リズミカルに動かしていた手の動きを止めて、ほんの少しの間、その小さな背中を見つめた。初めて会った時には明らかに見上げていた筈なのに、今ではこの人との身長差はほとんどなくなってしまった。
 まあ、まだ僕の方が若干小さいのだけれども。
 おかに上がるたびに、自分の体が大きくなっていくのを感じる。陸の上は空気が軽い。
 普段、中に押し込まれているものが、外に溢れそうになるほどに。
「どうしたの、涼権君?」
 突然手が止まったことを不審に思ったのか、落ち着いた柔らかな声が静かに問い掛けてくる。
 優はきっと、この人からは外見以外はほとんど受け継がなかったんだろうな、などと本人にはとても聞かせられないようなことを思いながら小さく肩を竦めてみせる。
「いえ、何でもありません。気にしないで下さい、田中先生」
 そう言って、再びゆっくりと手を動かし、肩甲骨の裏にじわりと指を押し込んでいく。
 田中先生は実に気持ち良さそうに深く息を吐いて、静かに目を閉じた。


通過点 ―Passing Point―
                              長峰 晶


2018年2月 春香奈 十八歳  桑古木 十六歳

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 しばらく手を動かし続けた後、ピアニストが曲を演奏し終わるときのように、僕は微妙な余韻を持たせつつ、田中先生の小さな肩から手を離した。
 自分で言うのもどうかと思うけど、肩揉みに関してはかなりのテクニックを持っているように思う。田中先生が冗談半分に『指の魔術師マジシャン』などと呼んだりするけど、残り半分はかなり本気なんじゃないだろうか。
 桑古木涼権は、きっとしょっちゅう両親の肩を揉まされている子供だったのだろう――おそらくは。
 今度、機会があったらピアノの鍵盤の上に手を載せてみようと思う。
 もしかしたらこの指は、本人も意識しない内に、素敵な音楽を奏でてくれるかもしれない。
「ああ……気持ち良かった。涼権君、どうも有り難う」
「どういたしまして」
 田中先生はしばらくソファの下の床に――経験者には分かるだろうけど、肩を揉まれるには便利なポジション――座ったままでいたが、やがてゆっくりと立ち上がった。その身ごなしはとても優雅で女らしい。優のきびきびとした動きとは百八十度異なる趣きに、遺伝の不思議というか、限界を感じてしまうのはきっと僕だけではないだろう。
「涼権君、コーヒー淹れるけど飲まない? ちゃんと豆を挽くわよ」
「コーヒーって……もう、結構良い時間ですよ。僕は明日も休みですけど、田中先生は仕事があるんでしょう?」
「良いから良いから。折角、涼権君が泊まってくれるんだから、ちょっと話もしたいし」
「それなら構いませんけど。あ、でも、コーヒーは甘くして下さい」
 優にはさんざん莫迦にされるのだけれども、未だにあの苦さには馴染めない。
 田中先生は優のようにぶつぶつ文句を言うこともなく、慣れた手付きでコーヒーの準備をしてくれた。
 自分のコーヒーはブラックで、僕のコーヒーにはミルクをたっぷりと、角砂糖を二つ。ちょっとためらった後、三つ目も入れてくれた。こうなるとほとんどコーヒー牛乳で、僕でも全く抵抗無く飲むことができる。
「ごめんなさいね」
「え?」
「優の……春香奈のことよ。久々に涼権君が帰ってきたのに、ちっと構いもしないで」
「ああ、そんなことですか。仕方ないですよ。小さなユウが相手じゃ、張り合う気もしません」
 小さなユウ――田中優美清秋香奈は、この秋に三歳になる。つまり、今はちょうど二歳半くらいだ。
 何でも、優、田中優美清春香奈が『一人でも眠れる』と言い出したのもその位の年頃だったという。
 三つ子の魂百まで。その当時から、自立心は強かったらしい。
「ユウが一緒に寝てくれるのも今の内だけだ、ってしきりに言ってましたからね」
「まあ、分かるわ。うちは母娘二人だけの家庭だったでしょう? それなのに突然、『一人でも眠れる』なんて言い出されて、あのときは私も随分動揺したものよ」
「動揺、ですか」
「それはもう。『優は平気かもしれないけど、お母さんが寂しいから、お願いだから一緒に寝てちょうだい』って、べそをかきながら頼み込んだもの」
 しみじみとそう呟いてコーヒーを啜る田中先生を、無作法とは思いつつも、しげしげと見つめてしまった。
 目の前のこのクールな女性にそんな過去があったとは到底思えない。歳月は人を変えるとはいうけれども、それはちょっと、いくらなんでも想像の地平の彼方だ。
「小さいときからあの子はそんな感じだったから……何だか、甘やかすタイミングを逃してしまったような感じで、ちょっと寂しかったりもするのよ」
「はあ」
「だから、涼権君にはちょっと期待してたんだけど」
「は?」
「これが、予想に反してちっと甘えてくれないのよね」
 そういって、田中先生はわざとらしく溜息をついてみせる。
「陸に上がったときはいつも泊めてもらってますし、勉強まで見て頂いています。これ以上は、ちょっと甘えようが無いと思うんですけど」
 僕が『田中先生』と彼女を呼ぶのは、ゆきえさん、と名前で呼ぶのが気恥ずかしいせいでもあるけれども、ここに立ち寄るたびに勉強を教えてもらっていることに起因する。優に教わっても良いのだけど、文系の優に対し、僕の進学希望は理系なので、どうしても限界があるのだ。
「そうじゃなくて……前から何度も言ってるでしょう? 勤労少年も良いけど、この家に」
「その気持ちは嬉しいんですけど、それは」
 田中先生の言葉を遮って、きっぱりと首を振る。
 今の仕事を辞めて、この家に住み、学校に通う。田中先生から、これまで何回も受けた提案だ。
 だけど、それを受け入れる訳にはいかない。
 田中先生にそこまで迷惑を掛ける気にはなれなかったし……それに、今の職場で働いているのは、それなりの理由がある。
 どこか寂しそうな、悲しそうな。そんな田中先生の眼差しに耐えかねて、視線を外した。
 不自然なほどの、胸苦しさを感じる。田中先生は小さく溜息をつきながら、二杯目のコーヒーを自分のコーヒーカップに注いだ。白い器に、黒い液体が満たされていく。その様子を、僕はぼんやりと見つめた。


……気が付くと、僕は仄暗い世界の中にいた。
 小さな泡が、上に向かって流れていくのが見える。それを見つめている内に、僕は自分がどこで何をしていたのかを思い出した。半ば無意識に腕時計に目を落とし、胸苦しさの理由を知った。
 重りバラスト替わりにしていた建築廃材から手を離す。そして、水面に向かってゆっくりと浮上していった。
 水面から顔を突き出し、大きく呼吸をする。何度か深呼吸を繰り返して、ようやく周りを見つめる余裕を取り戻した。
 部屋中を走る、無数の配管。脈打つ心臓のように、そのパイプは全館に電気や水などのエネルギーを供給し続ける。
 ふと見ればその部屋の壁際に、どこか苛々とした表情でこちらを見つめる女の子の姿があった。
 LeMUのロゴが入った水着を着て、肩に引っ掛けるような格好でパーカーを上に羽織っている。その手が頭の横に上がり、人差し指で自分の耳の辺りを何度かつつくようなジェスチャーをしてみせた。
 僕はその意味を正確に読み取り、床に置いていた音声変換機を耳に付け直した。
 ヘリウム・窒素・酸素の混合ガスで六気圧に加圧されたこの部屋では、これ無しでは互いの会話すらままならない。
「やあ、湊。いつの間に来てたの? 全然気付かなかったな」
「そりゃそうだろ。私が配管室ここに入った瞬間に、涼権は水の中に潜ってたからな。気付く筈が無い」
 いつもながらの男らしい口調で、湊は肩を竦める。
 言葉遣いはこんな感じだが、彼女はこれで結構女らしいところもあったりする。優みたいに十人が十人振り返るほどの美人じゃないけれど、充分に可愛らしい顔立ちだし、触り心地の良さそうなさらさらとしたとても綺麗な黒髪を持っている。ここに来る前は伸ばしていたらしいのだけど、作業の邪魔になるというのでばっさり切り落としたという。そのことを、少し残念に思う。
 彼女の名前は、梶谷湊。苗字のカジタニ、の方は問題無く読むことができたが、下の名前のミナト、というのは不勉強で読めなかった。もっとも、初対面のときは彼女も僕の名前を盛大に読み間違えたから、お互い様だ。
 ここ、建築中のLeMUのドリットシュトック――水深51m、六気圧の世界――で現場作業員として働く僕の同僚であり……相棒バディでもある。
「僕はどれくらい、潜ってたのかな」
「きっかり、三分四十五秒。涼権じゃなかったら、溺れたと思って飛び込んでたと思う」
「ふうん……記録更新だな。僕としては、最終的には四分越えが目標なんだけど」
「何を呑気なことを。大体、時間も計らずに潜ってたのか? 無用心な」
「ちょっと、考え事をしてたからね」
 僕の言葉に、湊は呆れたように顔をしかめた。
 まあ、その気持ちは分からなくもない。水中では、ほんの些細なことが命取りになることもある。そのことを、僕はこの建築現場で何度もEVAを行う内に自然と学んだ。元々、EVAは extravehicular activityこと船外作業の略語で、基本的に宇宙船の外での作業を示す言葉だけど、ここ建築途中のLeMUではLeMUの外での海中の潜水作業を総称して、EVAと呼んでいる。
 そう、ここでは現場作業員はしばしば潜水作業に駆り出される。
 復旧予定日まであと八ヶ月となった現在でも、ドリットシュトックはまだ全体の25%しか完成しておらず、食べかけのバームクーヘンのような有様だ。それも、その25%は構造物として組み上がっているだけであり、内装の整備や各種アトラクションの立上げはこれから実施することになる。
 それは、構造自体は組み上がったエルストボーデン、ツヴァイトシュトックもほぼ同様で、素人考えでは、とても後八ヶ月で復旧させることはできるようには思えないのだが……陸の上では、是が非でもこの納期を守ろうとしている。
 無理が通れば道理が引っ込む。自然、そのしわ寄せは現場の方に持ち越されているという次第だ。僕達のような未成年のアルバイトが潜水作業に駆り出されている辺りに、その切実さが伺える。
 そして、潜水作業の際には僕と湊がコンビを組む。僕は湊の相棒バディであり……そんな僕が、水中でぼうっとしているのは、彼女としては見過ごせない事態であることは間違いない。
「それはそうと、涼権、ちょっとそっちに行ってもいいか?」
「えっ?」
 僕が良いとも悪いとも言わない内に、湊は肩に引っ掛けていたパーカーを床に落とし、僕の横の水面に飛び込んできた。
 彼女の動きは、とても滑らかだ。
 飛び込んだ際にも、水面上にはほとんど飛沫が上がらなかった。
「どうしたのさ、一体」
「ちょっと、人生の先輩に相談したいことがあってな」
 湊のその言葉に、今度は、自分の顔が自然としかめられるのを感じた。
 湊は、僕の一歳上の十七歳だ。ただ、僕が諸般の事情により実年齢の二歳上の十八歳と年齢詐称をしているために、彼女は僕を年長者とみなしている。
 初めの頃はさん付けで呼ばれ、さらに敬語まで使われて大いに閉口したのを思い出す。湊が体育会系の出身だったことも災いして、今のように気兼ねなく喋ってもらうようになるまでには、それなりの時間と手間が必要だった。
「相談って?」
 意識して表情を戻すと、湊にそう水を向ける。
「実は、来週、両親がこっちに来ることになった。『話し合いたい』なんてしおらしいことを言っているが、連れ戻す気が満々なのはどう見ても明らかだ」
 そういえば、湊はただいま家出中の身だった。
 住み込みで働けて高収入、かつ、そう簡単には連れ戻されないところ――そう考えた挙句に選んだのがここ、LeMUの建設現場だというのだが、その行動力と無鉄砲さには呆れかえるばかりだ。
 住み込みと言えば聞こえが良いが、全体の25%しか完成していないドリットシュトックには娯楽施設はおろか、ろくな居住区すらない。基本的に現場作業者は会議室で雑魚寝を余儀なくされ、プライバシーも何もあったものではなかった。
 六気圧に加圧され、常に身体を圧迫する空間。海面下51mでは、太陽の光もろくに届かない。度重なる海中での潜水作業と、それに付きまとう死の恐怖。そして、六気圧の気体で飽和した体は、長時間に渡る減圧処理無しには、地上に帰ることすらできない。
 それでも湊はこれまで充分に良くやってきたと思うが、さすがに最近では、ストレスが限界に近付いているように見えた。
「のこのこ会いに出向いて良いものか、正直、かなり迷っている」
「でも、向こうから『話し合いたい』って言ってきてるんだよね? だったら、この機会にじっくり話し合ったら良いんじゃないかな。どうせ湊のことだから、ろくろく話し合いもせずに、勢いで飛び出しちゃったんだろうし」
「見てきたようなことを言うなよ」
「でも、当たってるんじゃないの?」
 僕の言葉に、湊はややむっとした顔で黙り込んだ。まあ、図星だったんだと思う。
「あの石頭の親父と話し合えと? 今は二十一世紀なのに、明治維新の辺りで思想が止まってるんだぞ」
「でも、話し合わなきゃ何も解決しない。それに、湊のお父さんはともかく、お母さんやお兄さん達は基本的に湊の味方なんだろ? それなら、何とかなるんじゃないかな」
 湊には三人のお兄さん達がいて、いずれも彼女にはとても甘いらしい。ちなみに彼女の言葉遣いは、男所帯で育ったが故の弊害なのだそうだ。
 男が三人続いた後に生まれた待望の娘だったということもあって、かなり大事に、湊自身に言わせれば過保護に育てられてきたという。ここに来る前に通っていたのは、お嬢様学校の鳩鳴館女子高校だ。優の後輩に当たる訳だが、どうも、僕の近隣のサンプルを見る限り、鳩鳴館女子がお嬢様学校というのはかなり疑わしいような気がする。
「減圧に結構掛かるから……陸に上がるんだったら、もう余り時間はない。減圧室に、入らないと」
「だろうね」
 飽和潜水からの減圧時間は、用いる減圧表によっても異なるが、非常に大雑把には以下のように求められる。すなわち、深度をフィートに換算し、百で割った値に一日を足すのだ。ここ、ドリットシュトックの場合は深度51mだからフィートで換算すると約170フィート。百で割って一日を足すと、2.7日……約三日間掛かることになる。
 ちなみに、稼働中のLeMUは全館が六気圧で加圧されていたが、建設作業中は上下の行き来が殆ど無いので、それぞれの深度に応じた加圧がされている。エルストボーデンは深度17mだから約三気圧、ツヴァイトシュトックは34mだから四気圧強。
 これは、作業者の身体への負担軽減と、加圧に要する費用を削減するためだ。特に、エルストボーデンでは加圧ガスは空気で良く、高価なヘリウムを使わずに済むという利点がある。
「非常階段でインゼル・ヌルの減圧室まで上がっていくのは、結構面倒なんだが」
「そりゃ仕方ないよ。六気圧で地上付近まで加圧されてるのって、あの非常階段だけなんだから」
 各階で室内圧力が異なるので、エレベーターは人間以外の輸送、例えば機材の搬送等にしか使用できない。
 僕は適当に相槌を打ちながら、五日後に控えたEVAの作業スケジュールを思い出していた。
 湊が陸に上がってしまうと、作業員の数が不足する。おそらく、ドリットシュトックにサポート要員を残しておく余裕はないだろう。そのことに不安を覚えないでもなかったが、文句を言う訳にもいかなかった。
「涼権」
 考え事をしていたところに突然背後から声を掛けられて、咄嗟に返答ができなかった。
 湊は背後から手を回して僕の手を掴み、頭を僕の背中に押し付けてくる。
 ただそれだけのことなのに、僕の体は硬直し、言葉を失った。
「私は……涼権さえそう望むなら、ここに残っても良いと思ってるんだ」
 僕はますます言葉に詰まった。湊がここに残るかどうかは、彼女の気持ち次第だ。僕なんかがどうこう言おうが、そんなのは彼女の判断には関係ない……筈なのに。
 気まずさを伴った沈黙が、空間を満たす。僕は熟考の末、口を開いた。
「何言ってるんだよ。御両親と、仲直りする折角のチャンスじゃないか。湊は、陸に上がらなくちゃ」
 背中越しに小さく、そうか、という呟きが聞こえたような気がした。
 湊は僕の背中から離れると、水面から配管室の床に這い上がる。そして、床に落ちていたパーカーを拾い上げると、そのまま何も言わずに立ち去っていった。



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