリッツァー賞間違い無しだな」
 カマかけには乗らずに軽口で応じる。しかし俺は内心で舌打ちしていた。ある程度予測していたことだった。今まではせいぜいライプリヒの動向に気を付けるだけで済んでいたが、これからは漏れ出した情報の真偽を確かめるために、厄介な客が増えることだろう。
「それも面白そうだけど、一番の目的はヘッドハンティング。手腕と行動力はもちろん、あなたたち自身がそれ以上にとても魅力的。それを人類全体の幸福の為に活かすことを提案するのが、今日の交渉の内容よ」
「…来ているのはあんた一人か?」
「私じゃ不足かしら。ご期待に添えるように色々調べてきたつもりだけど」
 女性の年齢不詳は武器になる。男の場合でも使い方次第だが、若く見られるとどうしても貫禄と迫力に欠ける。そのことを証明するように、わざと一段落とした声で発した俺の問いは、あっさりと流されてしまった。
「断ると言ったら?」
「どうもしないわ。ただ、理由を聞いても構わない?」
「面倒くさい」
 相手の出方を知るために可愛げのない答えを返した。
「当分は失業保険で食い繋げるし、会社勤めは人間関係で肩がこるんでね。再就職するなら大手企業じゃなく、自分の性格にあう仕事を選ぼうかと思ってる。もちろんモルモットは問題外だ」
「つまり、弱小団体で、自分の方法を通せて、しがらみの少ない職場、というのがあなたの希望?」
 何か違うような気がしたが、とりあえず頷いた。
「なら問題ないじゃない」
「…ちょっと待て、今の条件のどこが、あんたのところの会社にあてはまるんだ?」
「あら、私はそこの人間だなんて一言も言った覚えはないわよ。確かにあなたを呼び出したのはあっちの人だけど、平和的に話をつけて遠慮してもらったの」
 一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「名刺、やっぱり要る?」
 勝ち誇るというより嬉しそうに差し出してきた名刺を、今度は受け取った。どうせ偽名だろうから相手の名前は読み飛ばして、明朝体で書かれた所属団体名に目を走らせる。その名前はライプリヒのデータベースを調べた時に見た覚えがあったが、まさか実在しているとは思わなかった。
「…冗談に付き合ってるほどヒマじゃないんだ」
「あら、信じてくれないの?」
「当たり前だ。名刺の百枚ぐらい中学生の小遣いでも作れる」
 俺は受け取ったばかりの、『キュレイ友の会 極東支部』と印刷された名刺をテーブルに放った。
「要らないの? せっかく渡そうと思って、昨日の内に駅前の印刷屋さんで刷ってもらったばかりなのに」
 まさか本気のはずはないだろうが、さすがに返事に窮した。
「困ったわね、信じてもらえないと話が進まないんだけど」
「信じて欲しいなら手っ取り早い方法がある。これなんかどうだ?」
 キュレイ種には赤外線視力、テロメアの回復などいくつかの特徴があるが、最も基本的なのは自然治癒力の向上であり、これはキュレイウイルスに感染しているかどうかを確かめる場合に最も便利な特徴でもある。幸いなことに刃物はすぐ手許にあった。俺はメニューと一緒に運ばれてきた、食器類の入ったバスケットを指差した。
「ナイフかフォーク、好きな方を選ばせてやる」
「えっと…スプーンじゃ駄目?」
 面白ぇどうやるのか見せてもらおうじゃねぇか、とは言わず、俺は一本のスプーンをつかみ出した。普通のではなく、スイカを食べる時ぐらいしか使わない、先端がフォークのように割れた独特のアレである。ここのメニューにスイカがあったのかとか、今時こんなものを使う人間がいるのかという疑問が頭をよぎったが、この際気にしないことにした。
「どうした? 金属アレルギーだったら爪楊枝でもいいぞ」
「ごめんなさい、やっぱりイヤ。わざわざ痛い思いをするなんてごめんだわ」
 その意見には俺も賛成だった。せっかくテーブルの上にズラリと並べた食器類は無駄になったが、もとより話の本筋に関係がないので、俺はため息をついて不毛なやりとりを中断することにした。
「…OK、分かった。百歩譲って信じよう。その『友の会』が俺たちになんの用だ?」
 俺は食器をバスケットに戻しながら訊ねた。
「もちろん勧誘よ。どうかしら」
「その場合のこちらのメリットは?」
「私たちは人数こそ多くないし、社会的に認知されているわけでもない。でも集まっていることだけで牽制にはなる」
「俺には一網打尽のリスクを負っているようにしか見えない」
「少数精鋭で行動してきたあなたたちの意見は理解できるわ。でも私たちには多人数で行動するためのノウハウがある」
「そうかい。じゃあ返事を聞かせてやろう。断る。今まで俺たちは俺たちだけでやってこれた。だからこれからもあんた達の協力は必要無い」
「これからもそうだとは限らないわ。守る対象が増えた分、苦労も増えるんじゃないの?」
「自衛だろうが報復だろうが、苦労することに変わりはないさ」
「まあ怖い」
 冗談に混ぜて放った牽制はあっさり受けとめられた。
「もうひとつ。何故今になって声をかけた?」
「あなた達が忙しそうだったから。この17年間の活動は有名よ」
「その通り、猫の手も借りたいぐらいに忙しかった。その時に誘われたら喜んだだろうな。それが理由だ。一番大変な時期に静観を決めこんで、コトが済んでから親切面して近寄ってくるような奴らは好きになれない」
「そう言われると返す言葉も無いわね。じゃあこういうのは? あなた達の手が空いたところで、次は私たちに力を貸して欲しいの。人手不足なのよ、慢性的に。もちろん報酬ははずむけど」
「それは内容次第だな。何をさせる気だ?」
「聞いてもらうだけでも損にはならないはずよ。身内の恥をばらすようだけど、私達の組織も一枚岩じゃないの。キュレイウイルスの感染者は確かに犠牲者かもしれない。だからといって善人や人格者の集団じゃないし、それぞれの思惑も違うわ」
「俺が私利私欲を持たない立派な人間に見えるか?」
「彼らを基準にすれば、誰だって思慮の深い平和主義者よ」
 彼ら、というのが誰を指すのか分からないので、口振りから判断することにして、話の続きを促した。
「元をただせば、私を含めて極東支部の会員のほとんどは、17年前の事件で感染したの。きっかけはティーフ・ブラウ。あの殺人ウイルスのせいでどれだけの人が命を落としたか、今更言うまでもないわね。天罰なのか知らないけど、ウイルスの猛威は、予め防護策を講じていたライプリヒの人間に対しても平等だった。そしてある時、自分が感染していることを知って絶望した研究所員が、とんでもないことを考えついたの」
 死の恐怖にさらされて正常な判断力を失った人間なら当然の発想だろう。他人のことを言う資格はないが、俺たちの場合は少なくとも自業自得ではなかった。
「Cure-All。全てを癒すと書いて万能薬、とはよく言ったもんだ」
「そう。幸か不幸か、ティーフ・ブラウを克服できるかもしれない鍵を彼らは手にしていた。もっとも、抗体とキュレイ、あわよくば両方のデータを得るのが目的だったみたい。さっそく精製されたワクチンを投与されたのは、その研究所員だけじゃなかったのだから。表向きは人命救助のため、その実は人体実験のため。原因不明の奇病と騒がれているうちなら、死因が不明でも目立たないと考えたんでしょうね。知ってる? あの事件の犠牲者には、キュレイウイルスの拒絶反応で命を落とした人々が数に含まれているの」
「そして奇跡的な確率で助かったうちの一人があんたってワケか」
 俺と優はインゼル・ヌルに戻ってから徹底的に調べられ、その時にキュレイウイルスに感染していることが明らかになった。もしもマスコミが『崩れゆく海中テーマパークからの生還者!』と書きたてて世間の耳目を集めてくれなければ、かつてのつぐみ同様、そのまま社会的に抹殺されていたかもしれない。
 代わりというわけでもないだろうが、精密検査の名目で失血死寸前まで血液を取られたりした。目的はだいたい予想がついたが、成果を挙げたという話も聞かなかったので、てっきり失敗に終わったと思って放置していたのである。
「その通り。ライプリヒにとっての誤算は、TBの正体の隠蔽に手こずり過ぎたこと。私たちというせっかくの貴重なサンプルも、事後処理に追われたライプリヒでは完全に管理しきれなかった。自然治癒だと思って退院した私が事実を知ったのはしばらく経ってから。もしも『友の会』の人が声をかけてくれなかったら、何も考えずにライプリヒの病院にのこのこ現れて、すぐさま捕まっていたでしょうね」
 その時声をかけた人物こそ『キュレイ友の会』の創設者だと語って、彼女は言葉を区切った。丁度アイスコーヒーを運んできたウエイターを気にしているのかと思ったが、彼が戻って行った後も無言のままだった。しかし、何故か俺は話の続きを促す気になれなかったので、手持ちの知識から『キュレイ友の会』について考えることにした。
 名前こそ冗談のようだが、名前以外には現れた時期しか明らかではないという謎めいた組織である。てっきり取るに足りないダミー団体だと思っていたが、最近になるまで構成員が一人も分かっていなかったという点が目を引いた。以上のことはライプリヒのデータベースを無断閲覧して得た情報だが、そこから先のことは、情報収集を行っていたライプリヒが解散してしまったので分からない。また、俺たちに直接関わってこない限りは、こちらからも接触しようという予定はなかった。
「…ごめんなさい、昔のことを思い出していたの。ええと、どこまで話したかしら」
「あんたが会に入ったところだ」
「そうそう。同じ経緯で入会した人は私だけではなかった。私たちは自分の体に起こった異変について説明を受けて、できるだけそのことを隠すように言われたわ。一体どうやったのか今でも分からないけど、医療機関で受ける健康診断の結果まで煙に巻いてくれた。相互援助というより、一方的に助けてもらうだけだったの。おかげで私たちは誰一人としてライプリヒに捕まることなく、平穏な生活を送ることが出来た。…それが原因だったのかもしれないわね、皮肉なことに」
 一息ついてアイスコーヒーを口に含んだのを見て、俺は何故か、この話がかなり不愉快な内容になりそうな予感を感じていた。
「老いず死なない体。それが実際に何をもたらすかを考えなければ、誰だって無邪気に憧れるでしょうね。私たちには小町さんのような体験が無かったけど、さらに彼らには常識や倫理観が欠けていた」
「何が言いたいんだ」
「自分達が『特別』であると考え始めたのよ。天文学的な確率で生き残った、ていう点も自尊心をくすぐるみたい。迫害や人体実験に対する正当防衛ではなく、単なる子供じみた優越感。彼らの言動は徐々にエスカレートしていったわ。我々こそ新人類だ、なんてね」
「…ンなことを考えてたのか」
 欲や信念に駆られて端迷惑な行動に走るアホな連中は何度も見てきたが、これはその中でも極めつけだった。不可抗力とはいえ、俺や優の血液から精製された抗体が、そんな連中を助けたのだとは認めたくない。
「誤解しないでね。そんなのはごく少数で、大部分の意見はあなたたちに理解してもらえる範疇だから。彼らはこれまでは吠えるだけの無害な少数派だった。でも、ある時とんでもないことを言い出したの。名付けて『ユートピア計画』。キュレイの、キュレイによる、キュレイのための世界を建設するそうよ」
『理想郷』の名を掲げた計画にはロクなものが存在しない、とは大学で受講した一般教養科目の講師の持論で、俺もその意見に賛成だった。近年では大国が後進国を相手に侵略戦争を起こす大義名分として使用されているし、同様の例は歴史上にいくらでもある。ウイルス兵器を扱う海底研究所を隠蔽するための施設は『ライプリヒ主催のユートピア』だったが、これはさすがに俺の偏見だろう。
 そこまで考えて、LeMUでの事故とキュレイのため云々のくだりが同時に頭をよぎり、直感的に最悪のケースを思い浮かべてしまった。
「…その計画の内容、出来れば聞かずに済ませたいんだが」
「さすが勘がいいわね。多分その想像であってるわ。簡単に言えば、17年前の事件の拡大再生産」
「ティーフ・ブラウは根絶されたはずだ」
「TBに限らないわ。キュレイ種の免疫力があればどんな致死性ウイルスでも構わない。そしてここからが本番」
「…死にたくなければ、キュレイ漬けの抗体を接種するしかない…」
「ええ。究極の二者択一を乗り越えて生き残った人々は、『死』の恐怖から開放され、老いることもなく幸せに暮らしました。…永遠に」
 店内の喧騒が急に遠くなったような気がした。こみ上げる吐き気を堪えてポーカーフェイスを保つためには、何の根拠も無い作り話かもしれないと自分に言い聞かせる必要があった。
「興味深い話だったが、質問がある」
「どうしてそこまで知っていて彼らを放っておくのか、でしょう?」
 俺は頷いた。
「それ以来姿を消してしまって、音信不通になってしまったからなんだけど、実は最近になってもう一つ事件が起こったのよ。キュレイ感染者を集めただけの団体だからごたごたなんて日常茶飯事だけど、これは別格。彼らの計画が中断せざるを得ないほどだったんだから。…私たちのメンバーの一人が亡くなったの」
「それはご愁傷様。でもそれが…」
「重要問題よ。彼らにとっては特に。亡くなった人はもちろんキュレイの感染者だったわ。少なくとも生前は」
「妙な言いまわしだな」
「そうとしか言えないわ。それが事実なんだから。…キュレイウイルスに感染していたにも関わらず、その人は亡くなった。これが何を意味しているか分かる?」
「キュレイだって無敵じゃない。俺だって首を切り落としたりすれば御陀仏だ」
 これは優の仮説の受け売りであり、実際に試したわけではないが、多分間違ってはいないだろう。そんな実験に志願する酔狂な人間がいるはずもなく、立候補して被験者第1号になってみないかという冗談を優から何度か聞かされたことがある。俺は冗談だと信じている。
「そんな物騒なことじゃないわ。死因は肺炎。風邪をこじらせたみたい」
「そいつは…」
 笑えん冗談だな、と言おうとして、その言葉を途中で飲み込んだ。サングラス越しでも分かる程の負の感情を感じ取ったからだった。死を厭うのは当たり前の感情だが、彼女の表情には、俺たちのような「普通の死に方」が不可能になってしまった人間に共通する何かがあった。
「…それにしても信じられないな。今の話は本当なのか?」
 風邪は症状であって、病気ではない。しかし、ティーフ・ブラウさえ駆逐したキュレイウイルスが肺炎に対して無力だったとは、この17年間無病息災だった俺には考えにくい。
「もちろん。私たちのメンバーには腕の確かな医師もいるわ。それでここからが肝心なんだけど、彼の診断によれば、亡くなった人からはキュレイウイルスが検出されなかった」
「…どういうことだ?」
「原因は究明中。ただ、こういう言い方は不謹慎だけど、その人の死が抑止力になってくれているの。感染者の体からキュレイウイルスを消し去った原因がわからないままでは、計画を実行するのは危険だってことぐらいは理解できるみたい」
「それは一安心、と言っていいのか?」
「とりあえずはね。そこで話が最初に戻るの。お願いしたいのは彼らを止めること。考えてみる気になってくれた? 人類を救ったヒーローとして名前が残るわよ」
 話すべきことを全て話し終えて喉が渇いたのか、女は自分のアイスコーヒーに再び口をつけた。それを見て俺も自分のカップに手を伸ばしたが、すでに中身は空だった。
 上着のポケットをまさぐってタバコを探した。吸わないと落ちつかないのではない。初対面の相手の話を全てを信じるほど馬鹿ではないので、与えられた情報を吟味するには時間が必要だった。しかし店の外で最後の一本を灰にしていたことを思い出し、代わりにテーブルの端に立てかけられていたメニューを手に取った。
「何か注文していいか?」
「それなら私も。そうねぇ…この店のお薦めは何?」
 我ながら強引な話題転換だったが、あっさり乗ってくれた。目的はだいたい分かったが、何を考えているのかはまだ理解できない。
「氷アズキが今日から解禁だ。凍らせる前の水に隠し味を加えるのが人気の秘密で、甘さも量も絶妙なアズキは契約農家から仕入れている無農薬栽培のものを使用。追加のトッピングもバリエーションが豊富、頼めばテイクアウトにも応じてくれる」
 メニューを覗きこむ振りをして考え事の為に頭を回転させていた俺は、この店を選ぶ時に参考にしたガイドブックの文章を適当に引用した。
「へぇ…」
 意外そうにこちらを見てから、時間がかかりそうだからまた今度、という答えが返ってきた。確かに混雑している上に同じ物を頼んでいる客が多い。それ以外にも何か意味深な響きが混じっていたような気がしたが、残念ながら俺はサングラスをかけていなかったので、気付かれないように表情を盗み見ることは出来なかった。
 手を挙げてウエイターを呼んだ。俺は昼にホットコーヒー、そして今まではアイスコーヒーを飲んでいたので、今度はレモンティーを選んだ。飲んでばかりだが、食べ物を注文する気分にはなれなかった。
「ねぇ、こういう店にはよく来るの?」
 オーダーを済ませてから、不意にそんなことを聞かれた。
「いや、全然。俺のことは調べたんじゃなかったのか?」
「客観と主観は食い違うものよ。それに詳しいみたいだったから、誰かとよく来るのかなって思ったの。ほら、男の人って、デートになると得意そうに薀蓄たれるじゃない」
 同意を求められても、男とデートをした経験を持ち合わせていない俺には、その見解が妥当なのか知る由もない。判断の材料を探して周囲を見まわしてみた。女子高生、女子大生、そして彼女達のお相手と思われる若干の男子で埋め尽くされた店内の様子を確認して、視線を再び向かいの席に戻す。
「デートに見えるでしょう?」
 聞かれたので、渋々頷いた。ここにいる目的や薀蓄の件はともかく、客観的にそれらしく見えることは否定できない。ヘッドハンティングにデート商法を利用するのが合法なのか、残念ながら俺には分からない。消費者保護センターに駆け込めば相談に乗ってくれるのだろうか。
「そのサングラスに目を瞑ればな。欲を言えば、話の内容に色気が足りない」
「この後の予定を考えて手短にまとめてみたの。次の機会には楽しい話題を用意しておくから、期待してて」
「へぇ、夜は本命とデートかい?」
「あなたのことよ。お誕生日のパーティーを開いてもらえるんでしょう? いつまでも引きとめちゃ悪いわ」
「…やっぱり詳しいじゃないか」
 事前に調べただけにしては妙に正確すぎる情報だったが、最早俺はいちいち警戒する気にはなれなかった。話の主導権を握っているのは相手であり、その事実は不快ではなく、気の置けない人間と会話を楽しんでいるような錯覚さえ感じていた。
「他にもあるわよ。例えば、どんなに『仲間』のことを想っているか。田中博士にも告げずに一人でここに来たのは、皆を巻き込みたくなかったからでしょう?」
 こう言われて冗談で返せないのが俺の限界なのかもしれない。前半はともかく、後半は図星だった。
「…好きなように解釈してくれ。あんたの頭の中にまで口出しする気は無い」
 我ながら可愛げの無い返事だと思ったが、気の利いた切り返しが思いつかなかった。ところが、そんな反応さえお気に召したらしい。俺はそれ以上何か言う気も起こらず、微笑を浮かべている相手から目を逸らした。
「気を悪くしたのなら謝るわ。…正直に言うとね、あなたたちが羨ましい」
「羨ましい?」
「ええ。今でも考えるのよ。もしもあの時、人を呼びに行かずにあなたに付き添っていたら、私も今頃そちら側に居たのかなって」
 17年前、記憶喪失の俺が復学の再に受けた知能テストの結果は決して悪くなかった。それからも適度に緊張感のある生活を送ってきたおかげで、理解力や判断力にはそこそこの自信がある。しかし、今の言葉が俺の脳に浸透するには、多少時間がかかった。
「あんたは…いや、君は…」
「今日のところは私が奢るわ。会えて嬉しかったから、そのお礼」
 かけるべき言葉を思いつかないうちに、彼女が伝票を手に席を立ち、初めてサングラスを外した。その下から現れた瞳がまっすぐに俺の姿を映す。
「出来ればいい返事を期待しているわ。じゃあね、涼権クン」
「…っ」
 立ちあがろうとした俺を人影が遮った。レモンティーをトレイに載せたウエイターだった。仕方なく後を追う代わりに呼び止めようとしたが、名前が思い浮かばなかったため、タイミングを逃してしまった。テーブルの上に置かれたままの名刺を見ればいいことに気付いた時には、すでに彼女の姿は無かった。




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